彼女の家へ向かう足取りが重くて仕方ない。頭が拒絶していた。昨日の今日で何かができるわけない。行っても、無力さに歯噛みするだけ。

 自分の内側で飛び交う後ろ向きの言葉を、道端へどうにかこうにか振り払いながら、ドゥニマは穴の東側へ向かっていた。昨晩降っていた雨はやんでいた。しかし日差しはなく、どこか湿っぽい空気が漂っていた。

 それでも休息日である今日は、あちらこちらを気ままに散歩している人が多い。田んぼや畑に出ている人はまばらだった。しかし、それは自身の住む南地域の話で、東の領域へ近づくにつれて活気は薄まっていった。小さな穴の中なのに、まるで印象が変わってしまう。

 村を裏切った者たちの末裔。それが東側に住む人々に刻まれた烙印だった。村で育つ者なら、誰しもが幼い頃から周囲の大人たちからそう教え込まれる。桑を扱ううちに手に豆ができ、その治りで皮膚が厚くなっていくように、強固な決まりごととして頭の中に打ち立てられていく。それが何世代も繰り返されれば、ちょっとやそっとでは破けない皮膚になってしまう。

 けれどドゥニマは蕃神の末裔の話を聞くたびに疑問を抱いていた。そんな前のことが今と関係あるのだろうか、と。過去に不利益が実際にあったとして、今を生きている人々とはなんの関係もない。そんなことで東側の人々がこれほど灰色の空気感で過ごしているのには、違和感があった。彼ら自身は蕃神と協力などしていないのだから。

 父は表向き、穴全体に共通する認識に従っていた。訪れる患者たちに対しては決まりごとから逸脱するような話はしなかった。東は北の慈悲で生かされている状態としていた。しかし実際のところは、大雨のように疑問や不満をドゥニマへ吐き出していた。

 彼らは自分たちとは関係のない、過去の出来事を引きずらされていた。露骨に扱いが異なることで、淡々とした日々を過ごすばかりになっていた。むしろ、救うべき存在だった。

 だからドゥニマはここへ来なければいけなかった。彼らの仲睦まじさは、穴の決まりなんて超えていたから。強い可能性を秘めた関係だった。こんな結末を認めてはいけなかった。

 入り口の藁を持ち上げる。

「ごめんください」

「はあ、どなたですか」

 手前にいた女が立ち上がった。動作の一つひとつがぎこちない。ドゥニマを歓迎していないことを一応は隠そうとしているのだが、そのための経験が足りていなさすぎた。

 同じ村の住人を警戒する、そんな歪な発想をそのうちに変えていかなければいけない。それは追々為さなければいけないが、今はそれどころではなかった。

「レノシルフィさんと同じ組のドゥニマです。レノシルフィさんは」

「あの子なら、朝早くから出てますよ。別にいつものことですけど」

「分かりました、探してみます」

「あの、またあの子が何か」

 声が震えていた。どうやら母親のようだが、レノシルフィの身に起きたことを何一つとして把握していなかった。それどころか、自分が咎められないかどうかだけを気にしている態度だった。身体がこわばる。返事の前に深呼吸をした。本来やるべきことをうっちゃって、彼女に詰め寄ってしまいそうだった。

「いいえ。何もしていません。むしろされたんです」

 母親はその場に立ち尽くしていた。ドゥニマの言葉を飲み込むことができていなかった。彼女の中でレノシルフィは被害に遭う側ではなく、何かを起こす側としか認識できていないようだった。

 本当ならこの人物もドゥニマが手を差し伸べるべき存在だった。だが今は、その余裕がない。挨拶を済ませて、その場を辞した。身体が足りなかった。

 レノシルフィがどこに行ったのか。それは考えるまでもなかった。一つしか候補はなかった。急ぎ足になる。身体を撫でていく生温い風は、焦燥をあざ笑っているようだった。

 例の場所はレノシルフィの家からほど近い位置にあった。それでも運動し慣れていないドゥニマは息を乱していた。

 崖よりの茂みに注意を向ければ、気配が二つあった。両方が動きを止める。

「お前か」

 イレノルは地面に這いつくばっていた。ドゥニマへ声をかけた一瞬だけ顔を上げたものの、すぐにまた下を向いた。草むらや近くの木を確認しているようだった。

「イレノルくんもいたんだね」

 嬉しい、と続けそうになって、ドゥニマはぐっと口をつぐんだ。彼が仲間のために腰を上げたのは喜ばしいことだった。けれど、その理由はまるで歓迎できない。親がいなくなったことで立派になった子どものような痛ましさがあった。

