エピローグ

 最後の陳情を聞き終えて、大きく伸びをした。外の頭脳を手に入れた新しい村長は、天才と一緒に探索範囲を広げていくことに執心していた。そのせいで村長補佐といううだつの上がらない役割の割に多忙だった。

 外の空気を吸いに出る。夜を知らせる時間係が走っていた。その怒声のような音量にも動じず、階段の下にいる彼女は頬を片方の手で叩いている。考え込んでいるときの癖だった。ちょうど散策から帰ってきたところらしかった。

「どこへ行っていたんですか」

 尋ねてみたが反応はなかった。二三度繰り替えしても駄目だったので最終手段で腕を伸ばした。人間にはこれが一番利いた。そこまでしてようやく彼女は、話しかけられていると認識した。

「南へ行っていた。調べても調べても興味が尽きないね」

 熱のこもった言葉だった。村へ来た当初は特定の誰かの一日を追うだけでも興奮していたが、ここ最近は医療に関心が集中している様子だった。彼女たちの種族と何が違って何が同じなのか。

 村にこれ以上悪い影響が出ないようにする。それを条件に村を好き放題回っていいことにしていた。半年前までいた監視役をつけていたが、今はそれもなくしてしまった。彼女はただ研究するだけではなく、村の医学発展に還元してくれていた。効く薬と効かない薬、有効な処置の検証、穴の中だけでは生まれえなかったものが数多く現れた。

 彼女たちが元々いた施設にある、エレベーターという乗り物も好きに使っていいことになっていた。蕃神の技術で作られた動く鉄の箱だった。それを使うことで、一部の急進派は探索に出るようになっていた。

 兄もそちら側だった。崇拝のような態度の取り巻きもじわじわと増えている。彼らは一様に穴の中で延々と村人たちと話してばかりでいる村長補佐には呆れていた。逆に彼の他人に対する興味のなさに呆れているのでお互い様ではある。

 だが、それで別に構わなかった。やり方はそれぞれであるし、人々の言葉に耳を傾ける方が成し遂げたいことに対しての近道と思えてならなかった。

「君は例によって陳情?」

「そうです。気づいたらそういうことしかできなくなっていたので」

「それも一種の才能だ。いや、武器と言うべきか。よくやっていると思うよ」

 背中を叩かれた。その腕を静かに掴む。

「この習慣も興味深いままだよ」

「僕らにとっては当たり前のことなんですけれどね」

 感謝と決意を込めた。

 誰かとの比較ではない。自分にしかできない歩き方をしていく。


 轟音が世界を揺らしていた。その雄大さに二人は圧倒されていた。村を囲んでいた壁が一斉に倒れてでもしなければ耳にできないように感じる勢いだった。

「やたらと大きい川っていうのにも驚いたけど、こいつもすごい。滝っていうんだよな。こんなに水が落ちてるところがあるとはねえ」

「そうだな。村にあった川とは天と地ほどの差がある」

 すっかり感覚が麻痺しまっていたが、そもそも周囲がどこまでも開けているというのが驚くべきことだった。穴にいたときにどれだけ崖から閉塞感を受けていたのか、外の世界を巡って初めて気がついた。

 二人して神経を滝へ集中する。落下点に近づく流れ、落ちだす前の一瞬にあるためらい、一気に駆け降りる運命への体当たり。様々なものが内側へ入り込んでいく。滝との境界線が融けていった。

 外。蕃神の世界。制限は多かった。見つかるわけにはいかず、出歩くことができるのは夜だけ。都会というところに行ったときは、一週間まるまる狭い空間に閉じこもらなければならなかった。

 それでも肌で受け取るものすべてが新鮮だった。村にはなかった巨大な建物、比べものにならないほどの人間の密度、なにより規模感の違う自然は圧倒的だった。同化を試みていると、自身が世界そのものになって生命を守っている気にすらなってくる。

 それになにより。お互いの腕を握り合う。二人で隣り合って立っているのが幸福だった。どこにだって行ける。どこにいても怖くない。

「また例の儀式かい」

「本当に欠かさないのね」

 もちろん二人がこれだけの体験を積めているのは、蕃神の種族である彼らのおかげだった。続けてそちらに腕を移す。感謝を込めた。

「わざわざ握らなくても、もう満腹だよ」

「同感。毎日もらっているもの」

「別にいいだろ。あんたらには本当に感謝してるんだ」

「そうですよ。俺たちの頼みを断っていてもおかしくなかったんですから。今だってそうです。俺たちとこうして旅してくれていることが、感謝してもしきれないです」

「いやいや、こちらこそだよ」

「そうね、本当に」

 声に涙が混じる。握り返してくれた手から癒えきっていない過去が伝わってくる。

 代わりにはなれない。終わりもいつかやってくる。それでも今だけは、彼らのそばにいよう。

 離れる辛さは身を持って知っている。

 願わくばできるだけ長い旅を。


 しゃべる時計が午後六時を告げた。もうすぐ彼が帰ってくる頃合いだった。

 視覚という概念を知ってからもそれがないからといって困る事態に出くわすことは少なかった。ただ時間が分からないことだけは大きい問題だった。

 解決してくれたのがしゃべる時計だった。一時間ごとに時計係が走り回る必要はないし、ボタンを押せばそのときの時間が分かる。人間の文化には驚くものがたくさんあった。

 穴の外に出てから一年以上経っていた。彼の心はこれまで出会った誰よりも傷ついていて、それなのに包帯を巻いてくれる人は周りにいなかった。だから巻くと決めた。もっとたくさんの人を相手にするものだと決めつけていたけれど、たった一人のためにこれまでを過ごしていたのだと唐突に確信したから。

