2
イシツヤは頭を抱えていた。一体全体、どうしてこんなことになってしまったのか。過去を振り返っても仕方ないと分かっていながら繰り返さずにはいられなかった。
夜七時を告げる時間係はすでに家の前を通り過ぎていた。外出までそこまで猶予はなかった。別に身一つあればいいから準備はいらない。ただ、気持ちの整理はできていなかった。
もう何度したか、昼間の奉仕活動の合間、配給係の家の外でジルフォックと交わした会話をまた思い出す。
五人組のほかの三人は先に家へもう戻っていた。レノシルフィは足取り軽く、イレノルとドゥニマはどこかぎこちなかった。彼らが十分離れたと判断してから、三人には聞こえないように尋ねた。
「どういうつもりだ、ジルフォック」
まさか村長の孫で村の掟を守る側であるジルフォックが、レノシルフィの勢いに任せた案に乗るなどとは思いもよらなかった。突飛なことをする存在には事欠かないというのに、さらに現れては収集がつかなくなってしまう。
兄の方は兄の方で、今まで誰も考えつかなかったようなことを言い出す規格外の男だった。つい昨年も、崖を登るのではなく崖に穴を掘って道を作れば外界とつながる可能性がある、とぶち上げたばかりだった。そちらとは異なり、ジルフォックは堅実で地道な仕事ぶりが持ち味になっていた。周囲は兄の才覚をほめそやしていたが、イシツヤからしてみれば弟の方が村に必要な存在だった。ただ一番評価していないのは本人というのが、どうももどかしいところだった。
「さっき話したとおりだよ。自分たちでも調べておきたいというだけ」
「本当にそれだけか」
「それだけだよ」
とても言葉どおりには受け取れなかった。しかし、重ねて尋ねてなお意図を話さない時点で、本音を教えるつもりはまずないに違いなかった。ジルフォックは人の話はよく聞くが、自分の話はしたがらない。そもそも村の者たちは彼から話を引き出そうという考えを持っていない節もあったが。
だから家に帰ってきてから、一人でその意図を考えていた。
おそらくは兄絡みだった。表に出すことはあまりないが、彼の中にはその影が常に潜んでいる。口にはしていなくても天才肌の兄と地道な自分の差を気にしすぎて、良さを捕まえ損ねているのは察しがついた。
だからといって、こんな。
「イシツヤ、邪魔するぞ」
悶々としていると父が部屋へ入ってきた。村長の家のように仕切りなんて贅沢なものはない。無言の了解でなんとなく範囲を決めているだけだった。それゆえに誰でもが誰でもの場所に入り放題だった。寝転んでいたイシツヤのそばに腰を下ろし、腹に手を当ててくる。何かの小言だというのはすぐに分かった。
「村長のところの孫、次男坊に呼ばれているらしいな。五人組の活動というわけでもないんだろう。付き合ってやることはないんじゃないか。それもお前が」
「そうもいかない。レノシルフィの奴も行くらしいし。好き勝手にさせるわけにもいかないだろう」
「そっちもだな。何度も言っているが、お前入れ込みすぎじゃないか」
「そういう役割だろう、俺は。父さんの手を煩わせないようにもしてるつもりだ」
これは詭弁だと、イシツヤ自身も分かっていた。まったく信じられる言葉ではない。レノシルフィの警戒は確かに警吏としての仕事として命じられたものだが、それを言い訳にしていることが多いのはあからさまだった。父をごまかせるわけもない。
レノシルフィの一族は、蕃神に味方した者たちの末裔の一つだった。彼らはほかの一族たちとともに村の東側へ住処を集められている。彼らの住む地域との南側の境に、代々警吏の仕事を任されているイシツヤたちのような一族が暮らしていた。抑止と警戒、それが役割だった。親交を深めるなどという概念はなかった。
「昔からお前はあの女に付き合いすぎている。もう自分でも分かっているはずだ。子どもでもない。取り返しのつかないことになる前に、弁えろ」
「……分かったよ」
父の腕をどかし、イシツヤは重い重い腰を上げた。
「イシツヤ」
「村長の孫に恩を売るのは悪くないだろう。兄貴に恩を売るのは崖を超えるより難しいしな」
返事は待たずに飛び出した。早く彼女の家へたどりつきたかった。