 彼は自分の叔母が消えた事件を今回の事件と重ねている。

「あんな消え方、ありえないからな。それに」

 言葉が途切れる。ドゥニマはすぐにでも彼の背中へ手を伸ばしたかった。その言葉の中に隠れる悲劇を癒したかった。

「いや、なんでもない。俺よりそっちだ」

 けれど、そうするよりも前に分厚い壁が出てきてしまった。彼はほんの少し核心を出しかけてすぐに引っ込めてしまう。

 イレノルも東側の住人だった。ほかの住人と同様に蕃神に味方した者の末裔に当たる。それだけであればまだましだった。八年前の失踪事件が、間違いなくますます外との断絶を生み出していた。さながらこの穴と外とを隔離する崖のようにドゥニマたちとの距離を離してしまっていた。

 彼の叔母であるソーレは、肌にまとわりつくような雨の晩に消えた。いまだに、その消息は謎のままだった。五人組で一緒になってから、いや本当はそれより前からずっと、彼の言動の裏には彼女の幻影があった。

 首を振って、今まさに考えるべきことに頭を切り替える。身体を左右に揺らしながら崖の方へ寄っていくレノシルフィの背中に手を当てた。

「レノシルフィさん、大丈夫?」

 触った印象は一言で言って最悪だった。身体はがちがちに固く、ひとたび風が吹けば倒れてしまう細い棒のようだった。立って動いているのが不可思議なほど衰弱していた。

「ああ、ドゥニマか。大丈夫。大丈夫だよ」

 かすれてしまっていた。声以上に全身から生気が削げ落ちてしまっていた。いつもの破天荒な様子は微塵もない。倒れてしまえば、そのまま身体が分解されて空気に掻き消えていってしまいそうだった。

「でもあなた」

「どうしても、やらなきゃいけないんだ。じっとしてられない。眠っていられない」

 ドゥニマの腕をそっと除けて、レノシルフィはまた崖の方へと歩き出す。憐れみを抱かないではいられなかった。原因はただ一つ。

 昨晩、イシツヤが消えたことだった。

 分かっているのに解決ができない。癒すことすらままならない。無力だった。心の動きについての知識があっても個々の事象そのものには干渉のしようがない。

 記憶を手繰る。配給係の家から不貞の相手の家までの道を、ドゥニマたちは手分けてして調べていくことになった。何か出てくると思っていた人はいなかっただろう。ジルフォックの発案にしては、確実性の薄い行いだった。それでもやろうと考えた理由は想像がつかないでもない。彼は兄をあまりに意識しすぎているから。

 半端のままで帰る気にはなれなかった。ジルフォックが何か手の内を隠しているだけの可能性もあったし、なによりイレノルが前のめりだった。そのこと自体が不安で、放っておけなかった。八年の月日を経てなお彼から消え去っていない存在が、失踪騒ぎによってふたたび濃くなっていた。

 消えた晩、配給係がどの道を歩いたのかは誰も知らなかった。各々が踏み出して一人になったとき、ドゥニマは自分が夜に攫われてしまいそうな恐怖に襲われた。普段ならまったく気にも留めないのに、田んぼから流れてきた泥の臭いや、草木の揺れる音が、どこか知らない場所へ誘おうとしているという妄想に囚われそうになった。このあとに起きたことを考えてみれば、何か虫の知らせを受け取っていたのかもしれない。

 迷妄を断ち切ろうと、怪しいものがないか探すのに神経を使った。実の入りはないままに配給係の妾の家までもうすぐという地点まで進んでいった。もう少しで終わる。駆け足をしようというところだった。

 突然、方向感覚を失った。

 あまりに唐突で、混乱していることすらその最中は理解できていなかった。高熱にうなされて現実と夢の境界が曖昧なときのような息苦しさに、死んでしまったのかとすら感じたほどだった。どんな姿勢になっていたのかすら曖昧だった。

 どこに集中すればいいのか分からなかった。いや、どうやって集中できるのかが分からなかった。神経が霧散してしまっていた。身体と精神がくっついているのかも自信がなくなっていた。

