7

 穴の中にもはや規律は存在しなかった。集会所で歪みと認識阻害を実際に体験した者たちはもちろん、彼らと接触し尾ひれのついた話を聞いた者たちもまた理解を超えた事態に我を失っていた。原因不明の怪現象、自分が自分でなくなってしまうような混沌とした気持ちの悪さ。悪夢だと分かっているのに起きることができない、そんな絶望があった。

 イレノルとレノシルフィを追いきれなかった集団は、集会所へ戻り村長の息子へ指示を仰いだ。だが、彼もすでに正常な判断ができる状態ではなくなっていた。今このときにでも蕃神たちが復讐のために雪崩込んでくるではないか。腹を食い破りかねないほどに膨張した恐怖だけが動力源になっていた。解決するには、不安の種をとことんまで排除するほかなかった。

 彼の命を受けた群衆は行進を始めた。自分たちの責任からは解放されていた。指示を受けたことならば実行するしかない。その原理を誰も疑わなかった。大雨の中、彼らは死神の使者と化していた。

 集会所では一足先に鎌を振るう準備が進められた。東西南北すべての住民がそこにはいた。かつて蕃神に味方をしていたのは誰だったか。そして今また蕃神の脅威が迫っている。彼らの理性がくだした結論はその場においては至極真っ当な理論の帰結だった。川とは山である、そんな主張が出たとしてもまったく問題なく認められるような環境だった。

 対象は東の住人たちだった。その反応は二分されていた。自分たちはただの仕組みの一部であると認識していた正気の者たちは首を差し出すという意識すらなく穴が下した結論を受け入れた。一方、狂気に陥った住人たちは方々へと逃げ出した。穴に生きる者として不適格このうえない行動だった。

 そちらの処遇は後回しとして、従順たる名誉の住人たちのために道徳的な配慮が検討された。平素であれば一年をかけて議論してもいい題だったが、非常時のため迅速な対応が求められた。

 人数と身体の保存という人道面から服毒での処刑が選ばれた。ただ問題となったのは毒草の準備だった。薬の原料としても使用していたとはいえ、備蓄はまったく足りなかった。まずはかき集めなければいけなかった。それまでは万が一の反乱にも備えておかなければならず警吏たちがその任に当たった。人員の不足は甚だしかった。

 ジルフォックの兄を始め、一部のものが分からない連中だけはその決定に意を唱えていた。そんな悠長なことが言えるのは蕃神の仲間だからに違いなかった。すぐに彼らも服毒の対象として制圧にかかった。そもそも村の異変に関心を寄せていなかった人物たちの言葉をまともに受け入れるわけがない。相談に乗ろうとしなかったことこそ蕃神の味方である証拠だった。東側の住人たちと異なり、こちらは大半が逃げ出すという哀れな選択肢をとったものの、群衆の中に混じっていたおかげで捕まえ損ねは少なく済んだ。

 一方、東側の居住地では狩りが始まっていた。こちらも従順な者と反抗的なものとに分かれた。前者は早々に自ら集会所へ足を向け、後者はこれまた散り散りに逃走した。しかし、群衆の訪れがあまりに突然だったこともあり大半は暴力を受けて捕縛された。常であれば静寂が幅を利かせているはずの空間に怒声と悲鳴が飛び交い、多少なりと血が流れた。

 その帰り道。群衆は東側と南側の境で異変に気がついた。

 崖側に探知したことのない洞穴が発生していた。それはまるで自分たちを誘い込んでいるようだった。ジルフォックの報告によれば、そこはまさにイシツヤが消えた地点であった。調査すべきか否かの議論が行われ、その場は帰還が優先となった。そこへ踏み込むことは指示された内容ではなかったからだった。

 彼らの持ち帰った報告に村長の息子は頭を抱えた。罠の可能性は十二分にあった。かといって放置していては、たとえ東の者を処理しきっても安心が手に入らない。そこで罠にかかっても問題のない存在たち、東の者たちを送り込むことを思いついた。

 二人の東の者を選んだ。また反乱を起こされても対応ができるようにとやむなく警吏も二人つけ、彼らにだけ気休め程度ながら農耕具を武器として持たせた。技術で勝っている蕃神たちの手中へ飛び込むにはまるで頼りにはならなかった。それでも飢饉のときの野草と同じく、ないよりはましだった。

 彼らが境へ再びやってきても、その洞穴は出現したままだった。四人ほどが横に並んで通れる幅で、高さは二人分ほどだった。先頭は東の住人たちに任せ、一団は中へ踏み入った。

 だがその歩みはあっという間に止まってしまった。すぐに奥についてしまったからだった。こんなに怪しい場所で何もないわけがないと、警吏たちはほかの面々に壁を端から端まで確認させた。すると突起物があった。警戒しながら押すことでまた別の扉が横に開いた。踏み入ってみると四人でもかなりいっぱいになる空間があり、探ってみればまた別の突起物があった。押すと、扉が閉まり地面が上昇を始めた。彼らにとってはそういう感覚だった。