外に出てみると、雨が降り始めていた。たいした勢いはない。身体に当たる感触は優しい。イシツヤの記憶が刺激される。頭に宝箱があるのなら、そこへ大切にしまっていた。
五人組は五年に一度の周期で結成や再編成がなされる。対象は十三歳以降の者で、十八歳までにはどこかしらに所属となる形だった。歳の近い面々になることが多かった。若い組なら力仕事、老いた組なら話し合い、といった具合に役割を分けやすいからだった。
ただ、そういった村の雑用はどちらかといえば第二の狙いだった。第一の狙いは、はみ出し者たち、つまり蕃神へ味方した一族への用心だった。隠されているわけでもない、口に出すのが憚られているわけでもない。村人全員が認識している決まりであるために、殊更に取り上げられることがないだけだった。
イシツヤの組、ジルフォックを長とする編成では、レノシルフィとイレノルが警戒対象の一族だった。特にレノシルフィとはイシツヤと一歳差で家も近かった。そのため最初から組も同じにすることをにらんだうえで幼い時分、六歳と五歳というときに顔合わせをしていた。
その日も、似たような雨だった。イシツヤの家へレノシルフィとその両親が訪ねてくる段取りになっていた。自分はやってきた少女を警戒する立場になる。そのことは先に親から言われていた。具体的な振る舞いはさっぱり分かっていなかったのだが、そういう心持ちで対面しなければならないと身体を固くしていた。
そんなイシツヤの前に現れたレノシルフィの第一声。
「あんた、人生損してるんじゃないの」
ただの水溜まりだと思っていたのに、深い池へ足を入れてしまったような、想定外の驚きがイシツヤの全身に駆け巡った。初対面の握手を交わしていたそのときに、足をとられてしまったのだった。
「損って、どういうことだよ」
「あんた雨は好きかい?」
「好きでも嫌いでもない」
「じゃ、ちょっと耳を澄ませてみなよ」
お互いの立場を知っているのか知らないのか。気軽に肩に手を置いてきた。
親同士は部屋を変えて話し込んでいた。いや、イシツヤの両親が一方的に何かを言い聞かせていた。そんな重苦しい空気の中でもレノシルフィは好き勝手に振る舞っていた。
怪訝に思いながらも言われたとおりにしてみた。彼女がさらにささやいた。声量を落としていてなお、その声からは口から出た言葉が激しく外を跳ねまわりそうなそんな印象を受けた。
「雨に集中するといいよ。自分が雨になるみたいに」
「そんなこと言われても俺は雨じゃないよ」
「ものの例えだっての。いいから、そういう気分で集中」
押し切られて、仕方なく従った。何をしているのかと疑問を浮かべる暇もなかった。自分が雨になる。とにかく念じてみていた。
最初はただの雨の音がするだけだった。聞き慣れたものでしかなくて、変哲はない。
けれど、不意に気がついた。
茅葺屋根に当たる音、地面で跳ねる音、勢いの大小で微妙に変わる音色。
当たるもの、当たり方、降る量。雨の音は一つではなくて、刻一刻その調子を変えていた。
生きている。
「分かった?」
イシツヤが感覚を掴んだというのを、彼女はすぐ察知した。
「すごいでしょ。なんだか生きているみたいで」
腰に手を当てて得意気にしていた。そのとき湧いた気持ちは、尊敬だった。純粋に彼女の感性へ感動していた。およそ、警吏が警戒対象に抱くようなものではなかった。周囲から事前にさんざん色々なことを言われてこそいたが、そのときは実感なんて伴っていなかった。だから素直に自分の感じたことを受け入れた。
そして今は異端だと自覚してなお、彼女へ抱いたものもその記憶も手放したくなかった。
そのうちにレノシルフィの家の前についた。慣れたもので、玄関ではなくて家の東側の壁を叩く。呼びかけるとすぐに、待っててくれ、と中から返ってきた。
迎えに行く習慣は五人組の結成より前からのことだった。毎日のようにイシツヤの方から訪ねていた。レノシルフィがイシツヤの住む南側を訪れると、周囲が途端に警戒状態に入ってしまうのが原因だった。あまり大事にはしたくなかった。かといって、遊ぶのをやめるつもりもなかった。
迎えに行くという行為自体もイシツヤは気に入っていた。もうすぐ彼女と会える、心がそれだけで弾む。待つのではなくて自分から動けるのがよかった。