 どのくらいの時間が経過したのかもはっきりしなかった。感覚が元に戻ったことに気がついたのは、崖の方向から激しい声が聞こえてからだった。寝起きというのか、その場で回転し続けたあとのまっすぐ歩けない状態というのか、とにかく足取りがしっかりしなかった。おまけに方向は分かるようになってなおも殴られ続けているようなひどい頭痛がしていた。

 崖に近づくにつれて、枯れていた身体に水を流し込んだときのように、だんだんとあらゆる感触が戻っていった。激しい声の主がレノシルフィであることも分かった。

 イシツヤの名前を、何度も、何度も、叫んでいた。

 不意に肩を叩かれた。過去から意識が舞い戻る。

「ぼーっとしてても何も出てこないぞ」

 イレノルはまた木々の間へ戻っていった。そうだ、とドゥニマは自分の顔を叩いた。今度は本気でやらなければならない。昨晩が本気でなかったわけではない。けれど、気持ちの入りようは否が応でも違ってきていた。誰も悲しまない男の失踪とはわけが違う。あれほど。そう、あれほどに取り乱したレノシルフィは記憶になかった。イシツヤの名前を呼び続け、駆け回り、彼が消え去ったという事実に抗い続けた。ジルフォックとイレノルの二人がかりでやっと押さえつけることができたほどだった。次に訪れたのは喪失で、魂が身体から抜け出てしまったようにぼんやりとしてしまっていた。そこまでがドゥニマの昨晩の記憶だった。

 先ほどの様子では昨日よりはましという程度だった。イシツヤが消えた事実を一旦受け入れ、彼を探し出すという一心だけで身体を引きずっている。不安定な状態であることには変わりがなかった。切れかった一本の糸に同じような状態の糸を足しても、保てる時間が多少伸びる程度の効果しかない。

 だからこそ、早々に事態を進展させたかった。もう事件に対して他者ではいられなくなっていた。イレノルやジルフォックのように前のめりで関わっていかなければならない。

 地面へ注意を向ける。昨日はレノシルフィをなだめるのにいっぱいでしっかりと確認できなかったが、やはり不自然な跡があった。ものを引きずったような二本の溝だった。一本は崖際の道の近くから、もう一本は少し崖側の草むらへ近づいた位置から、それぞれ崖に向かって伸びていた。ほぼ一定の深さで両端に土を寄せていた。

「……これ、なんなんだろう」

 その脇に、点々とした穴があった。腕を丸めて地面へ押しつけたような形をしていた。

「さあな。それが分かったら苦労しない」

 イレノルもその穴には気がついているようで、浅いものから深いものまで種類の多いその跡を追っていた。徐々に徐々にそそり立っている終点、穴を穴にたらしめている崖へと近づいていた。

 その手前にレノシルフィがいた。今にも岩肌へ噛みついていきそうな、鬼気迫るものが滲んでいた。もう一度、背中に手を当てた。ちょっとでも楽になってほしかった。

「大丈夫だよ」

 だが今度もまたゆっくりとはがされてしまった。やはりイシツヤでなければ。彼女に触れるのは彼でなければ不十分だった。

「やっぱり、ここで途切れるか。どういうことなんだ」

 二人のやりとりの横で、イレノルは壁を叩いていた。そうすれば道が現れるのではとでもいうように。しかし、実際はびくともしない。こちらを突き放す冷たさを堅守していた。

「あのとき、みんなもおかしくなったんだよね」

「イシツヤが消えたときのことなら、お前の言うとおりだ」

「ちょっとイレノルくん、もう少し配慮しなさい」

 イシツヤが消えた、そう口から出てきたときレノシルフィの肩が大きく跳ねた。彼女に余計な負担をかけたくはなかった。

「お前の言い方だって大概だと思うがな。まあいい。おかしくなったっていうのはお前の言うとおりだ。前後不覚になった。頭がくらくらして、立っていられなかった。レノシルフィも同じか」

