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影は断崖を進んでいた。
天候は柔らかな雨。草に滴の衣を着せ、地面からは臭いを沸き立たせていた。自分を取り巻く世界がじんわりと湿り気を帯びていくのを感じ取っていた。肌に水滴が飛び散り、全身をゆっくり流れていく。外界との境を生んでくれるような気がした。濡れることは厭わしくなかった。むしろ気分がよかった。
ただ一心に進む。足元は崖で転落すればひとたまりもない。気まぐれに凹凸を作っている岩の足場も不安定さに拍車をかけていた。しかし、足取りには迷わない。休む必要もない。壁を触る必要すら感じられなかった。とにもかくにも一刻も早くたどり着きたかった。そこにだけ世界がある。
そろそろだった。慎重に壁を撫でていく。そこではっきりと影は違和感に気がついた。動きを止める。こんなことは今までなかった。進むべきか退くべきか。
迷いを察知したかのように、先へ行きなさいと言わんばかりに風が吹いた。荒々しくではなく、背中をそっと押すような優しい肌触りだった。かつての手を思い出させる。
だから影はそれに従うことにした。
ゆっくりと横穴へ入っていく。断崖の中腹に存在する場所、現実から切り離されたような静かな空間。居場所。
そこには、何かがいた。
影は無言でその存在の解釈を試みる。ここにいるはずのないもの、それなのにいるもの。
こいつは何か。
警戒が浮かんでもいいはずだった。けれど、それよりもなによりも湧く衝動があった。
「あなたは誰」
何かが声を発した。怯え、注意、そういう類ではない。まるでもう答えを知っているような、優しい旋律。
耳馴染みはない。それなのに聴覚が研ぎ澄まされる。耳が震える。全身に伝わった。高揚が生まれる。
影はその何かへ向かって、腕を伸ばした。
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