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自分たちの暮らす空間を「穴」と呼んでいた。それ以上でもそれ以下でもない。その底こそがこの場所だった。
先の尖った杭を地面に刺してぐるぐると回したあとにできる穴、それにこの空間は似ている、そんな評を先祖は残していた。そのときの周囲の反応はいざ知らず、とにもかくにも今を生きている連中には馴染んでいた。
四方が断崖絶壁に囲まれていて、その高いことは、かつて調査に向かった隊員たちが誰一人として戻ってこなかった事実から疑いようもなかった。太陽の熱、雲から落ちる雨、下へ吸い込まれてくる風、どれも我が物顔で入ってはくるものの外を教えてはくれない。本当にあるのかどうかすら確認することはできていなかった。
この穴の底に自分たちは土葬されているのだ。そう言ったのは誰だったか。
四方八方へ広がる田んぼの脇を通るあぜ道、イレノルはひたすらゆっくりと時間をかけて歩いていた。夏の湿気交じりの暑さは皮膚を重たくしていくばかりだった。どうして進まなければいけないのか。面倒で仕方がない。
十八年、短くない時間をここで生きてきたのに、いまだ慣れないことは数多くある。折り合いをつける気にすらならない。
この遮蔽物のない空間というのもあまり好きではない。あまりに広すぎて、自分がどこにいるのか分からなくなる。周囲のすべてが消え去って、ただ一人存在しているような気がしてくる。開けた場所に出ると気持ちがいい、そういうことを口にする奴とはとても気が合うように思えなかった。実際、そういう類の連中は一緒にいるだけで胃がむかむかした。
こんな場所では、存在の重みを感じることができない。
村の端から端まではまっすぐ歩けば三十分ほどで移動できる。だが、身体の小さかった子どもの頃はともかく、成長した今もなお、実際以上に長い距離を移動しているような感覚がしていた。本当に行きたいところへ近づけているのか疑うことがしばしばある。おまけに今はたどり着きたい気持ちすらない。
「イレノルくん、おはよう」
鳥の羽のようなふわふわとした声が背後からした。イレノルは首を軽く振っただけで、足を止めなかった。
ドゥニマは一つ年上の女性だった。ずいぶんと小柄で、中肉中背であるはずのイレノルの歩幅についてくるのも大変そうだった。足音すらそのうち地面から離れて宙に浮くのではないかというほど軽い。
肩に触れられる。ほんの少しだけ我慢していれば、彼女の腕は離れていった。やたらゆっくりと。
「毎日、朝が早くて大変だね」
「別に。それに、早いのはお前も一緒だろ」
「それも確かにそうだね」
彼女の家は代々医者だった。特殊な専門で、怪我や病気ではなかった。本人たち曰く心の治療をしているという触れ込みだった。実際、家族を失った人が立ち直ったという話も耳にしたことはある。それでもイレノルには、なぜそんな医者が必要なのか分からなかった。頭を掻っ捌いてこねくり回すわけでもないのに。世話になった経験のある連中ですら、必要か不要かの意見は真っ二つに割れている。
「今日はなんだろうね」
「さあな」
「ジルフォックくんも大変だよね。毎回毎回奉仕日の内容を決めるの」
「そうでもないだろ。村長のところに集まった話から決めているだけだろうし。あいつの兄貴みたいに自分で考えて決めているわけじゃない。なんなら、選ぶのすらあいつじゃないかもしれない」
「そうかなあ。ジルフォックくんなら自分で聞いて回っていそうだけど」
別になんだっていい。重要ではなかった。
ジルフォック、このあと会う連中の一人だった。村長の孫。父母は健在。兄が一人。年齢はドゥニマと一緒だった。表向き人当たりのいい男で、よく話の聞き手になっているところに出くわす。住人たちの評価は上々だった。何をそんなに話すことがあるのかは分からない。
