9
その蝕人は連れを含めて四人で、走って、走って、走って、走った。
世界から怖いものがなくなったわけではない。しかし、今ならどんなものにでも立ち向かえそうだった。自然災害でも害獣でも悪意でも、負ける気がしなかった。そんなわけないだろう、と頭の中にいる友人の像が苦言を口にしたが、それさえも気にならなかった。
「なんか違和感あるんだよなあ。なんだろう。いつもの面子じゃないからとかか」
「それもあるかもしれないが。たぶん隣にいるからだ」
いつも後ろにいた。その位置からなら手助けができる。村の中への言い訳も立つ。そんな無駄な抵抗の意図があった。けれどそんなものはどぶにうっちゃってしまった。
そこは今まで何度も通ったことのある、なんの変哲もない砂利道だった。そこさえも新しかった。つないだ手から感情が迸り、同じ勢いが返ってくる。
集会所の前で東の連中とその排除に反対した連中が処刑されることになった。警吏の捕縛から逃げ出してきた東側の住人の話は、信じがたいものだった。イレノルとレノシルフィを追っていたばかりか対象がそこまで広がっているとは考えもしていなかった。
もう手遅れかもしれない。その可能性も頭をよぎる。逃げた方が賢いというのもありえた。けれど、曲がりなりにも育ってきたこの村で虐殺が起きるのはなんとしても避けたかった。
「あんたたちまで付き合うこともないんだよ。この村の問題なんだし」
「同意見だ。下手をすればあんたたちまで捕まりかねない」
その意見に同調する。しかしついてきていた二人は、大丈夫、と譲らなかった。確固たる決意がこもっているのを聞いては引っ込めるしかなかった。
警吏を警戒していたものの、幸か不幸か出くわさずに集会所へたどり着くことができた。事前に聞いていたとおり大勢が一同に会していた。住人のほぼ全員が集まっているかもしれない。だがざっと探ったかぎり、東の住人はすぐ察知できる範囲にいなかった。
「ようやく準備が整った」
住民の壁の向こう側から男の声がした。距離があるのか声量が小さいのか、聞こえ方はおぼろげだった。
一方の群衆側からは身じろぎの音すらせず、心臓の止まったような沈黙が漂っていた。思考を放棄して成り行きに身を預けてしまっている。川へ飛び込め、崖に登って飛び降りろ、何か命令すれば一斉に従いそうだった。東の住人のうちでも無気力な者たちの態度に近かった。
「ちょっといいか」
「え、え。お前どうして。いやそれよりそいつは。え」
一番手前の者を捕まえた。この距離になるまでこちらに注意していなかったようで、情けない声を繰り返している。
「こっちへの質問はなしだ。答えるだけにしてくれ。急いでるんだ。東の住民はまだ生きてるのか」
「今の声が聞こえただろ。これから処刑だよ。やっと人数分の薬が用意できたって」
「それじゃあ、まだぎりぎり生きてるな。みんな急ごう」
一刻の猶予もない。回り込むか。いや、これだけ人が集まっているのなら、中央を円形に取り囲んでいる可能性もあった。
「正面突破するしかない」
「いいじゃないか。分かりやすくって。行こう!」
人垣へ突進した。誰も彼もただ佇んでいるような有様だったので、想定よりは容易にかき分けて前進していくことができた。
「私たちに今、再び蕃神の脅威が迫っている」
男の声が先ほどよりも近くなった。ジルフォックの父のもののようだった。踏み固めた地面のような固さがあった。自分の判断こそ最善手であると自身へ言い聞かせているような印象だった。
「かつて蕃神に味方をしたのは誰だったか。それは我々の身内にいたものたちだ。ともすれば、今回も同じである。東の者たちはあちら側だ」
さも当然のような語りだったが、常軌を逸した理屈のなさだった。図式が成り立っていないことにすら気がついていないようだった。群衆を解きほぐさなければ破滅へ突き進み、本当に躊躇せず殺してしまう。異様であることが確認できてしまったがために、さらに急いだ。
「ゆえに我々は断腸の思いで決断した。東側の者たちを全員処理しなければならない。そうでなければ蕃神に大きく利することになってしまう。さあ、水を配って」
「いた、あそこだ!」
声が示した方向へ注意を向ける。そこは集会所の正面ではなく、村長を捕らえていた建物の前だった。東側の住人が何列かに渡り横長かつ等間隔で座っていた。なぜかジルフォックの兄や村長も処罰を受ける方に加わっていた。その整然とした様子は墓が並んでいるようだった。
彼らの手元には土器が渡っていた。
「全員飲むな!」
叫びながら飛び出した。反応したのはジルフォックの父親と兄くらいだった。ほかの面々は何が起きたのか把握しようとする素振りすらなかった。
「お前たちどうして。それにそいつらは」
ジルフォックの父親が語りかけを中断した。乱入者に驚愕していた。
「詳しい話はあとにしましょう。とにかくこんな処刑は中止してください。こんなことに意味はありません」
