6

 ジルフォックと村長が消えたこと、レノシルフィが歪みを追跡したこと、身体を起こし始めた村人たちはまだそれらに気がついていない様子だった。何が起こったのかまったく理解できていない。自分の感覚と周囲への注意を順番に取り戻していっている最中だった。

 イレノルは違った。克服したという域にはまったく届いていないものの、いくらかの耐性がついていた。加えて、こちらの認識を狂わせているということはすでに理解できていた。その経験の差を利用して、まだ混乱したままの警備を無視してジルフォックと村長のいた建物へ再度踏み入った。

 まず確認したのは足元だった。踏み固められている分、外の土ほどはっきり出ていないもののやはり人の大きさのものを引きずった跡があった。ちょうど二人が座っていたあたりから建物の出入り口へ向かって伸びている。

 つまり蕃神といえども万能ではなく、原始的な移動のさせ方をしたということだった。身体を宙に浮かべられるわけではない。

 ほかのところもいくらか注意を向けてみたものの、これといって怪しいところはなかった。筋を追って外に出る。

「なんなのよ、今の」

「蕃神、蕃神が出たんだ」

「誰か消えたんじゃないか」

「すぐ確認しなきゃ」

 意識がはっきりしてきたところで今度は言葉と判断の混乱が起きていた。会話が成り立っている組み合わせは数える程度しかなさそうだった。イレノルは誰かに捕まる前にさっさと田んぼの方へ歩き去る。レノシルフィもこの場を離れている今、自分のことを早めに浮かべる人物はまずいない。

 筋とレノシルフィの足跡のついた畦道を追っていく。やはりというべきか、筋は田んぼや水路に飛び込むことはしていない。仮にイレノルが誰かを引きずるはめになったとすればきっとここを通る、というところを進んでいた。

 百年以上前にいたという蕃神たちは鉄と呼ばれる素材を使っていた。それに農作や家の技術を持っていたのも彼らだった。この穴の中にはない技術をいくつも知っている。そうなるとあの歪みや認識阻害さえもその中の一つなのかもしれない。

 だが八年前は何もなかった。村長が拾ったであろう蕃神の持ちもの以外は。

「くそ、どうすればいいんだよこいつは」

 崖近くの草むらまで来たところで耳に馴染んだ声が聞こえてきた。五人組の瓦解が始まった場所、イシツヤの消えた地点だった。

「無事だったか」

「イレノルか。やっぱりここだったんだよ、蕃神の道は」

 奥へ進むと彼女は壁に張りついていた。そうしていればすり抜けられることがあるかのように。

「どういうことだよ」

 イレノルが尋ねると、レノシルフィは追跡の顛末を話した。その間、壁を探ることはやめなかった。

「それで蜘蛛みたく張りついてるわけか」

「そういうことだよ。あんたも手伝ってくれ。ここに絶対何かあるはずなんだ」

「分かった。今日は仕事もなくなったからな」

 想起したのは村長の家の隠し扉だった。どんな開け方だったのかはジルフォックから教えてもらっていた。出入りに使ったのなら外側から開くこともできる。探す価値はありそうだった。

 壁は干渉を拒むようにひんやりとしていた。それに臆している余裕はなかった。拒絶を無視して撫でたり叩いたり、二人で壁の凹凸が記憶できてしまいそうなほどに調べていく。そのうちにレノシルフィが声を上げた。

「イレノル、こいつじゃないか」

 彼女の手が壁を押すと奥に動きそうだった。かけ声もなく、彼女はさっさと力を込めた。果たして壁の一部がゆっくりと窪んでいった。奥までいくと、かちりという軽い音がした。すぐ横の岩のところが手前に飛び出た。形状はよく分からないがどうやら扉の一種のようだった。支点となる縦の軸に沿って開閉する仕組みだった。立て続けにレノシルフィがそちらの内側にも手を突っ込む。今度は反応がない。

「どうだ」

「こっちにも押せるものがたくさんあるんだけど反応がない。直接出入り口を開けるような取っ手でもないし。なんなんだろう」

「俺も確認してみる」

 交代でイレノルも手を入れてみた。確かに彼女が言うように押せる何かが十数個あった。平らな地面に小石を等間隔に置いて、石のところにだけ土を盛ればこんな形になる。取っ手とは考えにくいのも同意だった。これも蕃神の技術の産物なら突破は容易でない。

