8
イレノルは一人、崖に残っていた。レノシルフィがいなくなってもなお庇のような岩の下に座っていた。腕を前に出してみると雨の当たる感触がした。穏やかな雨と激しい雨がかわるがわる穴の中へ降り注いでいた。
気配が遠くの方にあった。その到着が待ち遠しい。首を長くして待ち受ける。
本当に自分たちの行いは最適だったのか。それを検討するための材料は足りなかった。ただ、実行に移った時点ではこれ以外にないと考えていたのは確かだった。
配給係を皮切りとして薦めたのは単純に一人で夜に出歩いている頻度が高かったからだった。それに最初の検体として渡すことにも痛痒がなかった。副次的に配給物をくすねやすくなることも利点だった。村長ともども最終的には放置することに決めたが、いったいどうなっただろうか。別にこちらに影響がなければどんな結末になっていようと構いはしないのだが。
どのようにして対象を捕獲しているのか。一度話を聞いたもののいまだに分かっていないところは多かった。
イレノル自身も何度か経験している前後不覚になる現象、あれは電波の攪乱ということをしているそうだ。本来はもっと限定的な効果らしいのだが、自分たちには信じられないほど効いてしまう。
歪みの方は確かこうもりという動物への対抗手段を持った虫を参考にしたと言っていた。音波を乱していると表現していた。外の技術は穴の中にあるものとあまりにかけ離れていた。
最初の失踪事件の翌朝、イシツヤとレノシルフィが頭痛を訴えたことで、イレノルはすぐに計画が動き出したのだと察した。配給係を捕らえるのに例の現象を起こしたのだと。効果の範囲から多少遠くにいても頭痛という形で影響が出ることがあった。
ジルフォックとレノシルフィが調査をしようと提案してくれたのは好都合だった。もし誰からも話が出てこなければイレノルからレノシルフィへ話をするつもりだった。彼女だけは乗ってくるという自信があった。そうすれば自然とイシツヤもついてくることになる。あとは誰かが一人になる状況を作ればいいだけだった。それすらもジルフォックが整えてくれたのだが。
最初がイシツヤになったのも偶然だった。イレノルは蕃神の道があの位置だということは知らなかったし、イシツヤが一番崖寄りの道になったのも流れだった。感覚が奪われたとき、本当に計画が進んでいるという強い実感が湧いた。もう後戻りはできなくなっていた。
イシツヤの消失後が想定外との戦いの始まりだった。
最初がイシツヤだったことでレノシルフィの様子が劇的に変わってしまった。イシツヤをちらつかせば動かしやすくなった反面、災害がいつ起こるか分からないように何をしでかすかこれまで以上に読めない状態になってしまった。うまく心理的に彼女を留めていたイシツヤの存在がなくなった弊害は想像以上だった。一晩蕃神の道に張りつかれていたら、順番をかなり組み替えなければいけなかったはずだった。
その次が一番の失敗だった。ここへ向かっているところをドゥニマに気づかれてしまった。イレノルはほかの住人達よりも探知範囲が狭い。彼女はかなり遠くから気がついていただろうが、イレノルが尾行を察知したのはここにたどり着いてからのことだった。やむなく、前倒しで対処してしまうほかなかった。やり過ごすという選択もできなくはなかったが、明日以降の動きが難しくなる恐れがあまりに高かった。たまたま装置があったからよかったものの、なければどんな手法をとらなければいけなかったか。いずれにせよもっと面倒になっていたのは確かだった。
ジルフォックの番でもイレノルはまずい動きをした自覚があった。ジルフォックに村長の取り調べを薦めたのはよかった。しかしそのあと、レノシルフィが二人のいる建物へ入るのを止めることができなかった。村長の近くにいるのがジルフォック、そういう条件にしていたがために自分やレノシルフィが彼らの近くにいるのは具合が悪かった。焦っていたために歪みが現れたときはかなり露骨な誘導をしてしまった自覚があった。二人の動きを直接的に指示してしまった。幸い、レノシルフィはそれどころではなく、ジルフォックと村長は消失対象だったので誰にも聞き咎められずに済んだ。