それにイレノル自身はジルフォックがあまり好きではなかった。
ほどなくして、あぜ道の先、村長の家の前にたどり着いた。イレノルの家がある東側の地域にはまったくない規模の建物だった。村の中でも一番大きい。地面と接しておらず、木を組んだ上に築かれている。土に茣蓙を敷いているだけの一般の家とは差が歴然としていた。
イレノルは中へ入ったことはなかった。興味もない。ただ、住まいにするにしては大きすぎていて、訪ねたことのあるものからは秘密の部屋があるのでは、と囁かれることもあった。
大きかろうが小さかろうが必要なものがなければ居場所にはならないが。
「おはよう、イレノル、ドゥニマ」
ほかの三人はすでに集合場所にいた。低音の声をかけてきたのはイシツヤ、警吏一家の一人息子で自身もその一員として活動している。図体が大きい分、遠くからでも分かりやすかった。五人の中では最年長の二十一歳だった。特別に話しやすいというわけではないものの、その正直さはイレノルも認めていた。
警吏は異常が起きていないかの巡回や住人同士の揉めごとの解決を生業にしていた。迷子も彼らが預かる。変わり種だと鳥害の対策なども管轄だった。
イレノルは一歩引いた位置で止まり、ドゥニマが三人と挨拶し合うのが終わるのをおとなしく待った。
「あんたたちも律儀だね。奉仕活動なんて」
イシツヤの後ろから、レノシルフィが身体をはみ出させるようにして現れた。大人はもちろん、村長を前にしてさえ何を言い出すか分からない、夕方の雷雨のような女だった。ドゥニマよりさらに一つ年上なのが到底信じられなかった。落ち着きという言葉からは村の中でもっとも離れている。イレノルと家こそ近いが、一緒に出てくることはほぼない。慣れ合う気はないし、彼女の方も必要としていない。
「お前には言われたくない」
「あたしはサボりたいんだけどさ。この四角四面男が許してくれないんだよ」
イレノルの文句を、彼女はイシツヤへ流した。おいおい、と警吏一家の息子がこぼす。その声は抗議というより慣れ合いだった。二人は幼馴染でやりとりが気安い。この穴の中では珍妙といっていい関係だった。東側の住人がそれ以外の者と関係と呼べる程度のものを結んでいることすら稀だった。
「今日は特にしんどかったよ。夕べはなんだか頭が痛くなったんだ。うまく寝られないのなんのって。寝不足このうえないってやつ。こいつも珍しく遅れてきたから、もしかして休めるかもしれないと思ったのにさ」
「俺も昨日はなんだか頭が痛かったから起きられなかったんだ。本当だぞ。レノシルフィと一緒だから、なんか嘘くさくなるが」
「二人とも長いからね。似通ったときにそういうのが起きるのかも」
ドゥニマがからかうと、こいつと一緒かあ、と二人の声が重なった。続けて、真似するなよ、というのも被る。
「今みたいなことが起こると、あながちありえなくもないと思ってしまうね」
ジルフォックが笑いを噛み殺していた。上背だけならイシツヤよりあるものの、横幅がまったく違うせいで一回り小柄であるようにすら感じられる。村長の家の血筋ということで、この五人組の長は彼が務めていた。
「それで二人とも今朝の体調は大丈夫なのかな」
「じゃあ、あたしはちょっと悪いから」
ジルフォックが尋ねると、レノシルフィが自分の頭をさわった。横からイシツヤが即座に入る。
「待て待て。家へ行ったときには、元気になったって言ってただろう」
「今悪くなった」
「そんなわけあるか」
イレノルは二人を放っておくことに決めた。ジルフォックへ尋ねる。
「今日の活動は何をするんだ」
「もうその話をするかい。わざわざ週の一日を割く面倒な行事なんだ。だらだらと事に当たっても文句は言われないと思うけど」
「俺はさっさと終わらせて帰りたい。面倒だ」
レノシルフィがすぐ反応して、そうだそうだ、と乗っかる。ほかの二人はやれやれという様子で軽く息を漏らした。