 レノシルフィは声を出さず、ただ賛同の意として手を上げた。

「確かめてないが、ジルフォックも同じだろう。俺たち全員に何かが起きた。それは間違いない。想像するまでもないが、イシツヤも同じ状態になっていたはずだ」

 イレノルは崖に背を向け、道と草むらの境界へ戻っていく。

「ここにある溝も確認したよな」

「二本ある」

 壁際から動いていなかったレノシルフィが唐突に声を発した。ドゥニマは肩を震わせた。居合わせた人を圧し潰してしまいそうな重たさがあった。

「そうだ二本ある。誰かを引きずったような跡がだ」

 イレノルは二本というところを強調した。何が重大なのか、ドゥニマには分からない。考えなければならないことなのに、それ以上に彼の態度の方が気になって仕方なかった。

 レノシルフィとそれに振り回されるイシツヤ、二人は組の中でも賑やかな存在だった。奉仕活動をさぼろうとする、崖を登り出そうとする、倉庫に忍び込む。ドゥニマとジルフォックも想定外の自体に巻き込まれることはしばしばだった。正直なところを言えば、半分は呆れながらも、残りの半分は楽しんでいた。

 イレノルは違う。どんな騒ぎに巻き込まれても、起伏がなかった。自分には関係ないといわんばかりで、どこ吹く風だった。

 そんな彼が積極的で雄弁だった。奇妙さを感じるほどに。

「なんでだと思う」

「なんでって、分からないよ」

「二回、別々の奴が引きずられたから。そういう風に考えられないか」

「二回って」

 誰かが何回も引きずられたというのか。誰がなんのために。

「この穴から最近消えた奴は二人だ。イシツヤの奴が昨日の夜ここを通ったときは、一本しかなかったんじゃないか」

 そこでようやく合点がいった。

「配給係の人を引きずった跡が最初にあって、昨日はイシツヤくんがそれを見つけた」

「俺はそうだと思ってる。それからあの謎の現象が起きた。イシツヤも抵抗なんてできなかったはずだ。身体の自由も意識も無理やり押さえつけられる。その間にあいつは引きずられていったわけだ」

 ありそうな話だった。警吏であるイシツヤ、いやそれ以上によく周囲を気にかけているイシツヤなら、こんな不自然な溝には気がついたに違いなかった。

 けれど、そうだとしたら単純な疑問が浮かぶ。

「どこに?」

 溝は崖の方向へ伸びている。それは二本のどちらが配給係とイシツヤのものだろうと変わらない問題だった。ここで彼らが何かに襲われたことが分かっても結局身体は出てきていない。振り出しから進んでいなかった。

 もう一度、崖へ身体を向ける。自分たちの家のような分かりやすい出入り口はなかった。あざ笑うことすらせず、鎮座している。

「蕃神の道」

 レノシルフィの声にまた震える。耳から侵入して、内臓をえぐり出してきそうだった。

「ここにある。絶対に。くそ」

 彼女はきっと朝からずっと、ここに張りついている。そうして探し続けていた。彼を取り戻すための方法を、必死に。ドゥニマは歯を噛み締めた。

「ねえ、イレノルくん。イシツヤくんはきっと無事だよね」

 遥か昔ならいざ知れず、もう蕃神の恨みなどというものから縁遠いはずだった。おまけにイシツヤなんて怨嗟という言葉とまったく似あわない。復讐を受けるべき存在ではなかった。理不尽に出くわしていいはずがなかった。

「さあな。分からない」

「無事だよ、きっと」

 繰り返す。イレノルは物事に対して冷淡なところがあった。東側の人々全般にその傾向がある。連綿と続いてしまっているこの病理をどうにかしなければいけなかった。慰めも励ましも彼らは必要性を感じられていない。根拠のない希望であっても口にしなければならないときがある。

「……確かに、今の状況だけなら生きている可能性の方が高いだろうな」

「可能性が高いって。そんな」

 続く言葉を飲み込む。発してしまえば、それは実在を得て歩き出してしまう。ただの懸念を本当にしてしまう。そんな気がした。だから生み出すことさえ避けたかった。

「蕃神の祟りだかなんだか知らないが、ここにあいつは転がっていなかった。隠す必要性がどこにある。復讐だとか穴の中に混乱をもたらしたいとかそういう情念があるなら、そこらへんにうち捨てておいた方が恐怖として脅威になる。そうしていないってことは、生け捕ったって考える方が自然だ」