「よっ、イシツヤ。そんじゃあ行くか」
レノシルフィはあっという間に玄関から外へ出てきた。ほかの家族も家の中にいるはずだが、なんの生活音も漏れ出てこなかった。蕃神に味方した者たちが警吏に示す態度としては、むしろその方が自然だった。交わるのは、五人組の活動時や年末年始程度しかない。
彼女の両親は、おおよそレノシルフィを生んだとは信じられないようなおとなしさだった。何も彼らが特別なのではなく東側の住人はえてしてそういう態度の者が多かった。幼馴染がぶっ飛んでいるだけのことだった。
「なあイシツヤ。あんたは今度のこと、どう思ってるんだ」
道中、不意にレノシルフィが口を開いた。数秒前までは夜風やそれによって揺れる草木の音に耳を澄ませていたのに。最初の頃こそ驚いたが、今となってはこのくらいで驚いていられなかった。
「配給係の失踪のことだよな。どうだろう」
ジルフォックの狙いにばかり気を取られていて、肝心の事件については頭を働かせていなかった。
そもそも穴の中での事件は非常に少ない。一番多いのがせいぜい盗みだった。暴力ましてや殺人は、警吏を務めている面々でなければ言葉すら知らないことも多い。失踪となると、さらに少なかった。この村の狭さでは消えようがないからだった。村の中央を流れる川が大雨で勢いを増したときは何人か流されてしまったことがあると聞いていた。とはいっても、崖へ達した地点にあるのは水しか入れない隙間なので、そこへ足を向ければ簡単に消えた者の行方を確かめることができた。
だから頭の中に浮かんだのは、八年前の失踪事件のことだった。
いなくなったのは女性で、ある夜に忽然と穴からいなくなってしまった。深夜に家を出て行ったようだ、というところまでしか動きは分からずじまいで、今もなおどこへ行ったのか知る者はいない。どうやって、も謎のままだった。
「やっぱり、どこかに穴の外につながっている道があるのかね」
考えに耽っているとレノシルフィがつぶやいた。噂として根強く残っている意見だった。
蕃神は外からやってきた存在だった。それはつまり、彼らが外から穴の中へ入るために使った道がどこかにあるはず、そういう話だった。
イシツヤは信じていない。信じては、いないのだが。
「そんなのがあったらすごいけどな。どうして誰も探し当てられないんだ」
「そりゃあ、隠された道だし。ちょっとやそっとじゃ探り出せないようになってるんじゃないか。そもそも蕃神たちは私たちと違う存在だっていうし、そいつらが隠したとか」
「そこを通れば外の世界ってわけか。想像つかないな」
「あたしは、こんな狭い穴の中よりは伸び伸びできると思うな。それにきっと、いろんなもんがある」
穴の外の話をするときの彼女は、身体が浮かんでいきそうなくらい、活き活きとしていた。
その様子に一抹の不安を覚える。
「レフィ」
立ち止まって名前を呼んだ。省略した呼び方、彼女の両親だけが使っていた呼び方、そしてとある日に突然イシツヤなら使っていいと許可を受けた呼び方。特別の味がした。甘くて苦くて、ずっと含んでいたいような、すぐ吐き出さなければいけないような。
「もし本当に道があったら外の世界に行くのか」
信じてもいないものの存在を前提に、自分は何を言っているのか。だが今このときイシツヤにとってその問いは、配給係の消失、ジルフォックの意図、父の警告、それらのどんな物事よりも重大だった。
「あたしは行くよ。さっきも言ったけど、ここは狭すぎるんだって」
「……そうか」
分かってはいた。彼女は常々、この穴の中の狭さを嘆いていた。いざ崖の外に出ても何もないかもしれない。生きていられないような環境かもしれない。それでも、それ自体を肌で感じたい。レノシルフィは一貫して口にしていた。
ふと、彼女の手がイシツヤの手をとった。そこだけが焼けるように熱くなった。
「そんときはイシツヤも行こうよ」
急転直下。我ながら単純が過ぎる。そう思いながらも、イシツヤは全身が熱を帯びていくのを止められなかった。喜びと恥ずかしさと、もっともっと激しく胸を打つ感情が激しく動きまわっていた。