「それも一理あるね。それなら今日は早々に済ませる方向にしようか。みんなも異論ないね」
「まあ、それで妥協するしかないな」
レノシルフィは渋々といった反応だったが、ほかの三人からは賛同が返ってきた。決まりだね、とジルフォックが手を叩く。
「お主らはこれから活動か。孫がいつも世話になる」
上から声が降ってきた。村長の家には階上部分にせり出した足場があって、出入り口とは別にそこから外の様子を探ることができた。
その位置関係は、イレノルには偶然とは思えなかった。自分の立場を表そうとしている。せせこましい真似だった。そんなところにいるからなんだというのか。何ができるわけでもないというのに。
彼は手すりに腕を置いて君臨していた。孫と同様に背丈はあっても横幅はない。老齢なのも相まって、木の幹から稲穂へ近づいていっていた。それなのにか弱い印象はまるでない。油断をしてはいけないという気持ちにさせられる。
この穴の村長、ジルフォックの祖父だった。
「じいさま、行ってきます」
当然、返事をしたのはジルフォックだった。不自然にその声は朗らかでイレノルは足元の小石を蹴っ飛ばす。茶番に付き合わされる時間は無駄でしかない。
「急な頼みですまなんだ。イシツヤくんもドゥニマくんもよろしく頼む」
そこにイレノルとレノシルフィの名前はなかった。二人の存在に気がついていないわけではない。むしろ気がついているからこそ口にしない。それが村長たち北側の住人の姿勢というだけだった。
彼らにしてみればイレノルたちは本来いないはずの存在だった。そのために、生かしてもらっているだけでも感謝すべきであるという姿勢をとっていた。
「行ってきます。レノシルフィの面倒は任せてください」
「ありがとうございます。イレノルくんたちと今日も頑張ってきます」
それがこの穴の中での常識なのだが、イシツヤもドゥニマもなぜだかそれに従わない。隠すつもりのない棘を含ませて、天上へそんな言葉を放った。傍らに立つジルフォックもそれをあえて咎めようとはしない。率直に変な連中だった。
村長はまるで聞こえていないかのようにそれ以上は何も言わず、せり出しから家の中へと戻っていった。胸中に渦巻くものがあるのかないのか。それすら分からない。あったところで、変化が起こることもない。
「そうしたら行こうか。今日の活動の内容は移動がてら話そう。いつもなら数合わせな仕事も多いけど、今日は間違いなく手を借りたい状況だからね」
ジルフォックの動き出しに合わせ、イレノルたちも後に続いた。今さっきの村長とのやりとりなどすっかり忘れてしまったようだった。誰も彼も個人的な理由で彼にいい感情を持っていなかった。
ジルフォックの先導でたどり着いたのはまた別の家だった。村長の家ほどではないにせよ、そこそこの規模の建物が多い地点にあった。
「みんなも配給係のことは知っているよね」
「あったり前だろ。知らない奴がいたら、それはもう異常事態だ」
ジルフォックの問いにレノシルフィは大げさに応じた。あながち嘘でもない。村の食物や道具は管理されている。責任は村長が持つものの実際的な分配は別の者、この家の住人が担当していた。
「その配給係が今朝からいないんだ」
「いないって、不倫相手のところにでも行って寝坊したか」
レフィ、とイシツヤの焦った声が飛ぶ。
「そうだったら、話はもっと分かりやすかったんだけどね、どうやら違うようなんだ。もう警吏は動きだしていてね、今のお相手の家に彼はなかった。そもそも昨晩は来ていないそうだよ」
イレノルは配給係のことを思い浮かべる。
父親が同じ仕事だったから、その役割についていた。ただそれだけの男だった。取り立てて優秀というわけではなく、極端に実務能力に欠けているというほど無能でもない。せいぜい、人柄がろくでもないというくらいだった。権限を持っているがゆえに、配給の上乗せという職権をちらつかせてよく女遊びをしていた。女たちも女たちで甘い汁を吸えるかもしれないと近寄っている連中ばかりだったから大差はないが。