 つまり最悪の事態には至っていないはず。イレノルの言葉をドゥニマはそう捉えた。

 まだ間に合う。

「生け捕っているとして、それもそれでどうしてなのかは分からないがな」

「そんなのなんでもいいよ。無事なら、なんでも」

 レノシルフィにせよイシツヤにせよ、そうでなければいけなかった。


 イシツヤの消失はまだ村全体には広まっていない。それは混乱を起こさないためにジルフォックが決めた采配だった。近くに四人もいながら怪奇現象に襲われ、そのあとに人が一人忽然と消え去る。人知れずいなくなった嫌われ者の配給係のときとはわけが違った。

 けれど、村全体に広まるのは時間の問題だった。穴は狭い。流行り病みたくあっという間に広がるのが容易に想像できた。

 ジルフォックにしても、たいした時間稼ぎにならないとは分かっているに違いない。レノシルフィの様子がおかしければ、誰でもイシツヤのことを考える。彼が穴のどこにもいないことに気がつく。イシツヤの家族に口止めをしたところでどうしようもなかった。天候をどうにか変えてみせろ、と同等の難題だった。

 だから打てる手はどんどん打たなければいけない。

「ごめんください」

 木の扉を叩く。すぐに中から女性が出てきた。ジルフォックの母親だった。

「あら、ドゥニマちゃん。どうしたの」

「こんにちは。ジルフォックくんはいますか」

「今さっき帰ってきたところ。ちょっと待ってね」

 村長一家はひとところに全員で暮らしていた。やもめの村長、その息子と配偶者、ジルフォックたち孫二人。ほかの村民たちの家ならとても収まらないが、ここの広さならもう十人くらい増えても問題にはならない。扉越しに中の様子を探る。

 玄関、廊下、左右にある個々人の部屋、その奥には居間があり、そのすべては木材だった。茅葺はほとんど使われていない。外は地上から玄関までが階段になっていて、木材の組み合わせによって地面から家の床を浮かせているのも特徴的だった。こんな作り方ができるのかよって子どものときにびっくりした、と前にイシツヤが漏らしていた。

 待っていると、廊下の左側にある扉の一つが開いた。出てきた人物がドゥニマの方へ近づいてくる。

「そこをどけ」

 言われたとおりにして、さっさと通した。お礼も言わずに外へ出る。ジルフォックの兄は生き急ぐような早足で遠ざかっていった。

 天才、というのが長く彼を象徴している言葉だった。勉学に長け、問題が起これば瞬く間に解決策を編み出し、天災に見舞われればこれ以上ない適切な対応策をとれる。ドゥニマからしても、彼は確かにその単語がふさわしいだけの能力を持っていた。

 今は長年穴が抱えている資源の問題にあたっていた。食物が足りていないわけではないが、年間の天候に左右されるところがおおいにある。その解決のため、村の中でだけで対処するのではなく外へ向かうという方針を掲げていた。それも、崖を越えるのではなくて崖を掘る、というこれまで穴の中の誰もが考えてもみなかった手段だった。

 村への貢献、という点からすれば彼に比肩できる人物はいなかった。しかし、心を診る家系であるドゥニマからすれば、周囲に病気を蔓延させていく細菌の親玉だった。あまりにも自分以外をないがしろにするために、健康をくじかれた者がたくさん患者にいた。それこそ貢献を食い荒らしてしまうほどに。

 それを知っているために、ドゥニマの中での査定はむしろ村の害悪であるというものになっている。

「済まない。待たせてしまったかな」

 一方のジルフォックは物腰が柔らかかった。素の態度ではないのは丸分かりではあっても、兄とは違う形を模索していることには好感を持っていた。より大切なものを分かっているのは彼だと感じていた。

「いいえちっとも。お邪魔しても大丈夫?」

「何か相談かな。それなら外でもいいかい。散歩でもしながらにさせてもらえるとありがたいな。ちょうど今、家から離れたい気分なんでね」

 引っかかる物言いだった。声の張りのなさは昨晩の疲労由来だと推測していたが、まったく別の事情かもしれなかった。

「うん、それでも大丈夫」

「ありがたい。それじゃあ早速出ようか」

 ジルフォックを伴って元来た階段を今度は下る。彼が前に出たので、その背に手を当てた。

「さっきお兄さんに会った。相変わらず、こっちには興味なしって感じだったけど」

「それは不快な思いをさせてしまったね。自分のことじゃないのに、申し訳ない気持ちになるよ」

 彼は兄に批判的な話の振り方をすると饒舌になる傾向があった。ドゥニマの考えていることを実現までこぎつけるには、どうしても彼を味方につけなければいけない。申し訳なさもあるが、使えるものは使いたかった。