弁えろ。父の言葉も一瞬だけよぎった。しかしその鎖はあまりに脆かった。暴れ回る熱によって簡単に崩れていってしまった。
蕃神の一族と警吏の一族。その関係性は、この穴の中で生きるかぎり守らなければいけないものだと誰もが言った。イシツヤも横たわっている現実の大きさは分かっていて、まだ気づかないふりをしていただけだった。
それならば、穴の中でないなら。
そんな関係性と無縁の場所に行けるのなら。
「なんて、本当にあればの話だけどさ」
レノシルフィはそう言うと、また歩き出した。
ほんの少し、歩調が早まっているような気がした。
「レフィ」
呼びかける。どうしても伝えたかった。
「俺も行くよ」
「……当たり前だっての」
今度は走り出してしまった。
イシツヤはもうジルフォックたちに合流したくなくなっていたが、とにもかくにも後を追うほかなかった。
集合場所にやってくると、ジルフォックが家の裏手から現れた。すでに探索を始めていたのか、じっくりと周囲を確認していた。二人に気がつくと挨拶代わりに手を上げた。
「イシツヤさんとレノシルフィさんか。夜分にありがとう。無理を言ってすまなかったね。僕一人ではなかなか捗らなくて。首を長くして、みんなの到着を待っていたんだ」
「一人で何を調べてたんだ」
「とりあえず、手始めに家の近くに転がっていないか確認していただけさ。たとえば病気なら、ちょうど外に出ているときに倒れてしまった、という可能性もあるわけだからね」
「病死で考えているってことか」
「あくまで可能性の一つ、としてね。あまり本気で考えている線ではないかな」
それはイシツヤも同意見だった。突然病気で倒れる、というのは穴の歴史の中で何度か起こってはいる。検討の余地があるのも確かだった。しかし、もし病気による突然死ならばどこかで倒れているのが発見されるはずだった。事実、過去の人物たちは明日には発見されていた。
つまるところ、この狭い穴の中で煙のように消えているという事態そのものが奇妙だった。
「もう始めてるのか」
「私たちは何をすればいい?」
昼間と同様、イレノルとドゥニマの二人は最後にやってきた。彼らの関係はイシツヤとレノシルフィと同じだった。穴の南と東。ドゥニマの方が立場は上だった。しかし、こと彼女からはその身分を意識させられたことがなかった。レノシルフィにさえも屈託なく応じていた。片や清楚で片や無軌道というところで、時折昼間のようにぶつかることはあったが。原因で多いのはイレノル絡みだというのはきっと気のせいではない。
この五人組ができた当初は、そこまでドゥニマがイレノルに入れ込んでいる様子はなかった。劇的な何かが起きたわけでもなかった。一緒に活動をするうち、自然と彼女はイレノルと行動しようとすることが増えていった。
イシツヤは自分とレノシルフィの関わり方が異質だという自覚はあったが、ドゥニマの態度も勝らずとも劣らないほどに不可思議なものとして捉えている。
今朝の村長の言葉に反感を覚えたのも共通していた。イシツヤはレノシルフィの名前をはっきりと口にし、呼応するようにしてドゥニマはイレノルのことをわざと発言に入れた。
彼女の家はイシツヤと同様に南側の集落にある。特に醜聞の類はなく、東側との関わり方が特殊ということもなかった。ただ、父が以前母に向かって漏らしたことがあった。頭医者の奴は小賢しい、腹の中と出てくる言葉が違う。
イレノルの方は一貫して、全員と距離をとっていた。ただ、レノシルフィの両親のような拒絶とはまた違っている。あちらが畏怖ならこちらは無関心だった。ドゥニマの変化は緩やかだが、彼の方はもっと鈍重だった。
しかし、変わっていないとも言い難い。
「まずは家のそばの確認からかな。僕も先にちょっとやっていたけど、やっぱり注意は多い方がいい」
「それはいいが、何を確認するんだ」
イレノルから問いかけた。彼が積極的なのは意外だった。ドゥニマに止められたのは記憶に新しいが、やはり八年前の事件のことが頭にあるに違いなかった。
彼はとても近い場所にいたのだから。
「たとえば地面のえぐれ、木の皮のはげ、思いつくのはそういうものかな。今のところ彼が自分で失踪するような理由は出てきていないんだ。一方で収穫が間に合わないくらいたくさん恨みは持たれていたみたいだから、今の時点では誰かに何かされたと考える方が自然だと僕は思う。どうかな警吏殿」