 でたらめに叩いてみたが反応はなかった。

「駄目だ。開き方が分からない」

「くそ、ここまで来てるのに」

 レノシルフィが壁を叩く。分かっているのに何もできない。大きなもどかしさを感じているのが言われなくても伝わってくる。

「こっちに二人いるぞー! イレノルとレノシルフィかもしれない」

 大量の気配にイレノルとレノシルフィは思わず振り向いた。畦道の方から村人の集団がやってきていた。

 同時に雨の臭いがした。気がつくが早いか、ぽつりぽつりと身体を叩き始める。

「なんだあいつら。あたしたちになんの用だ。こっちは忙しいってのに」

「……様子もおかしいな」

 先ほどの声も含めて普段とは雰囲気が違っていた。東側の住人に対しては元々冷淡な者が多い。無視も日常茶飯事だった。しかし今は別のものが立ち昇っていた。もっと攻撃的で、こちらを食い殺そうとしている牙が剥き出しになっていた。

「確かに嫌な感じがする。あんたはちょっと待っててくれよ」

「おい。なんでお前はそう勝手な」

 即断したレノシルフィが道の方へ戻っていく。呼び止めても無駄だった。仕方なくついていく。

 二十人ほどの群衆は集会所の方向から近づいてきていた。早足になっていて農具を手にしている者も多くいる。農作業をするため、というよりは何かの破壊のためのように感じられてならなかった。飛び出してきた二人に気がついてその行進が止まる。