そして最後の想定外。穴の混乱の激しさだった。計画では村長に全責任を負わせるつもりでいた。叔母の捜索の件で、元々彼が蕃神の何かに強い興味を抱いているのは察しがついていた。ただしそれが道具、それも武器であることはあの隠し部屋に踏み込んで初めて分かったのだが。それがまさか、イシツヤたち失踪した組の人員に加え、自分とレノシルフィにまで住人たちの不安の矛先が向くとは考えていなかった。東西南北の力関係を軽視しすぎたのが失敗の元だった。イレノルはソーレと精々五人組の面々くらいまでにしか興味がなかったし、その五人組では東西南北への意識が弱い奴ばかりだった。感覚が狂ってしまっていた。少数派に囲まれていたために自分が多数派でないことを忘れてしまっていた。かつて支配に傾いてしまった蕃神たちのように。
気配は着実にこちらへ近づいてきていた。焦るなとイレノルは自分に言い聞かせる。
叔母に倣ってイレノルだけが消えるのも考えた。しかしそれでは解決できない問題があった。自分たちは触れあわなければいけない。だからこそ考えなければいけなかった。自由を手に入れるには何が必要なのか。
本当に今は痛いほど叔母の気持ちが分かる。彼女もここで待っていたのだろうか。それとも待たせていたのだろうか。いずれにしても叫びたいようなこちらから駆け出したいような、全身が散らばっていってしまいそうな待ちきれなさでいっぱいだった。
イレノルが叔母を探し当てたのは三年前だった。穴の内側で何もでてきていないということは、外側に何かがある可能性を示していた。それも叔母が動ける範囲にそれは存在しているに違いないと考えていた。それゆえに合間を縫って何度も何度も崖に登っていた。
その日も念入りに壁を確認しながら進んでいた。あるかどうか確証すらない場所を探すのにはとにかく折れないことが必要だった。一度や二度調べていても漏れがある前提でひたすらに触れ続けていた。自分の能力が低いことを考慮しての行動だった。だから察知できた。
崖を上がって進むなかで、上方にその地点を雨から守るような突き出た岩がある箇所と出くわした。もし隠した道があるのなら特徴のある場所に設けているのではないか。イレノルはそう考えて、ほかの箇所以上に念入りに手を這わせた。そのどこかに懐かしい温もりがあるかのように。
そして出くわした。壁の感触のおかしなところがあった。周囲は岩らしく規則性のない凹凸がついていたが、そこだけは妙に繰り返しの形が決まっているような手触りだった。とにかくいじってみようと腕に力を込めると、その部分が奥へめり込んでいった。穴にはない仕掛けだった。
崖が叫び出した。地震の前兆のような派手な音だった。壁が動いていた。想像はしていたものの、いざ起きると呆気にとられた。蕃神とはこんなことまでできたのか。穴の技術からはありえない仕組みだった。どうしたら可能なのか取っかかりすら浮かばなかった。
崖の途中にぽっかりと洞穴が開いた。ほかの箇所にも横穴が開いていた地点はあったものの、その口の大きさは段違いだった。身体一つ通すのがやっとなところも多い中、そこだけは東側の家くらいなら一軒まるごとすっぽり収められそうなほどだった。
不思議と恐怖はなかった。むしろ導きであるようにすら感じていた。誘われるまま自然な足取りで中へと入った。
幅の広い入り口を抜けると、さらに大きな空間へ出た。天井方面こそ高くはなっていなかったが、円形で左右も前後も村長の家の全部屋が入る規模だった。村長の家の足元のように床から持ち上げるような作りをした寝具が左手の奥にあった。ほかにも棚や皿とおぼしきものが点在していた。中央には火を起こすための場所も設けてあった。
つまりそこは生活空間になっていた。
ただ臭いはもう自然なものに還ってしまっていた。