「暴力沙汰は確かにありえなくはない。評判は知ってのとおりだし、俺も奴には悪い印象しかない。しかしだ。それで失踪になるのは妙だ。あいつが被害者なら咎だらけで下手人に一方的な裁定にはならないはずなのに」
もめごとが起きたとき、警吏の仕事はその場を収めるところまでだった。そのあとのことは村長やその周りの有力者による話し合いに委ねられる。経験則として、一方のみが糾弾されることは稀だった。感覚としては、偏っても八対二くらいの沙汰が精々だった。あの配給係相手なら、襲われた側になったとしても八を引いてもおかしくなかった。
「それは確かにそうだ。つまりもしも配給係に恨みを持つものが犯人だとしたら、もっと堂々としていて自分がやったことを隠す必要すら感じないはず。そういうことだね」
「そういうことになる。元々素行はかなり問題にされていたし、警吏の間でも有名だった。死んでいればだが、遺体を隠す必要なんてない」
女関係に配給の不正、響きだけは重大そうだが、やること一つひとつはやたらとみみっちいので目こぼしされていただけだった。事故にしろ事件にしろ、イシツヤからすれば因果応報だった。
「それなら別の仮説を立ててみた方がよさそうだね」
「そんなものあるのか」
「たとえば配給係の素行とはまったく関係ない出来事があった可能性はどうだろう。つまり彼は巻き込まれただけの人物という可能性さ」
「素行とは関係ない出来事って、たとえば」
「別の人が怪しい動きをしているところに出くわしてしまった、というのはどうかな」
「怪しい動きって」
「盗みに入るところに居合わせられたというのはどうかな。この村で盗みは重罪だ。みんなで助け合っているわけだからね。だからこそ捕まるわけにはいかない。配給係がもしそんな人物とかち合ってしまったら。これは祖父の受け売りだけど、罪は罪を呼ぶ。盗みを隠すために証言者となる配給係を殺してしまうわけだ。けれど、盗みに加えて殺人までしたとなれば、沙汰も何もない。配給係の遺体を隠してしまえば、殺しの証拠は一つ消える。こうなれば配給係個人の素行とは関係ない失踪のできあがりだ」
「確かに可能性の一つとしては否定できないけどな」
必ずしも、配給係があちらこちらで買った恨みだけが失踪の原因になるわけではない。百歩譲ってそこは理解した。それでもイシツヤからすれば空想に等しかった。
「それにしたって無理のある話だ。遺体を処理している最中にまた別の誰かが来てしまうかもしれない。どこかに運ぶとしてもその途中も誰に出くわすか分かったものじゃない。何よりお前の説だと、別の事件がどこかで起きているはずだろう。そんな報告は出てきてないぞ」
「これは手痛いね。僕も苦しいとは思っていたけど、的確に指摘されてしまった」
ジルフォックもそこは認識していたようで頭をかいた。
しかし今の話はありえないとしても。
「じゃあ、なんであいつの身体は出てこないんだ」
イレノルがイシツヤの頭に浮かんだ疑問を口に出した。誰もそれに答えることができない。
穴の中はすでに警吏たちが手分けして探し切っている。個々人の家に立ち入る権限も持っていて、どこかに隠しているという可能性も限りなく低かった。
「警吏が下手人なら家の立ち入りもごまかせるのか」
イレノルからの質問に耳を疑った。捜索する側を疑うという頭はイシツヤになかった。
「できなくはないが難しいね。祖父はそういうところで抜かりがないから、二人一組で立ち入るから。それもなるべく仲が良くない二人にね。どちらかが何かごまかそうとしても、もう片方が暴いてしまうという構図だよ」
固まっている間にジルフォックが応じてしまった。そうだろう、と確認を受けたのでそれにはどうにか同調を示した。
「それなら蕃神の使った道に隠したってのはどうだい。誰も知らない場所なんだから遺体も出てこないだろう」
ここぞとばかりにレノシルフィが意見する。常識で考えればありえないことだった。誰も知らないのだから使えるわけがない。
しかし、もし実在していてそこに入れる者がいるのなら。