「あたしたちならここにいるぞ。忙しいから用事があるならあとにしてくれ」

 彼らの反応は鈍かった。先頭集団の何人かが小声で何かを相談し合っている。そのうちの一人、確か警吏を務めている男が前に出てきた。

「ジルフォックの親父さんが君たちを呼んでいる。一度集会所まで戻ってきてくれないか」

 感情を抑圧したしゃべり方だった。レノシルフィがイレノルの背中に手を当てる。迷いと不安で若干の震えが起きていた。

「信じない方がいい。理由は分からないが、あれは俺たちを攻撃しようとしてる。たぶんな」

「やっぱりそう思うか。あたしも同感だよ」

 触るまでもなく彼らの態度に滲み出ていた。言いなりになれば最期でもう自由にはなれない、そういう予感がした。取るべき道は一つだった。

「これは逃げるしかなさそうだ」

「俺も同感だ」

 今だけはレノシルフィの勘のよさと判断の速さに感謝した。群衆に背を向けて二人して走り出す。背後から雷のような怒声が上がった。イレノルたちに向かって降りそそぐ。

「逃げたぞ!」

「やっぱり消えた奴らはみんな蕃神の仲間だったんだ!」

「あいつらも同じだ!」

 何がどうなってそう紐づいてしまったのか、彼らは歪な結論に飛びついていた。逃げるのが最適解であることは間違いなかった。

「どこに逃げる。あの感じだと村のどこまで敵になったか分かったもんじゃなさそうだ。下手すると全員だ」

 もっともな指摘だった。北西南は駄目として東側はどうか。浮かべてみて首を振る。敵にはならないかもしれないが、味方にもならなさそうだった。

 事ここに至っては多少なりと手札を切るしかなかった。

「崖を登る。あの人数ならかえって動きにくくなるはずだ」

「崖か。それがよさそうだ。あたしもいくつか開拓してるけど、どうする」

「俺の知っているところにいこう。ここから近い」

「分かった。任せるよ」

 雨脚が強烈になっていた。村中の田んぼを一気にひっくり返したような激しさだった。

 先ほどとは別の崖の前にたどり着く。二人はどちらも迷いなく段差を登りだした。雨すら枷にはならなかった。

「あんたも意外に動けるんだね。驚いたよ」

「無駄話はあとだ。さっさと進むぞ」

 黙々と上へ行く。あとを追ってきた群衆たちは大雨もあってまだ土に足をつけたままためらっていた。言い争いも起きていて、しまいには殴り合いの喧嘩が始まった。

「どうしちゃったんだよ、あれ」

「全員もうまともじゃないってことだろう」

 難所を登り切り、徒歩に切り替える。もはや誰も後を追ってきていなかった。それでも念のため距離を稼ぐに越したことはなかった。

「そろそろ無駄話しても大丈夫だと思うか」

「ちょっとはな」

 レノシルフィが口火を切った。ずっと我慢していたようだった。

「あいつら、なんであたしたちを追うんだ。蕃神の仲間だなんだと言っていたけど」

「さあな」

「あんたのことだから推測くらいは立ってるんだろ。それでいいから教えてくれって」

 伝えるのは苦手分野だった。それでも話せ話せと言われることが容易に予測できたので、切れ切れでもいいと開き直って口を開く。

「逃げだしたとき、あいつらが言っていたことを覚えてるか」

「うーん、なんだったっけ。蕃神の仲間どうのこうのって言っていたような」

「そいつだよ。あいつらは俺とお前が、いや、俺とお前とそれから消えた連中が全員蕃神の仲間だと思い込んでるんだ」

「なんだってそんな考えが出てくるんだよ」

「村長が消えたからだ」

「なんだそれ」

 どこから伝えれば分かるのか。相手の思考を手で掴むことができないのは不便だった。

「村長は蕃神とつながっている疑いがあった。そこは分かるか」

「分かる」

「そういう奴が蕃神と一緒に村を出ていったとしたら、お前は何が起こったと思う」

「そりゃ仲間と脱出したと。ああ、そういうことか。村長は消えたというより、蕃神の仲間として合流したって扱いなんだな。そんで、イシツヤたちも同じように消えたってことは蕃神側だと思われたと」

 レノシルフィはまだやりやすい。ドゥニマやイシツヤ相手だともっと微細に話をする必要がある。

「いや、でも待ってくれよ。それって証拠も何もないだろ。なんでみんな信じてるんだ」

「さあな。俺たちが東側の住人だから罪を押しつけるのに遠慮がないんじゃないか」

「ありえそうな話。自分で考えない奴ばっかりだからな」

 ソーレのときはもっと恣意的だった。熱心に陣頭指揮をとっていた村長が捜索開始から二日経ったところで突然に、東側の住人をこれ以上探す必要はないと宣言した。異論は出なかった。そもそもの最初から住人たちは乗り気ではなかった。蕃神に味方した子孫をなぜ助けなければいけないのか。日々の仕事を進める方が大事だった。東側の住人さえ、一人いなくなる程度のことに何も感じていなかった。

 肉親であるイレノルの両親や祖父母すら、その態度は同じだった。だから彼女がどこへ行ったのか知りたい者はこの穴の中でたった一人しか残っていなかった。

 だいぶ崖際の道を進むと上方で庇のように岩が飛び出ている場所があった。雨のしのぎがてら二人はそこへ滑り込んだ。追手の気配はなかった。

「まったく。うまくいかないもんだな。やりたいことは一つなのに」

 レノシルフィが壁に背をつけながらそう漏らした。イレノルでも今の彼女の頭の中を想像するのは容易かった。

「お前はイシツヤのことが好きなんだよな」

 雨音は激しかった。穴をすべて水の底に沈めてしまいそうな勢いだった。

「ずいぶん突然じゃないか。あんたがそういうの気になる奴だとは思ってなかったんだが」

「別に答えたくないなら答えなくていい」

「好きだよ」

 その声ははっきりとしていて、周囲の雨音にもまったく負けることなくイレノルの鼓膜を揺らした。

「ずっと前から知ってた。でも、この穴の中じゃ駄目だと思ってた。あたしは東であいつは警吏。何が敵なのかも分からなかった。そんなもの気にせずにやりたい放題やればよかったのにな。ほかの連中のことを囚われてる囚われてるって言っていたあたしが、一番囚われてたんだ」

 イレノルは彼女の肩に腕を伸ばした。かつてならまるで分からなかった。けれど今は痛いほどに分かる。

 どうしようもない、理屈も何もあったものではない、激しいときもあれば穏やかなときもある。それ自体が空模様のようだった。

 彼女もきっとそうだったのだろう。

「あたしからも一つ訊いていいか」

「なんだ」

「あんた本当はソーレがどうしていなくなったのか、知ってるんじゃないのか」

 すぐには答えず、雨の音へ耳を澄ませる。勢いが一旦収まり、穏やかな降り方に変わっていた。あの人の手が自分の頭を撫でた感触、原初の記憶は同じ音の中にあった。

 父も母もイレノルのことなど意識していなかった。労働力の確保のための婚姻、繁殖、育成。穴の中の決まりとしてしか生は存在しなかった。抱擁もなければ、触れあいすらなかった。父も母も毎日仕事へ行き帰ってきたら食事をして眠る、ただそれだけを繰り返していた。そこに息子との交流はなかった。子どもではなくて労働力の種なのだから、必要性がなかった。

