触れあい

@bunasyan

プロローグ

 暖かな感触は一つだけ残っている。それ以外はまったくない。多くがほしいわけでもない。その一つだけが、たった一つだけがあればよかった。

 けれど、それは離れていってしまった。あの雨の日に。

 眠気を誘う優しい旋律の声、身体の強張りを無理やりにでもほぐしてしまう花のような香り、そしてなによりほかに味わったことのない柔らかな温もりをくれた手。それだけが生を支えてくれていた。触れる手、触れさせてくれた身体、そこから流れてくるものはまどろみのような心地よさで溢れていた。こちらから流したものもありにまま受け取ってくれた。

 身体の芯から広がっていくような温もりと同時に、すべてが寝静まった夜のような寂しさも滲み出ていたのも必ず思い出す。世界に一人でいるような、それを諦めて受け入れてしまったというような。なんとかしたい気持ちと何もできないという気持ちの両方が飛び交っていた。

 それでも繋ぎとめていたかった。そこだけが拠りどころだった。なくなってしまえば迷子になってしまう。自分のいるべきところが消え去ってしまう。だからできるだけのことはした。枯れかけの花を延命させようとするような徒労だとも知らずに。滑稽であっても、そうしないではいられなかった。

 それでも結局はいなくなってしまった。温もりも寂しさも現れていたけれど、その根には立ち入ることを許されないままだった。手が届かなかった。何も受け取ることはできず、何も与えることもできていなかった。

 怒りは湧かなかった。ただ苦しかった。死んでしまいそうだった。

 だからそれを手にしたときは、奇跡だと思った。遺ったのはもうそれだけ。けれどまだ世界にすがりつくことができた。失うことももうない。

 けれどもうそれすらも役割を果たし終えようとしていた。

 どうしようもないものとの触れあいを得てしまったから。

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