 動きが止まると扉が再び開いた。先ほどまでも未知の空間ではあったが、まだ知っている場所にすぐ戻れる安心感があった。そこはもう違ってしまっていた。崖の外と同じく、得体の知れない不安だけが蓄積していく場所だった。

 外へ踏み出すと後ろの扉が閉まってしまった。慌てて扉を叩いても反応はなかった。警吏の一人がそばにまた突起物があるのではと考えつき、想像したとおりのものが壁にあった。押してみればきちんと扉が開いた。それが分かったことで、全員の喉から飛び出しかけていた叫びが引っ込んだ。

 前方には細い道が伸びていた。村長の家の作りとの類似性から廊下というものだと一団は判断した。左右には扉つきの部屋があるようで半開きになっているところは何もしなくても中の様子が少しだけ分かる状態になっていた。

 確認できるところは順々に東の者を前にして確認していった。どこもものが散乱していた。慌ててどこかへ出かけたようだ、一団はそんな印象を受けた。誰かがいたことは間違いなかったが、現状その誰かがいるような気配はなかった。

 一団はいくつかの部屋を回り、ここは居住空間なのではないかと当たりをつけた。寝具や棚のようなもの、容器になりそうなもの、そういったものが多く残っていた。

 それはつまり蕃神がここにいたことを証明していた。用途の理解できないものも多く、やはりここは危険な場所なのではないかという不安が一団の中に募った。叫び出してしまいそうなのを四人は互いの肩に手を置いて励まし合うことで、どうにか耐えていた。

 扉が空いていた箇所の探索を終え、彼らは次に奥を確かめにいった。最初の認識では行き止まりだったが、不可思議な仕掛けがいくつもあったことを考慮し、細かく調査していった。はたしてその面はただの壁ではなかった。一定方向に回る鉄製の物体がくっついていた。左右の部屋の入り口にあったものと同様、行き止まり箇所にあったのも一種の扉だった。部屋の数が多いせいで自分たちが今どこにいるのかが曖昧になりそうだった。早く引き返したい気持ちを必死に堪え、奥へ進んだ。

 彼らはそこに二人の男がいることを認識した。こんなところにいるのが奇妙に過ぎて、それが馴染みの人物たちであることに気づくのが遅れた。

「ふふ、ふふふふふふ」

 手前にいる男は背中が小刻みに震えていた。恐怖などではなかった。それは喜びを抑えられない笑いからくるものだった。

 奥にいる男は地面に倒れ込んでいた。完全に沈黙していた。その状態が何か、一団はすぐに察した。身体の特徴からそれが誰なのかも把握できた。

「これはあなたがやったのですか」

 警吏の一人が手前の男に尋ねた。受けて彼はようやく一団の出現に気がついたようだった。

「こんなところまで来るとは。彼らも不用心なことだ。もう少し置き土産をしていってくれればいいものを」

「もう一度お尋ねします。そこにいる配給係を殺したのはあなたですか」

 奥にいる男のことを示唆する。それは騒動の発端となった者、もう動かなくなった配給係だった。

「彼は運が悪かった。そうだろう。武器というのは誰かに試さなくてはなるまいて」

 肯定と受け取れる言い方だった。手前の男、村長の手には彼の家の隠し部屋から回収したものと形状がよく似たものが握られていた。ジルフォックが鍬の手持ち部分を手のひら程度まで削ったような形と表現していたものだった。

 その先端から煙の臭いが立ち込めていた。

 村長と話していない方の警吏が警戒しながら配給係の遺体に近づいてみれば、その胸部に穴が開いているのが分かった。そこから流れ出ていたのだろう血液は、すでに凝固してしまっていた。

 村長は遺体と二人きりで恍惚に浸っていた。警吏は身体を虫が這い上がってくるような感覚に身体を震わせた。

「これはまったく素晴らしい。ああこの技術が再現できれば。口惜しい、口惜しい」

 村長は手に持った蕃神の武器を頬へつけ、我が子のように擦っていた。一団は狂気を前にして叫び出してしまいそうになりながらも、部屋のほかの部分の調査も行った。

 ほかに同空間から発見できたものは以下のとおりだった。

 蕃神の道具と思われる物体が多数。四角形で薄い木の幹を重ねて貼り合わせたようなもの、手に収まる長細いもの、円形の鉄でできた箱のようなもの、などなど。

 生物の骨。

 村長とそれから配給係の遺体。

 幸か不幸か蕃神たちと出くわすことはなかった。しかし、そこに何かがいたことだけは確かだった。やはり蕃神の存在は百年前の過去のものではなく、今現在の脅威であった。

 調査団の報告を受けたジルフォックの父は床を殴りつけた。蕃神がやってきたところで自分たちに何ができるというのか。雨に濡れないようにしろ、そう言われているのと同じようなものだった。そんなことは不可能だった。かといって逃げる場所もなかった。この穴の中から出られはしない。

 とにかくできることをやるほかなかった。内部の敵の始末。唯一進められることといえばそれだった。

 しかし、毒草の準備完了まではまだまだ遠かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る