自分たちの村を得体の知れない何かが動き回っている。想像するだけでも気味が悪かった。
「なかなか突飛な意見だ。けれど現時点では僕のさっき出した案と同等くらいかもしれないね。なにしろすでに身体が出てこないなんてありえないことが起きているんだから。どんな可能性も等しく存在する」
ジルフォックは冗談めかしていたが、レノシルフィの意見も一考の余地があると捉えているように感じた。蕃神の道、かつて彼らが使った秘密の通路。まさかと一笑に付したいのに、そうできない自分がいた。
「けれど今は確かめようもない。なんだって考えられる。こういうときは考えるだけじゃなくて、何かないか物理的なものを探すのも手だと思うよ。そこから新しいことを考えられるかもしれないからね。というわけで諸君。捜索を手伝ってくれるかな」
異論は出なかった。
それからしばらく、五人で手分けして配給係の家の周囲を回った。イシツヤはレノシルフィの様子をたびたび確認したが、昼間の作業と違ってこちらは真剣にやっていた。奉仕活動に対してはいかにやる気がないことか。少し笑ってしまい、なんだよ、と訝しまれた。
ジルフォックとイレノルも想像以上に真剣だった。元々奉仕活動でも淡々と仕事をこなす性質ではあったが、いつも以上に集中していた。
例外なのはドゥニマで、声かけにしろ、手の止まり具合にしろ、ことあるごとにイレノルの様子を気にしているのが周囲から丸分かりだった。きちんとジルフォックの方針には従っているものの、動きは遅かった。
「どうかな、誰か何かあったかい?」
ジルフォックが集合をかけた。体感で二十分ほどは経っている。返ってきたのは否定の言葉や沈黙だけだった。
初報の段階ならこの時点で、これ以上は何も出るわけがないと主張していた。身体はそのうち出てくる。あるいはそのうちにひょっこりと戻ってくる。最悪でも穴のどこかで倒れているのに誰かが気づくはずだと。だが実際は穴の中のほとんどを警吏が散策済で、身体はまだ出てきていない。これまで疑ったことはなかったのに、次の日がきちんとやってこないような、そんな不安が胸を覆い始めていた。
「ほかにどこか調べる価値のありそうなところはないのか。昨日の夜の動きは多少なりと分かってるんだろう」
イレノルの口調は普段どおり冷めていて、間に氷を隔てているような遠さがあった。これでも組の活動が始まったときよりは多少融けてきてはいた。それでも特にジルフォック相手だとまだまだ厚さがあった。それを感じ取っているのかいないのか、ジルフォックはほかの相手と変わらない態度で応じる。
「いい意見だね。ほかに確認するとすれば、不倫相手の家への道中はありかもしれない。この家からおそらくは不倫相手のところへ向かっている最中の彼が歩いていた、という証言があったんだ。別人の可能性も否定はできないけど、深夜にほっつき歩いているのは大概彼だったからね」
「証言したのは誰だ」
「君やレノシルフィさんと同じく東側の住人だね。正確には東と南の集落の境の人だけれど。つまりレノシルフィさんの家に近い人だ。もちろんイシツヤさんの家にも近い。そこまでどういう道筋で行ったかまでは分からないけれどね」
「それならとりあえず五人で調べられるだけ調べるのがよさそうだな」
二人の間でとんとん拍子に会話が進んでいた。お互いへの印象はともかくとして、どちらも仕事への取り組み方が似ているせいなのかこういう相性はいい。置いてきぼりになっていたドゥニマが横から口を挟む。
「待って、まだやるつもりなの。道中まで調べてたら朝になっちゃうんじゃないかな」
「そこまで丁寧にはやらなくていいから大丈夫さ。五人で扇状に道を分かれてみて、探っていく程度。最初に言ったとおり、これは強制じゃない。もう帰ってもらっても問題ないよ。ドゥニマさんは先に帰るかい」
彼女自身が帰りたいわけではないのを分かった上でジルフォックは尋ねていた。帰っていいというのも本音だろうが、人手をまだ維持したいという気持ちもあるらしかった。
「みんながやるなら」
「そうだね。家のそばを調べて終わりだと思っていた人もいるかもしれないから、そこはあらためて訊いておこう」