 巻いても巻いてもほどけてしまって、投げ出したくなることもあった。それでもわずかに残った巻き跡からまた続けた。果たすべき使命は全うしなければいけなかった。

 ひどく不安定で不器用、口も達者じゃないし、穴の中の人たちのように腕での触れあいも叶わない。それでもひと巻きひと巻き確実に進めていくことで、だんだんと傷口は埋まっていった。呪いの言葉より祝いの言葉が増えていった。それがとても嬉しかった。

「ただいま」

 玄関の戸が開き、弾んだ声が飛び込んできた。駆け寄ってその腕の中に飛び込む。愛情がたくさん流れ込んでくる。こちらからも際限なく返してあげた。幸せが循環していた。朝昼夜が繰り返すくらい、当然になっていた。

「今日は何を作ってくれているの」

「ソテーがいいって言っていたでしょ。それにしたの。もう少し待っていて」

 鼻歌交じりに彼は洗面所の方へ行った。本当にここまでよく回復してくれた。元気な様子と出くわすたびに感極まってしまいそうになる。

 同時に、どこか遠くから叫ぶ影が現れる。彼が一緒に逃げようと言ったときに生じた迷い。結果的に良い方向に転がったのだからもう納得してもいいはずなのに、なぜかいまだに消えてくれなかった。

 村のことが気にかかっているのだろうか。唯一成し遂げなければいけなかったことも彼の仲間の夫婦が引き受けてくれた。だからもう、あの場所での役割は終わっているはずだった。やれることは残っていただろうけれど、こちらは代替になれる人がいなかったのだからやむを得なかった。

 そうだ、過去の持つ魔力に引きずられているだけだ。つい先ほどの多幸感を思い出す。現状に不満があるわけもなかった。

 コレガワタシノノゾンナミライナノ。

 なおも追いすがる言葉を振り払って、今晩もキッチンに立った。


 どのくらいの時が流れたのか。飽きもせずに漂う空気を貪っていた。彼女がいるだけで閉鎖的なはずの場所が無限大に感じられた。食物のために時折出る程度で、それ以外はほとんどこもっていた。おそらくはかつてここで暮らしていた彼らと同じように。

 元から広さへの憧れもなかった。むしろ、そもそも自分の居場所を持っていなかった。家族はまったく無関心で、作ってくれる気など微塵もなかった。

 だから彼女の隣にそれがあるのを感じたとき、最初はなんなのかが分かっていなかった。出会った瞬間から、そばに立っていていいと認められていた。材木の接合部のように、ぴったりと収まることができた。

「あんたは本当にこれでよかったのか」

 寝具に二人で転がっていた。互いの腕を絡ませていた。元々いた主たちは彼女の提案で、崖の上の土の中へ葬った。両方の骨を区別せず、文字通りに彼らを一つにした。外の道具に保存されていた彼らの言葉たちは、どれもこれも瑞々しく幸福に溢れていて、聞いていて恥ずかしいくらいだった。もっと負の感情が湧くかもしれないと恐れていたのに、純粋に叔母が彼と過ごした日々を祝うことができた。思い出になった関係に怒りを覚えることはなかった。

 彼女は種族が違う。川の流れのように感情が流れ込んでくることはなかった。そのはずなのに、その手のひらからはとても、とてもたくさんのものがいつだって押し寄せる。肌から全身に浸ってくる、心地よい何かが。

 元々、穴の住人の中ではあまり伝えるのも受け取るのも得意ではなかった。叔母との間でだけは努力したが、それ以外の連中とは必要性すら感じなくなっていった。だからこそ、その特性がないはずの彼女とこうして温もりを伝え合うことができているのは運命めいていた。

 それでも彼女は穴の外からやってきた存在、それが引っかかっていた。

「どうしたの突然」

「俺よりもたくさんのものと出会って、これからも出会っていくことだってできるはずだろう。この穴の中だけで、あんたは満足するのか」

「当たり前じゃない。そのために私の持てるものを総動員して勝ち取ったんだから」

 顔に手が当たる。柔く、身体の内側さえ溶かしていきそうな気持ちいい感触。疑う余地がないほどの強い情動があった。

「私はあなたといたいと思ったし、あなたといるのはどうしても私でありたかった。それが叶ったの。私のそばにいてほしいと思った人はこれまでいなかったし、思ってくれた人もいなかった。だから、絶対に離れてあげない」

 言葉と肌とが攻め入ってくる。そのすべてをこぼさずに受け取った。彼女の身体を抱きしめる。いつどこから何が出てきても拾えるように。

「せっかく、脅威もなくなったんだから」

「脅威?」

「あなたと私を囲んでいた環境のこと」

 嘘ではないが本当でもなさそうだった。ただ、悪意を持って隠そうとしているわけでもない。それに流れ込んでくる感情が真実であるのは間違いなかった。

 ようやく求める人から求めるものを、際限なくもらうことのできる場所を得ることができていた。目減りしそうな気がして、出入り口を開けるのすらためらうほど充満していた。

 ここで二人、ゆるやかに溶け合っていけばそれで幸せだった。

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