 そんな生活の中、ある穏やかな雨の日に彼女はやってきた。イレノルが四歳のときだった。細身で背は高くて、けれどその存在感は草むらの中に立つ一本の樹のように立派だった。確か怪我がきっかけになって、農作業ができないからと治るまでの間だけ子守りをすることになっていた。

「イレノルくん、大きくなったね」

 その挨拶にまず驚いた。名前を呼ばれた記憶がなかった。そんなことをしてくれる人がいると考えていなかった。

「今日からちょっとの間だけどよろしくね」

 次にあったのは抱擁だった。経験にない感触だった。温かくて涙が出た。あとから思うと全身を柔らかく包んでくれる春の外気のようだった。

「またちょくちょくくるね」

 怪我が治った子守りの最終日、彼女はそう言った。口約束だと思った。誰も彼もその手の嘘をついてばかりいた。イレノルに至ってはそもそも誰からも約束事自体をしてもらえなかった。

 ところが想像に反して、彼女は仕事が休みになるたびイレノルのところを訪れるようになってくれた。春はいつまで経っても終わらなかった。すべてが芽吹いた。身体を流れる雨の優しさ、染み込んでいく土からの癖になる匂い、流れ込んでくる感情。自分が生まれた、そんな風に感じたことを覚えている。

 楽しかった。その言葉に尽きた。綺麗でどこか恥ずかしい、甘ったるさのある思い出が溢れるほどにできた。散歩もしたし、意味のないおしゃべりもしたし、食事もした。そのどれもが瑞々しい記憶になった。イレノルがそれまで手に入れていなかった、心を形成していった。

 それなのに。

 イレノルが十四歳になった頃だった。表向きソーレの態度に変化はなかった。けれど、心の中でその存在が大きかったからこそ気づいた。彼女の内側にある何かが、それまでと違っていた。話していてもどこか別の何かに意識を奪われていることが増えた。その正体が分からず、正直に尋ねてみたことがあった。

「私も自信はないの。でもたぶん、名前は知っている」

 徐々に彼女がイレノルの元を訪れる回数が減っていった。芽生えたはずのものはどんどん枯れていった。雨は優しさを失い、身体に衝撃を与えるだけの豪雨になっていた。

 食ってかかった、強引に引き留めようとした、時間を奪おうとした。けれどどれも子どのわがままでしかなく、すでに二十歳を超えていた彼女はその抑え方を心得ていた。

「ごめんね、イレノルくん」

 それに、謝罪のたびに腕から伝わる痛ましい叫びに耐えきれなかった。諦めるしかなかった。妥協して一回一回の時間を噛み締めるほかなかった。

 ソーレを苦しめたいわけではなかった。変化に気がついたときから分かってもいた。自分の心の中心にいるのが彼女であっても、彼女の心の中心にいるのは別のものなのだと。

 失踪が起きたのはイレノルが十六歳のときだった。一日かけてもどこにいったのか分からないという事態は、蕃神が消えてからの百年近く穴の中では一度たりとも起こったことがなかった。

 捜索隊が出たのも激しい雨の日だった。イレノルも一員として加わった。必死だった。砂利の一粒まで感じ取れるくらい気を張った。それでも、最初から結果は予想できていた。

 ソーレは二度と戻ってはこない。

「あの人も同じだったんだ」

 レノシルフィへの返事を告げた。

「俺やお前と同じ。雨と触れあった。こんなにすさまじいものだったなんて知らなかったんだ。俺は一度もあの人をこれまで理解したことがなかったんだって分かった。でも、今はもう、違う。お前に対してもそうだ」

「あんたやっぱり」

 レノシルフィの言葉は続かなかった。二人はすぐに気がついた。

 気配が三つあった。どこから現れたのか定かではなかった。追手のものとは考えにくかった。それは下からではなく、上から近づいてきていた。

「レノシルフィ」

 腕をとる。ありったけの気持ち、自分の中にある泉の水すべてを流し込む。

 それは手向け。

「幸運を祈る」

 気配の一つは、二人のよく知るものだった。

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