「話っていうのは、イシツヤくんのことなんだ」

「そうだろうね。それ以外だとは思っていなかったよ」

「村長さんたちはすぐ捜索を始めてくれるんだよね」

 イレノルと話したあともしばらくドゥニマは、続けて現場を調べてみていた。しかし、事態の打破につながりそうなものは何もでてこなかった。いかにも怪しい溝と心をすり減らし続けている友人がそこにあり続けるだけだった。

 彼とレノシルフィには村長宅に向かう話をしたが、二人はついてこなかった。しばらく説得してみてもなしのつぶてで、仕方なく一人で訪ねることになった。彼らは頼れるものに頼るという発想が弱い。それは彼らのせいではなく、助けてこなかった周囲のせいであると捉えていた。

 ドゥニマが頼みに考えているのは当然に村長だった。その家の一人が仲間にいる。当たらない理由がなかった。実際、八年前の失踪騒ぎのときは村長自ら指揮もとりつつあちらこちら探し回っていた。今回も同じことができるはずだった。

「いいや。それが祖父は動くつもりがないみたいなんだ」

 それなのに、ジルフォックの返答は芳しくなかった。崖から突き落とされた気分だった。

「どうして」

「村の混乱を避けるため、と言ってはいた。本当かどうかは怪しいけれど」

「それなら、もっと強く言ってみてよ。ジルフォックくんの言うことならきっと」

「聞かないよ、僕の言葉なんて」

 そこにある拒否の声色に、ドゥニマは口をつぐむ。

 父を訪ねてくる人たちは一様に認識が歪んでいた。雨が降れば自分を責めていると言い出し、曇れば気持ちをさらに塞がせようとしていると穿ち、晴れれば沈んでいるのをあざ笑っていると嘆く。人だろうと自然だろうと、何もかもが敵だと思い込んでいた。

 そういう人たちの発するものと、今のジルフォックの雰囲気は近かった。

「すまない、ドゥニマさん。とにかく祖父は頼れない状態だ。どういうつもりなのかは見当もつかないけれど、言葉どおりの考えではないと思う。おそらくね」

 気になると我慢できなかった。今はその取り繕いの向こう側を確認したかった。彼の腕を掴む。冷水につけていたようだった。

「やめてくれないか」

 温かみが消えていた。やはり根本がぐらつき始めてしまっている。この状態の彼には長く出くわしていなかった。もう克服したものだと思っていたのに、このおかしな事態で復活してしまっていた。それは悪癖だった。米粒を数えるかのように自分が兄に劣る部分を一から百まで追ってしまうような、極端な後ろ向き思考に陥っていた。

「ジルフォック、君はいまだに」

「いまだに、なにかな。いまだに役に立たないとかかな」

 取り繕っていた皮が脆くもはがれてきていた。彼だってイシツヤの消失に動揺しているに決まっていた。

 揺れれば、表が壊れて中が覗く。それが彼に起きていることだった。

 今は頼るのが難しいかもしれない。

「とにかくだ。祖父が動く見込みは今のところない。僕が、いいや僕なんかでは」

 彼はすでにドゥニマを感知できなくなり始めていた。

 父はこういう状態になった患者に対して、穴籠りを始めたという表現をよく用いていた。


 許せなかった。

 蕃神の祟りだろうとなんだろうと。

 ドゥニマにとって今の五人組は、所属しがいのある面々が揃っていた。誰も彼も傷ついていて支えを必要としていた。最初はイレノルとレノシルフィのことだけを助けるつもりだった。彼らは生まれからして抑圧されていて認識が狂っている。それを正していくことが役割だと考えていた。ところが、彼らばかりかジルフォックとイシツヤも傷だらけだった。傷だらけであるということは世話をする必要があった。それはもはや、使命に等しかった。

 父も母も人助けに熱心だった。誰もが胸の内に生きるための煌めき、湧き水の出所のようなものを持っていると信じていた。だから、そこを塞いでいるものを排除するためにいつも戦っていた。それは何気ない一言のこともあれば、あまりに痛ましい命の記憶ということもあった。