「そうはいかない。お前たちにかかっていた疑惑が今、確信に変わったからだ。なぜ蕃神と一緒にいる、イシツヤ。お前たちはそいつらと手を組み我々を殺しにきた。そうなんだろう」
帰還者イシツヤは、レノシルフィとつないだ手はそのままに別の手で頭をかいた。
「こんな身を曝け出しているのにそんなわけないでしょう」
「あえて現れることで我々に恐怖を植えつけようとしているんだろう」
まったく論理的ではなかった。害を与えるつもりならとっくにそうしている、たったそれだけの簡単な理屈が通じなかった。それだけ平静を失っている。わずかでも取り戻させなければならない。
「レフィ、腕を」
「まったく世話が焼けるよ」
二人で腹部から生えた腕を伸ばし、ジルフォックの父親の両肩を包むように置いた。伝えるのは敵意のなさ、それから安心と落ち着き。泣きわめく子どもにするような応対だった。
誰かに気持ちを分かってほしいとき、自然とこうする癖がついていた。村に綿々と伝わる習慣だった。本来は両親の感情をもらい、子どもから反応することで学んでいく。それがうまくいかないと、成長してもうまく受け取れなくなる。イレノルは顕著だった。やりとりにもどかしさを覚えることが何度かあった。
「俺たちは敵じゃありません。それにあなたは忘れています。かつて俺たちの祖先は、どうして東側の住人を生かしたんですか」
さらに言葉も耳へ流し込む。漠然としていた感情へ名前をつける。そうして穴の住人たちは互いの心を交換し合ってきていた。
誰かが冷静に相手を思いやって落ち着かせられるなら、こんな事態を収めるのはわけないはずだった。
徐々にジルフォックの父親にたぎっていた焦りの熱が収まっていく。呼吸もゆっくりになっていった。
「確かに殺しはたくさんだ。血が流れるような事態にしたくはない」
その精神も綿々と継がれているものだった。かつて蕃神と争ったときにこの地を染めた夥しい血、鉄の臭いをまとった記憶は狼藉に走りかねない心を縛っていた。
「だが皆が納得しない。蕃神への恐怖で竦みあがっている。落ち着かせるのは困難だ」
「あのなー。いくらでもやりようはあるって。あたしとイシツヤがあんたに触れて落ち着いた。これで冷静になったやつが三人。じゃあ次はもう三人まで落ち着かせられるはずだろう。その次は六人。その次は十二人。どんどん増えればすぐに終わるよ」
レノシルフィはため息交じりながら案を口にした。ジルフォックの父親は怪訝そうに九本のうちの二本を組む。
「そんなことがうまくいくのか」
「それは知らないよ。でも、やるほかないだろ。みんなあんたみたいに話を聞かないかもしれないんだし」
遠慮のない物言いにイシツヤは苦笑いした。けれど彼女の言うとおりだった。動かなければ始まらない。村の中だろうと外だろうと。
もう逐一迷う必要はない。
「とにかくやってみましょう。こんなくだらないことは終わらせないと」
三人で手始めに近くにいた警吏たちに触れた。夢から覚めたように、彼らは頭かいた。さらに三人を加えて次は六人に。六人の次は十二人に。懸念は杞憂で、雨が乾いた地面に潤いを広げていくように、人々がどこかへ片づけてしまっていた感情が続々と彼らの心へ戻っていった。
全員が落ち着くまで想像より時間はかからなかった。殺伐としていた空気は霧散して、自分たちは何を考えていたのか、これからどうするべきかという困惑だけが残った。イシツヤは細く長い息を吐く。これでやっと準備が整ったというところだった。
「イチかバチかだったけどうまくいったな。たまには腕も役に立つもんだ」
「いい案だった。ありがとう、レフィ」
礼を述べると、彼女は軽くうなって頭をかいた。
「なんだ、その微妙な反応」
「嬉しいんだけど、なんか物足りなさがあって。あたしの意見ってだいたいイシツヤから文句言われるからさ」
「それは俺もそうだな」
レノシルフィが無茶なことを言うかやるかして、そこにイシツヤが呆れつつも介入する。そういうお決まりに安らぎを持っていたのも事実だった。ちゃんと今日も関係性が維持されている、そんな確認にもなっていた。
「これからはお前の意見に乗っかることも増えるさ」
もう無理に関わりを求めなくてもよかった。彼女とつないだ手を持ち上げる。強固で温かで甘くて、心地よかった。
「でもあんまりぶっ飛んだのはやめてくれよ」
「それは約束できないって」
前にいるジルフォックの父親が咳払いをした。イシツヤたちは姿勢を正す。
「それで。君たちが話すべきことは大量にあるだろう」
「それはもう。でもまずは、彼らを解放してください」
北や南の住人で異を唱えていたジルフォックの兄のような人々は早々に列を離れたのに、東の住人たちはいまだおとなしく規則的に並んだままだった。死すらも彼らにとっては義務的な労働にしかなっていない。
「そうしよう。殺しは不毛だ。君たちのおかげで原点を思い出した。ただ、親父の処遇だけはきちんと決める必要がある。蕃神の道具で配給係を殺したようなのでな」