レノシルフィは、この狭い村でよくやるよ、と称賛すればいいのか呆れればいいのか困ったというようなことを言っていたし、イシツヤは露骨に配給係の話題を嫌っていた。ドゥニマだけは彼のことを可哀相な人と評していた。もしかするとむしろ一番辛辣なのかもしれない。
幸いにして、イレノルはほとんど関わりを持っていなかった。幼い頃、暴言やつばを吐かれていたことは覚えていたが、こちらの成長とあちらの退化に連動して減っていった。今はまったくなくなっている。
嫌悪で胸がむかついた。
「別に新しい相手ができたとかじゃないの。それで昨日の夜はそっちに行っていたとか」
「その可能性がないとは言い難いが、今のところは薄いね。この村でまだ噂が持ち上がっていないのがその証拠さ。まったく本当に忽然と消えてしまった。詳しいことは調査してみないと分からない」
レノシルフィが別の可能性を提示したものの、すぐに切り返されてしまった。言い分はもっともだった。もし別の相手がいたのなら、イレノルの耳にすら届いていてもおかしくなかった。
「いい加減、女房が怒りに耐えかねたとかは」
「それも可能性としては同じ程度だよ。そもそも亭主に毛ほどの興味すら残っているか怪しい」
イシツヤの案も一蹴だった。レノシルフィが大げさに腕を広げる。
「それじゃあ、ひょっとすると蕃神様の神隠しかもね」
「なんだよそれ」
イレノルは首をひねった。この村で蕃神を知らないものはいない。どうやってか、どうしてか、かつてこの穴へ訪れた外来の存在。農作や道具、住居についての知識を穴の住人へ与えた者たちだった。今のこの村の基盤を作り上げた貢献者であると同時に、救いがたい存在だった。
村の誰でも知ってはいるものの、蕃神様の神隠しという言い方には馴染みがなかった。
「君はまた、ずいぶんと珍しい言い方を知っているね」
ジルフォックが反応した。身体がわずかに震えたことからして、本当に驚いたようだった。普段はふりが圧倒的に多かった。気づかない連中の方が案外といるのは不思議なことだった。
「どういう意味なんだ」
「意味自体はそのままだよ。この穴の中で起きる失踪は、僕たちのことを恨んでいる蕃神様たちが人を攫っていっている。そういう考え方」
「蕃神様たちの恨みって。毎年鎮魂祭をやっているのに」
首を動かしたドゥニマに、イレノルは頭の中でだけ反論する。本当に恨んでいるのなら、誘拐程度できっと収まりはしない。そもそもこんな世界の端がはっきりしている穴の中で、失踪が起こること自体が稀だった。
ただし、稀というのは起きないということを意味しない。
「ドゥニマさんは純粋だね。とはいえ、これはただの与太話だよ。現に、村の中でも年寄り連中しかそういう言い方はしない。そのうちに消えていく表現だ」
「俺も与太話って意見には賛成だ。そもそもレノシルフィの言うことを逐一間に受けてたら、心臓がいくつあっても足りないしな。それに失踪ってことなら、むしろ八年前の――」
「イシツヤくん」
強い口調で遮ったのはドゥニマだった。沈黙が流れ、しばらく耳に届くのは足音だけになった。
どうして彼女が止めに入るのか、イレノルには分からなかった。
「とにかくだ」
配給係の家のそばまでやってきたところで、ジルフォックが手を叩いた。注意を集める、話を変える、解散の合図、彼は至るところで鳴らす。意識を強制される感覚がイレノルはあまり好きではなかった。あの村長の孫というのに、妙に納得する。
「捜索は別に班を作ってやっている。僕らに回ってきたのは配給の仕事の手伝いだ」
彼について配給係の家へ入る。敷居でドゥニマが転びそうになり、レノシルフィがそれを支えた。背中へ手を添える。
「あんた大丈夫?」
「ありがとう」