ここでいったい誰が。
答えに当てはまる人物を浮かべてイレノルは奥へゆっくり進んだ。身体が強張っていた。ここは本当に。期待と裏切られてしまわないかという恐怖とが背中にのしかかっていた。
そこで気がついた。
寝具の上に人の大きさをした何かが二つあった。しかしそれにしては質量があまりになかった。生気も完全に失っていた。生唾を飲んでゆっくりと足を運んだ。
骨が二人分、寄り添っていた。
片方は図体が大きく横を向いた状態だった。腕はもう一人に向かって伸びていた。こちらが蕃神だというのがイレノルにはすぐ分かった。
問題はその隣だった。穴の住人であるのは間違いなかった。自分に向かっている腕を静かに受け入れていた。
証拠はなかった。けれど、穴にほかの失踪者がいない以上、それは叔母のソーレ以外ではありえなかった。背丈も記憶に残る感覚と一致していた。
「これがあんたの望んだことだったのか?」
骨の口の端が少しだけ上がったような気がした。
気配はもうすぐそばまで近づいてきていた。腰を上げる。待ち遠しさに身体が火照った。
それからイレノルは毎晩のように洞穴を訪れた。叔母がいなくなってからの時間を取り戻すかのように、眠る時間さえ惜しんだ。何をするわけでもなかった。ただ彼女の骨の近くに佇んだ。
一度ならず隣の骨を砕いてしまいたくなる衝動に駆られた。洞穴の外に放り投げるのも考えた。しかし実行できなかった。ソーレがその腕を受け入れている感じがどうしても気にかかった。手をかけようとすると彼女の制止する声がした。
「その人は駄目。お願いイレノル」
自分の頭の中で作り出したものでしかない。分かっていても、振り解けなかった。やむなく、三人での不思議な時間がずっと続くことになった。
「お待たせ、イレノル」
叔母ではない声が耳に届いた。抑揚を抑えていたが、穏やかで温かだった。身体の芯まで簡単に染み渡っていく。ついにやってきた。約束のとおりだった。
「なんとかなったのか」
「ええ、万事ね。彼らもこっちに来たでしょう」
「ああ」
叔母の望みを真に理解したのは一年前になる。その日は静かな雨が落ちていて、肌に当たる粒は肌を撫でるような優しさだった。イレノルはそんな天候の中でも普段と同じ足取りで洞穴へと向かっていた。
その入り口が確認できるところまで来たところで異変に気がついた。
昨晩閉めたはずの岩の扉が開いていた。
心臓の鼓動が早まった。村の住人である可能性もあった。特にレノシルフィがあちらこちら探り回っているのを知っていた。けれど、それとは別の可能性も頭に浮かんでいた。
ソーレの隣に横たわるものは。
「中に入りましょう。それともあなたも何かしたい?」
「いいや。俺はいい。あいつらみたいにはなれない」
扉が開く。けれどこれまでとは意味合いが違っていた。決別と始まり。
あの日、これまでのすべてが過去になった日、柔らかな風に背を押されるようにして中へ踏み入った。そこには村の連中とはまったく違う存在がいた。
「あなたは誰」
声だけで全身が温かくなった。叔母よりも低く、似ても似つかない。それでいて今までのどんなものよりも引力があった。
どこか雨を感じさせる重たげな香りもあった。
頭の頂点から足の先までの動き全部がイレノルの波長と符合していた。それは合唱で別々の音を合わせるとより美しい旋律になるのと似ていた。
触れたかった。感情を渡したかった。もらいたかった。
瞬間、叔母は思い出になっていた。
無意識に腕を伸ばしていた。
「イレノル」
奥まできたところで、あらためて名前を呼ばれた。こちらの思考を読み取られているのか、それとも懇願なのか。その判別はつかなかった。そもそもお互いに望んでいるのだとしたら、意味のない行為だった。
あのときのようにイレノルは、腹部から生えている九本目の腕をミレーナに向かって伸ばした。
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