その報告にイシツヤは言葉を失った。殺しを否定し、その思いを次々に渡していったばかりだった。よもやそこに反した行動を起こした者がいるなど考えになかった。
「あんた、なんでそんなこと」
尋ねたのはレノシルフィだった。
「理由を尋ねるのは無意味だ。実用してみたかった。それだけのことなのでな」
村長の口調は平坦で、罪悪感や後悔といったものは感じとれなかった。イシツヤは信じられず、その腕へ手を伸ばそうとした。
「やめておいた方がいい」
横から掴まれて止められた。聞き覚えのある声だった。ほかの村人が大勢いるとはいえ、こんなに接近されても気づかなかったことに驚く。
「ジルフォック、どうしてここに」
「君たちと似たようなものかな。それより、その男のことは僕に預けてほしい。君たちみたいな純真に育ってきた奴はこんな存在は関わらない方がいいよ」
顔や身体の輪郭も、周囲を意識したゆったりと動作も、ジルフォックのもので間違いなかった。しかし、最後に会った晩と何かが違っていた。いつ崩れるか分からない不安定な土台にいる印象だったのに、今はぐらつくことなく石の上へしっかり立っていた。
「でもなあ」
「その人にとって殺しは手段にしかすぎない。一番使ってみたい道具が農耕具だったら、誰も死にはしなかったと思うよ。今回はその人の執着していたものが武器で人殺しの道具だった。だから実用するとなれば誰かに対して使いたくて仕方なかった。そんなところだろうね。これが理解できないなら、繰り返すけどその人とはこれ以上関わらない方がいい」
「お前は分かるのか」
「悲しいことにね。人種の差だよ。僕は君たちみたいに真っ直ぐじゃないからね」
東の住人たちすら直前まで処刑されそうだったとは思えない鈍重さで腰を上げていくなか、村長はまだ腕一本動かさずにいた。ジルフォックがそのそばに座る。
「自分の目的が最優先。あなたもそういう人ですよね。僕も兄もそこは変わらない。でも僕はあなたのようにも兄のようにもならない。あなたたちが最初から当然のように手に入れていたものを、僕は自分の力で手に入れてみせます」
「……好きにするがいい。わしは本懐を遂げた」
「言われなくても」
「お前なら分かっているだろうが、悪意とは純粋なことも多々ある。精々寝首をかかれんように気をつけることだ」
「ご忠告、痛み入りますよ」
それだけのやりとりでジルフォックは村長から離れた。彼にまとわりついていたものは綺麗に落ちていた。これからはどこにでも歩き出せる、イシツヤからはそんな風に感じられた。
「もういいのか」
「僕個人のは十分。処遇は決めないとだけれど、急がなくていい。このあと嫌でも話すことになるからね。それよりも優先はそちらかな」
腕で蕃神たちの方を指す。数は三人に増えていた。ジルフォックと一緒に、別の人物が現れていた。
「村を襲うつもりはない、というのを僕らはもう分かっている。あとは村にどう知らせるかだ。それとこれからどうするかも必要かな。彼女は移住を希望しているのだけれど、君たちの連れてきた二人はどうなんだい」
ジルフォックの問いかけに、イシツヤとレノシルフィはお互いにうなずいた。
「あの二人は移住しない。むしろ俺とレフィであの人たちについて行って外の世界を回ろうと思ってる。外の世界じゃ化け物扱いらしいから身を隠しながらじゃないといけなさそうだけど、二人でいろんなものを体験したいから」
事件に巻き込まれる前の自分だったらその決断は下せなかった。穴の中に囚われて、外に出る勇気は出なかった。本当に自分が大事にしたいものを定められなかっただろうから。
「そうかい。そうかもしれないとは思っていたけどね。残念だ。僕がこの穴の中をどんな風にしているのか追ってほしかったよ」
「本当か。お前は俺たちがいようがいまいが、自分のやりたいことはどこまでもやるだろうに」
告げると、ジルフォックは一瞬動きを止めた。それからイシツヤの肩に手で触れた。
「そういうことを言ってくれる人こそ、残ってほしかったっていうのは本当だよ。でも仕方ない。そちらの利かん坊より僕を優先してくれるなんてことはありえないからね」
「悪いな」
「いいさ。これは僕の問題だからね」
ジルフォックは大きな伸びをして、集会所の方へ歩き出した。イレノルとレノシルフィも続く。
「でも、ここにいる間は駆けずり回ってもらうからそのつもりでね。イレノルとドゥニマがいない分の穴埋めはしてもらうよ」
「それは、甘んじて受け入れる」
「それくらいの落とし前はつけるよ。任せとけって」
北と南と東、その垣根など忘れ三人で新しい村のための話し合いに臨む。イシツヤはなんだか泣きそうな気持ちに襲われた。これまで感じてきたこと、最愛の人が苦しんできたこと、友人が悩んできたこと、それらすべてがゆっくりとでも前に進みだしていた。
雨だって、もう上がっていた。
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