 ドゥニマも両親のようにありたかった。どこに住んでいるのか、先祖が裏切りを働いたのかそうでないのか、そんなものは大事ではなかった。もっと抱きしめなければならないものがたくさんある。この村には頭の自由が必要だった。

 五人組の面々は、完治に至らないまでも徐々に足腰が強くなっていた。少なくともドゥニマは手応えを覚えていた。イシツヤとレノシルフィはお互いの立場に苦しみながらも、だんだんとその垣根を飛び越える、いや薙ぎ倒す力を蓄え出していた。ジルフォックは赤子の身体がどんどんしっかりしていくように、着実に兄とは違う力を手にし始めていた。

 それがどうなったか。ジルフォックの態度から察することができた。彼は動揺しきって、咲きかけていた蕾が固く閉ざしてしまった。夕立のような突然の出来事によって、ドゥニマが支援してきたことを滅茶苦茶にされた。仕方ないと受け入れられる限界を超えていた。ぶつけるべき対象は分からないまま、とにかく怒りを抱えていた。

 夜の静寂を突き抜けていく。なんとしてもすべてを元の軌道に戻さなければいけない。今日のジルフォックの態度で、とにかく自分が動かなければならないという決断に至った。村長が頼りにならない以上、自分が積極的に動かなければならなかった。

 ほぼ怒りだけが足を動かす燃料になっていた。イシツヤが消えた現場を今一度、時間帯を変えて調べてみるつもりだった。

 現場の近くまで来たところで、ドゥニマの身体の駆動を強制的に止めるようなものと出くわした。

 あれは。

 木陰に隠れる。気がつかれただろうか。しばらくじっとしてみたが、どうやら感知はされていなさそうだった。ドゥニマのいる方と逆方向へどんどん進んでいく。

 勘が二手に分かれてそれぞれに叫んだ。

 絶対についていくべきだ。ここは攻めに転じなければならない。

 いいや、理由はないけれどとても嫌な予感がするから見送るべきだ。助ける側の自分が助けられる方に回ってはならない。

 身体が分裂してしまいそうなほど、その二つはぶつかっていた。

 気配が離れていく。時間はかけられなかった。察知されるのを覚悟で、ドゥニマは追えと叫ぶ声の方に従った。

 それは道からはずれ草むらへと割って入っていった。場所は違っても昨晩のイシツヤの消失が頭によぎる。だが向こうの動きには淀みがなく、一直線に崖の方へ進んでいた。やむを得ないと、ドゥニマも大きく深呼吸をして踏み込む。

 折悪くか運良くか、雨が降り始めた。雨脚は強く、引き返せと言わんばかりに身体へ打ちつけ、体温を奪っていく。同時に足音や草木をかき分ける音をかき消してくれていた。

 際までくると、向こうは崖に手をかけて登り始めた。これまで崖を上がるなんて発想を持ったことのないドゥニマにとっては衝撃的だった。そこは確かにさほど切り立っておらず、足をかけていくことのできそうな段々になっていた。階段というには高すぎるものの、腰の部分くらいの段差を何度か越えれば足元のしっかりした上り坂にたどり着くことができそうだった。

 そこでまた逡巡した。崖を登るというのはまるで想定していなかった。なによりここまでとは異なり相手から身を隠すものに乏しかった。おまけに地面も壁も濡れている。間違いなく悪路だった。わざわざ川から遠い位置に水田を作ろうとするような、どう考えても理に適わないことをしなければいけない。

 背後で別の自分が必死に声を上げていた。まだ戻れる。こだわりは命を懸けるようなものじゃない。これ以上は危険だ。引き返せ。

 先行者はすでに難所を越えて、平地へ戻ったような足取りになっていた。早くしなければどんどん離されてしまう。一方で、理性は壊れたように警告を繰り返していた。

 いや、駄目だ。引き返す選択肢はない。イシツヤはなんとしても救い出さなければ。ドゥニマは大きく深呼吸をした。気づかれたらそのときはそのとき。段差へ手をかけた。注意を怠ればすぐに滑落する。急ぎながらも慎重に登らなければいけなかった。