「繊細すぎてたまに同じ生命体なのか疑うよ」
イレノル、と彼女が声を飛ばす先を変える。
「あんたもこっち来な」
やや間を空けて、イレノルは言われたとおりにドゥニマの近くへ寄った。その手に触れる。同性のレノシルフィと比べても華奢だった。
「相変わらずなのか?」
「相変わらずだ」
「あんたはあんたで難儀だな」
「別に困らない」
「あんたはそうかもしれないけどね」
含みのある言い方だった。だが、追及する気はなかった。
「二人ともありがとう。もう大丈夫だから」
ドゥニマが姿勢を直す。待っていたといわんばかりに、またジルフォックが手を叩いた。いっそ頬を張り倒したくなったが、イレノルはぐっと堪えた。
「それじゃあ、今日の奉仕活動の概要を伝えることにしよう」
奉仕活動、一週間のうちの一日を割いて本来の仕事とは別に人手のいる作業を手伝うという定例行事だった。前回は伸びすぎた雑草を除去した。要は雑用で、誰かがやらなければいけないことを、半ば強制的に誰かにやらせるための仕組みだった。大半は文句をつけこそすれどもきちんとこなしていた。この穴の中の生活を保つのには必要なことを理解していた。
表向きにも裏向きにも。
組の人員は年齢の近い五人を集める。構成を決めるのは村長か彼に近い人物だった。仲の良さなんてものを考慮したものではない。彼らにとっての都合であって、安心したいがための編成だった。
今日の活動である配給業務は、本来だとたまに駆り出されることがあるかないかくらいの頻度のものだった。配給係は長年やっている分、それなりの速度をしていた。どちらかといえば五人組は、それぞれの家へ運びに行く役を担う方が多かった。
家の中では別の組も従事していた。配給物の量と配布先の確認、それから実際の運搬にも人を割いていた。イレノルたちの担当は配給物の振り分けだった。
「なあ、あんたはどう思う」
膝くらいまでの高さの壺の後ろへイレノルは収穫された野菜の山を置く。これは配給物の属性を分けているだけで、ここに置いたものをさらに別の班が運ぶ地区ごとに分けていた
「手を動かせよ。俺はさっさと帰りたいんだ」
「分かってるって。なんだかんだ言って、きちんと働くんだもんなあんたは。言われなくてもちゃんとやってるだろ、あたしも」
「ちゃんとね……」
嘘ではないが、ものの扱いは雑だった。よくよく気をつけて様子を確認してみれば、置き場所の間違いが多発していた。それをどうやって注意しているのか、イシツヤがたびたび正していた。ただ範囲はレノシルフィのものに絞っている。ほかの組の人員が置き間違えたものには手を触れていない。意図的に間違えようとすれば間違えらえる。警吏のくせにそこを咎めるつもりはないようだった。幼馴染の影響なのか、警吏にしては緩いところがあった。
「そんなことより、あんたは気にならないのか。配給係の失踪。あたしはめちゃくちゃ気になるんだけど」
「別に」
今の活動のように村の運営上での影響こそあれど、イレノル個人としては配給係が穴から消えたところでどうでもよかった。いてもいなくても生活への影響は特段ない。
自分にとって大事だったのは。
全身を包み込んでくれるような声、何もかもを肯定してくれる柔らかな態度、そして腕の温もり。
もう求めても戻ってはこないもの。
「八年前と関係があるかもしれないのに?」
瞬間、全身の活動が止まった。腕や足だけではなく呼吸や臓器も。
「ほら、やっぱり気になってるじゃんか」
「お前、何か知ってるのか」
「何も知っちゃいないって。ただ、失踪っていったらどうしても連想するだろ」
八年の月日が流れてなお、あまりに多くのものがかわるがわる浮かんでくる。空っぽの部屋、たくさんの怒声、降り続けた雨。もう戻ってこないと完全に理解してしまった心の叫び。
「調べてみないか、この失踪」
「調べるって言ったって、もう警吏が調べてるだろ。やることはない」