昼に失踪事件の調査をするかどうかを尋ねたときよろしく、ジルフォックはほかの面々の意思を確認した。イシツヤは心こそ解散に傾いていたが、レノシルフィが快諾を返した時点で帰宅の選択肢は木端微塵になった。元々ひびだらけの状態ではあったが。
「全員賛成とは、みんなに頭が上がらないよ。ありがとう。それじゃあ、それぞれどの道を通るか決めよう。僕は真ん中にさせてくれ。左右からの情報も集めやすいからね」
「じゃあ、俺はその隣だ。田んぼ側」
イレノルが食い気味に主張した。人を待つのが苦手なのか、こういう担当決めのような場面は挙手が早い。
「それなら私はイレノルくんの隣の道にする」
次はドゥニマだった。最後でいい、と言うことも多いが、イレノル絡みだと判断が分かりやすかった。当のイレノルはじれったいのか、すでに自分の担当の道の方へ若干動いている。
「あとはあたしとイシツヤか。あたし崖沿い行こうかな」
「いや、崖沿いは俺が行く。だから、レノシルフィは俺とジルフォックの間の道を調べてくれ」
先ほどの蕃神の道の話が頭をよぎって、強引に担当を奪い取った。道があるとすれば崖沿いを疑うのが自然だった。レノシルフィを行かせるわけにはいかない。
「……あんたって頭固いわりには想像に左右されやすいところあるよな」
「誰かさんのせいで、想像の出来事にも警戒するようになったんだ」
「それはいい出会いをしたってことじゃないか」
軽口を叩かれはしたもののレノシルフィは引いた。イシツヤが一番崖側の道を進んでいくことに決まる。崖寄りから、イシツヤ、レノシルフィ、ジルフォック、イレノル、ドゥニマという順番だった。
「それじゃあ、行動開始としようか。怪しいものがあったら逐一声を上げてくれ。くれぐれも危険な行いはしないように」
ジルフォックの宣言を始まりとして、イシツヤとレノシルフィ以外は早々バラバラに散った。基本的には田んぼの間を縫う畦道を進むだけなので、何かが出てくる可能性は低いとしか思えなかった。あるとすれば、崖に近い林めいた木々の間を抜ける、イシツヤとレノシルフィの担当区域だった。
そのイシツヤたちが足踏みしたのは、レノシルフィが呼び止めたからだった。彼女の腕がイシツヤの肩へ触れる。小刻みに震えていた。
「どうかしたのか、レフィ」
「いや、どうかしたわけじゃないんだけど」
歯切れが悪かった。体調不調のときくらいしか似た様子には出くわしたことがなかった。
「今からでも交代しないか。やっぱあたしそっちを確認したくてさ」
「レフィ、大丈夫だ」
彼女の腕に触れた。安心してほしかった。何かが起こるはずない。不安がないわけではないが、レノシルフィが言ったとおり想像に振り回されているだけだった。
「……そうだよな。気をつけて」
「分かった」
気をつけてと言われても、穴にある道はどんなものでもすっかり慣れていた。何に気をつければいいのか分からない。だが、今のレノシルフィに対してはとにかく肯定を返しておきたかった。
「きっとだからな」
念押しして、レノシルフィもその場を離れた。身体の動きのかぎりでは落ち着きを取り戻している。それを確かめてから、イシツヤも四人とは別の道へ足を向けた。ジルフォックには悪いが、手早くやるつもりだった。
左手に崖を臨んでいた。開けている右に対して、圧迫感があまりに強い。動いているはずはないのに、どんどん大きな壁がイシツヤの方に向かって迫ってきているような感覚に襲われる。
頑張れば多少なりと登ることのできる場所も点在していた。しかし、いずれも頂上にはたどり着けず、調査隊が結成されるたびに村民たちをあざ笑うばかりだった。だが、レノシルフィの言うとおりの道が実在するのだとしたら。
また想像の世界に行きかけた自分に気がつき、イシツヤは自分の両頬を叩いた。手早くでいいが手を抜くわけではない。
たいしたものはないと考えてはいるものの、職業柄まったく何もせずというのはできなかった。誰かが通ったような地面の抉れ、植物の頭の垂れ、そもそも人影。考えつくかぎりのものがないか注意して進む。探査の感覚を研ぎ澄ましていた。