 それでも何度か手が滑り、擦り剝けができた。うまく力が入れられなくなり、何度か繰り返してようやく越えた箇所もあった。それでもめげなかった。最初はまったく心の内が分からない相手でも、何度も何度もめげずに腕を絡め言葉を交わせば、考えがおぼろげでも掴めてくる。今の行為だって同じだった。むしろきっと、自分の身体一つあればいいこちらの方が楽に違いなかった。相手がいる方が難しい。こんなの無理だ、などと泣き言は言っていられなかった。

 イレノルのことが頭に浮かぶ。いまだその内側に飛び込めた感覚はない。それでも、苗木が立派な木に育つまでのような遅々とした速度であっても、着実に彼は歩み寄り出していた。それに、その腕には間違いなく温もりがあった。彼も自分たちと同じだった。

 今の五人組が結成になるまで彼とは縁遠かった。その存在は知っていた。正確にはほかの人よりも話題になることが多かった。狭いこの穴の住人同士は全員知り合いではあるが、話に出てくる頻度の差はある。八年前の事件でイレノルの一家は話題の的になっていた。それまで完全にいなくなってしまった者なんていなかった。

 彼と会った瞬間、自分の中にあった漠然とした感覚がはっきりと呼吸を始めた。父と母の姿勢から誰かを助けることを意識はしていた。その形はおぼろげで、掬っても落ちていく水のようでしかなかった。それが一変した。

 永遠の夜のように閉ざしてしまった心、穴の四方を囲む崖のような外界との接触を拒否する態度。ドゥニマにとってそれは、自分が為さなければならないことを詳らかにする啓示だった。

 彼こそ絶対に救わなければならない存在。

 段々が終わり、蛇が身体をくねらせながら地を這っているような岩道が伸びていた。先行者はどこまで進んだのか分からなくなっていた。それでも追うのをやめる必要性もない。脇道になるようなところはなさそうなので、とにかく進みさえすれば追いつける可能性は高かった。上がった息を整えている暇はない。すぐ歩みを再開した。

 這い上がるよりはましとはいえ、足元も壁も濡れている環境は想像以上に劣悪だった。油断すれば崖下まで一直線となってもおかしくない。高さは地面から人を六人くらい縦に重ねたくらいで、間にある草木や地面の柔らかさからすればまだ命の危機につながる危険性は低い。骨折くらいですみそうではあった。それでも浮遊、絶望、落下、感覚をつぶさに想像してしまうと身体が震えた。

 それでも追った。こんなところが登ることができるなんて知らなかった。ほかにも知っていることがあるかもしれない。何もかもを引き出したかった。

 どのくらい上がってきたか。あまり下の方へ意識を向けないようにしていた。身体は濡れに濡れ、何度か足元を滑らせかけておかしなふんばり方をしてしまったせいで足には痛みが走っていた。

 周囲にはもう誰もいない。いったいどれだけ先へ行ってしまったのか、まるで分からなかった。戻ってくるのを待つ方が合理的になりそうなくらいだった。ドゥニマは上の方に出っ張りがある部分に気づいて、そこで休憩することにした。厳しいだけの崖がほんのわずか優しさを示したようだった。

 レノシルフィのように草むらへ転がったことはない。家以外で横になることに抵抗があった。しかし今はそんなことを気にかける余裕は出なかった。歩みを止めてみて、自分が想像以上に体力を消耗していると自覚した。悲鳴が聞こえそうなほどだった。進むにしろ戻るにしろ、休むほかない。

 それなのに。

 ドゥニマははっとして身体を起こした。気がついてしまった。

 ついさきほどまで、そんなものはなかったはずだった。

 背後に穴があった。ぽっかりと口を開け、ドゥニマを今にも吸い込みそうだった。

 中からは誰かのいる気配が。

 それも数は。

「ああっ」

 頭の中を大量の虫が飛び交うような気色悪い感覚に襲われた。イシツヤが消えた晩に起きたものと同じ。方向感覚がなくなる。地面に這いつくばった。腰を上げることができない。動くなどもってのほかだった。

 何者かが迫ってくる。どうして。なぜ。あのとき自分たちは誰も動けなかったのに。意識が遠ざかっていく。自分というものが離れていく。

 誰かが何かを言ったような気がした。けれど、まるで聞き取れなかった。

 ジルフォックくん、イシツヤくん、レノシルフィさん。

 それにイレノルくん。

 私はまだ誰も救えていないのに。


 この晩、今度はドゥニマが穴の中から失踪した。

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