「八年前のも真相は分かってないんだし、今回のも分かるとはかぎらないじゃないか。それに、あっちはあっちで調べていたとして、あたしたちが調べたらいけないなんて決まりはない」
レノシルフィの言い分をイレノルは噛んでみる。自分たちが動いてはいけない、という決まりはない。事件の類は警吏の仕事ではあっても、他の者が関わるのを禁止されているわけではない。
「レノシルフィさん」
思いあぐねていると、声の鋭い一閃が飛び込んできた。レノシルフィが、やば、と珍しく本気で焦っている調子で漏らした。
「あなたはどうしてそうやってイレノルくんを刺激するの」
ドゥニマは誰でも分かるほど怒っていた。レノシルフィの肩を掴む。
「刺激なんて。あたしは、絶対みんなが思い浮かべることを言っただけだって」
「いいえ、あなたはわざとやってる」
「ドゥニマ、勘弁してって」
「あんな出来事は忘れた方がいいに決まってるの。あんな人のことも」
一際大きい声だった。イレノルは自分の腕で胸を押さえた。
二人の諍いに周囲がざわつき出していた。だが、片方がレノシルフィであるために誰も口も手も出そうとはしなかった。ただ、耳をそばだてているだけだった。また何かしでかしたか、程度にしか受け取っていない。
そんな毒にも薬にもならないほかの組の人員たちをどかし、ジルフォックとイシツヤが早足で寄ってきた。
「どうしたんだい」
「レフィ、今度は何やったんだ」
イレノルを含め先にいた三人全員へ声をかけたジルフォックに対し、イシツヤは最初から騒ぎの原因をレノシルフィと決め打った発言だった。
「レノシルフィさんが、イレノルくんが動揺するようなことを言ったの」
「そんなつもりはなかったって。落ち着いてくれ」
二人は、というより、ドゥニマが興奮してしまっていた。
気の長い性質である彼女がなぜそんなに前のめりになっているのか。不思議で仕方なかった。
そこで、またあの手を打ち合わせる音がした。
「ジルフォック組は全員、作業中断。一度、外へ出ようか」
「でも」
「この組の長は僕だ。申し訳ないけど、従ってもらうよ」
反論しようとしたドゥニマをジルフォックは強引にはねのけた。表現こそ穏やかだったが、立場をはっきりと振りかざした対応だった。
こちらにも耳があるのを忘れているのか、ひそひそと言葉を交わすほかの組の者たちを後目に五人は外へ向かった。
失踪した配給係の家の外、イレノルたち五人は囲いを作っていた。ジルフォックが順番に話の聞き取りをしていた。丁寧すぎるような進行にじれる。せめて涼しい場所にいけばいいものを、太陽の下にいるせいで肌が焦げていくような気がした。
裁定代わりといわんばかりにジルフォックが手を打つ。
「なるほど。事態は分かった。それはレノシルフィさんが不用意だったと思うな。どういう考えだったにせよ、今回は君が頭を下げた方がいいよ」
「ええー」
やる気のないわざとらしい抗議に、お前なあ、とイシツヤがため息を漏らす。
「そんな謝罪なんていいよ。むしろ私の方こそごめんなさい。つい感情的になってしまって。よくないよね、感情に関わるところを専門にしている家の血筋なのに」
「いやいや全然気にしてないから大丈夫。もっと自信持ちなよ。あたしよりあんたは立派なんだから」
レノシルフィがドゥニマの背中を叩いた。そりゃお前よりは立派だろ、というイシツヤの苦言もどこ吹く風だった。
「それじゃあ、一件落着したところで奉仕活動へ戻ろう、と言いたいところなんだが、実は僕もレノシルフィさんの提案に乗りたいんだ」
「はあ? ジルフォックお前どういうつもりだ」
イシツヤが右に左に忙しい。ただ、イレノルにとってもジルフォックの発言は予想外だった。頭の中で警鐘がうるさく鳴り始める。