警吏に必要な能力は両親からこれでもか、というほどに叩き込まれていた。村の治安を守るため、それはひいてはここに暮らす人々のためになる。両親も含め警吏を務めている人々から代わるがわる口酸っぱくそう言われてきた。幼い時分のイシツヤは、それが自分の生きるすべてだと信じて疑わなかった。
だが、あるとき不意に気がついた。彼らの口にする、暮らす人々のため、の対象は制限がついていた。蕃神へ味方した一族、つまりレノシルフィの属する集団、そこは守るべきものとされていなかった。
イシツヤの中ですでにレノシルフィは大きな位置を占めていた。彼女を含めない教えに価値はなかった。だから分かった。
蕃神に味方をしたと蔑まれている人々と自分たちに、違いなどない。
あるのは歪な因習だけだった。
しかしそれは日陰の水溜まりのように、しつこく二人の関係に影を落としている。
「なんだ……?」
道程はすでに九割消化していた。東側と南側の境がもうすぐという地点だった。件の不倫相手の家からも五分圏内に入っている。だからもう何もないだろうとほとんど決めかかっていた。だがイシツヤの警吏としての能力はその怠慢を許さなかった。
違和感があったのは崖側の草むらだった。草が潰れ、地面には溝のようなものができていた。何かを引きずったときにできる形とよく似ている。
そう、ちょうど成人男性の腕を掴んで引きずったような。
生唾を飲み込んだ。誰かが農作物を運んだだけかもしれない。いや、こんなところを通るわけがない。動物はどうか。足跡ではないのだから不自然だ。考えが浮かんでは、否定が続く。
ジルフォックへ合図するという約束は、抜け落ちてしまっていた。
溝を追って、草むらの中に踏み込む。罠へはまっていっているような感覚に陥った。そんなはずはない。きっとこれは、分かってみればたいしたことのない日常の延長でしかない。やかましい心臓の鼓動を落ちつけようと何度も唱える。
風が止む。木々の立てた音が消える。いつの間にか激しくなっていた雨の飛び散る音と自分の鈍い足音だけになっていた。先ほどまでの時間が嘘のようだった。五人組の活動と大差ない、精々が日常の延長線程度のもののはずだった。その線がぶつりと断たれてしまっていた。イシツヤはどこか現実と非現実の境に存在する辺鄙な場所へ迷い込んでしまっていた。
そのうち、草むらと木々の空間の端、道からは離れた地点、そこに現れた切り立った岩の崖と対面した。
溝はどうなっているか。それだけ確認すればいい。そのあとはすぐ戻る。一刻も早く、この不安の渦から足を引き抜かなければいけなかった。
それなのに。
あまりにも突然だった。
世界が歪んだ。
「うぁ」
声が漏れる。出したことのない、出そうとしても出せない声。
急速に気持ち悪くなっていく。脳を直接掴まれて、思い切り揺らされているようだった。ものとの距離が測れない。方向が分からない。どちらが崖で、どちらが元の道なのか。
そもそもここは本当に今までいた世界と同じなのか。
立っていられなかった。地面へ崩れ落ちる。そう感じはしたものの、本当に自分が膝をついたのかさえはっきりしなかった。
痛い痛い痛い。
頭を振っても身をよじっても、まるでましにならない。のたうち回るしかなかった。声は腹を食い破る勢いで勝手に出続けていた。
何かが聞こえる。切れ切れで中身が掴めない。本当に耳に届いているものがあるのかはっきりしなかった。
そもそも現実から自分は弾き出されてしまったのではないか。
自分の身体が浮いた気がした。腕に今まで体験したことのない感触があった。冷たいような温かいような。枝が巻きついてきているようだった。
身体が言うことを聞かない。望みに反した動きを始める。自発的なものではなかった。抵抗を試みたところで、手の一本さえ満足に動かせなった。
これは誰だ。どこから現れた。
蕃神。
蕃神の道。
違う。こんな形は望んでいなかった。
出るときは二人で。
「レフィ」
役割に反してしまったからなのか。
それほどに許されないことだったのか。
彼女に恋していることは、罪などでは。
この晩、大雨に存在を消されてしまったかのように、イシツヤは穴の中からいなくなった。
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