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「喉を匕首で突いて、死のうとしたやつがいた」

「どこで、です?」

「馬鹿野郎!ここで、だ」

逆さ十字架の下で、血まみれの若い男がみずから喉を匕首で突いて虫の息で倒れていたという。

「医者を呼んで母屋で手当てをしてるが、・・・たぶん助からんだろう」

と岡埜は言った。

母屋の女中部屋でうたた寝していた女中のお米が、四ツを過ぎころ離れ座敷の悲鳴を聞いて駆けつけてこの惨劇を知り、明神下の番屋に届け出たという。

事件の時にこの屋敷にいた全員を母屋の奥座敷を集めてあるという岡埜のあとをついて行くと、岡埜は黒門町に向かって、

「何をぼやぼやしている。とっとと生首をさがしに行ってこい!」

とどやしつけた。

奥座敷の豪華な五段飾りの雛壇の前に、徳兵衛のひとり娘の那美、年増女中のお米、手代の浩介と丁稚の信吉、少し離れたところに用心棒と自称する浪人者の秋山庫之助の五人がかしこまって座っていた。

あとは日暮れ前に帰った通いの女中がふたりほどいるという。

事件のあらましをたずねる岡埜に、

「夕餉が済みますと、急に主が五ツごろに客があるかもしれないが先に寝ていいよとおっしゃいました」

それで、お米は台所横の女中部屋に引き取った。

「それで客は来たのかい?」

「いえ、それがわかりません」

離れには窓というものが無く入り口は母屋の玄関の並びにあるだけなので、母屋からはひとの出入はまるでわからないとお米は答えた。

手代の浩介と用心棒の秋山は店のある日本橋鍛冶町からわざわざ呼びつけられて、客が騒動を引き起こしたらすぐ駆けつけるよう徳兵衛に命じられて向かいの蕎麦屋で張っていたが、客が来たのも帰ったのも見てはいないと言った。

「客ならお茶ぐらい出すだろうよ」

「実は五日ほど前にも同じように離れにお客があって、その時にお茶も酒もいらないといいつけられたものですから・・・」

「同じ客かい?」

お米は首を振った。

「逆さ十字架に架かって首を切られて死んだのは、徳兵衛さんでまちがいありませんか?」

岡埜の背後に控えた浮多郎がたずねると、娘の那美が悲鳴をあげて袖で口をおさえた。

・・・那美は父親の死に様を何も聞かされていなかったようだ。

この青二才の岡っ引余計なことを言いおってとばかりに、お米は浮多郎を険しい目でにらみつけ、

「左の太腿の十字架の刺青を見たでしょう。長年お仕えしてきたので、まちがいようがありません」

ときっぱりと答えた。

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