「警吏が調べているからといって僕らが調べてならないわけではない。これは本当にその通りだ。まさに警吏の一人であるイシツヤさんの前で言うのはなんだが、正直に言って警吏たちだけでは心許ない。今の僕が聞いたかぎりの情報だと、配給係は本当に忽然と消えてしまったようだからね。日々の治安維持には頭が上がらないほど貢献しているのは分かっているけれど、簡単な事件しか扱ってきていない彼らには荷が重い」
「それは確かにそうかもしれないが」
イレノルの記憶でも、警吏は事件めいたものを扱うとしても、男女交際のいざこざや配給の取り合いを端に発したものが多かった。要は事件の構造が単純だった。背景に何があるのかすら分からないものを取り扱っていた覚えはまったくない。取り組んでいるところを想像するのも困難だった。
「今の配給係はお世辞にも人格者とは言い難かった。いなくなって物理的に困ることはあっても、心情的に困ることはないだろう。それでもだ。真相が分からなければ不安を感じる村民も出ると思う。だからこそ僕としては、警吏たちとは別に調査をしておきたい。僕一人でと思っていたが、人手は多い方がいいからね。どうだろう、協力してくれないか。これは奉仕活動と違って強制ではないよ」
「いいよ、あたしは元から自分だけででも調べるつもりだったし」
真っ先に賛意を示したのはレノシルフィだった。イシツヤの背中を触る。
「イシツヤも当然、手伝ってくれるよな」
「お前もジルフォックもどうかしてるよ、まったく。警吏の仕事を別の奴がやるなんて。父さんや年寄り連中に知られたらなんて言われるか」
「ぐだぐだ言うのはお前の悪いところだよなあ。結局、どうするんだ」
無駄なやりとりだった。レノシルフィが行くと言った時点で、彼に選択肢はない。この二人は土と植物みたいなもので離れて存在することができない。
「分かった。俺も行く。お前だけじゃ何をするか分かったもんじゃない」
イレノルを含め村の者たちにとって、この二人の存在は異質だった。幼いときからの付き合いだとは知っている。だが、二人の環境は大きく違っていた。本当なら、イシツヤの方こそ、自分にレノシルフィを従わせていてもおかしくなかった。こんな小気味いいやりとりをする関係であることさえあり得なかった。
「イシツヤさんが来てくれるのはありがたいね。さっきはああいったけれど、警吏の意見も参考にはしたいと思っていたから。イレノルさんとドゥニマさんはどうする。さっきも言ったとおり、普段の組の活動みたいな強制ができることじゃない。参加するかどうかは君たちの考え次第だ」
配給係の失踪には何も興味はない。しかし、警吏とは別に五人で調査をするということの方には関心があった。
「俺も行く」
「イレノルくん、いいの?」
「何が」
「……なんでもない。イレノルくんが行くなら私もついていく」
ドゥニマも参加を決め、結局イレノルたち五人組の面々は全員が案に乗った。奉仕活動絡み以外で集まるのは初めてのことだった。
組が決まったときの場を思い出す。狭い村の中での人間関係で、元から全員なんとなく互いへの認識は持っていた。ジルフォックはそのときからうさん臭かったし、イシツヤとレノシルフィはくだらないやりとりを繰り返していた。ドゥニマはどうだったか。考えてみればもっとレノシルフィの方にも会話を仕掛けていたような記憶があった。
「迅速な判断で助かるよ。それじゃあ、日中は注意を引いてしまうし夜に集合としよう。配給係が消えたのも夜だしね。八時頃でお願いしたい。場所はまたここ。では、奉仕活動へ戻るとしようか」
大半は不安が占めているものの高揚も混じっていた。良くも悪くも何かが変わる感覚があった。四方を覆う崖、繰り返されるばかりの日常、寄り集まって塊になっていた閉塞感に風穴が開いたようだった。
イレノルはそっと自分の胸へ手を当てた。
為すべきは。
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