三・初めての託児所勤務
第4話
からくり工場が勤務開始する時間は朝の八時。江戸時代で言えば、もうすでに日の入りを過ぎている時間だ。空の実家が貿易商のため、一部屋ずつ時計が設置されていた。起きるのは六時半。時間ちょうどと、半になると、ボーンと鳴る仕組みになっている。
春は、六時半を知らせる時計の鐘の音で、目を覚ました。
「なに? もう六時半か。いつもなら五時起きできるのに……」
枕元に手を触れた。
「あれ? ない……」
手で探るが、見つからない。
「そうだ! 刀は物騒だからって、事務室に預けられたんだ。チッ!」
舌打ちした。いつも五時に起きて、素振り百回と、瞑想をしている。その習慣がなくなるのが、惜しかった。
「でもしかたがない。私は今日から一正社員として、からくり工場で働くんだからな!」
意気込んで、
「託児所で!」
と、言った。
食事は食堂で取る。からくり工場は従業員が多いため、とても広い。朝食のメニューは、パンとスープだった。初めて見る食べ物。春はそれらをまじまじと見つめた。
「おいしいよお姉ちゃん」
まじまじと見つめる顔を上げた。
「夏! 雪も!」
夏と雪が、同じメニューをお盆にのせて立っていた。
「よかったあ。幸い、食堂ではいっしょになれそうね」
「雪、よく眠れたか?」
「うん! うちのよりも、布団がフカフカだったよ? ベッドって言ってね、床に敷かれてないの」
「へえー?」
三人は朝食を取りながら話した。
「見た感じ、悪い職場ではなさそうね」
「ああ。他の従業員たち、仲良く話してる様子だしな」
「でも、お姉ちゃんどんまいねえ」
「求人広告に、業務内容をすべて書いとけってんだ!」
「うふふ!」
夏が笑った。
「雪も働くのかな?」
雪が聞いた。
「まさかあ! 雪ちゃんは、今パパとママが出張中でいないことを見越して、ここに住まわせてるだけよ」
「でも、なにかやらせるとは言っていたし、私か夏、どっちかの寮に入れてやらなかった時点であやしい……」
「ああ、まあ、そっか……」
夏はあごに手を付けて、考える素振りをした。
「グモーニング! やあ新人お三方。昨日はよく寝れた?」
空があいさつに来た。
「寝れたよ」
雪が言った。
「なあ、せめて雪は私か夏のところで寝かせてやれないか?」
「ノーノー! 彼女も一社員ですので、やっぱり寮だからって、複数で使うのは、プライバシーとかそういうの守れなくない?」
「雪別にいいもん。一人部屋ほしかったし!」
雪は空に向かって笑った。
「うんうん。素直な子だねえ。あ、雪ちゃんはあたいが案内するから、なっちゃんは、彼についてって」
紹介した人は、メガネをかけた、無愛想な男。夏は、ちょっと引いた。
「この人は、なっちゃんがやるお仕事の班長さんだよ。」
班長は、軽く頭を下げた。夏は、唖然とした。
「そしてはるるはね……」
「ちゃんと名前で呼べ!」
と、春。
「この方です!」
紹介したのは、春と同年代くらいの女。
「よろしくねはるるちゃん! 託児所の園長です!」
園長はにこやかにあいさつした。
「託児所は子どもと接するから、笑顔が大事よ? はい、はるるちゃんも笑って笑って!」
両手を振り、笑顔を振りまく園長。春はイライラをつのらせて、
「私は春だ! ちゃんと名前で呼べ!」
と、怒った。
「ダメよ春ちゃん。そんなに怒ったら、託児所の子どもたち泣いちゃうわ」
園長に注意されて、唖然とする春。
「まあ、いやでも二十万もらえるんだからね。がんばってね〜」
空は手を振り、雪の手をつないで食堂をあとにした。
「雪になんかあったら許さないぞ!」
春が怒鳴った。
「さあさあお二人さん。朝食を済ませて。もう七時半よ?」
園長が呼びかけた。
「なにがともあれ、二十万のためにがんばりたまえ!」
と、ウキウキの夏。
「ふん! そっちこそ」
プイッとしながら返事をする春だった。
八時の鐘を告げ、いよいよ勤務開始。春は園長に託児所へ案内してもらった。
「一つ聞いてもいいか? ここで働いている人たちは皆、寮で生活しているのか?」
園長は答えた。
「そうね」
「家には帰れるんだよな?」
「うーん。勤務時間外なら許可証を出せばいつでも出入り自由らしいけど、長期休暇とか、そういうのないからね」
「え!?」
春は思った。ということは、もう一生、ここで二十万のために、生活していかなくてはならないということになる。
「待て待て待て!」
春は、園長の前に立ちふさがった。
「それでいいのかお前は! 私はこれまで仕事をしたことがないが、一生会社しか居場所がない人生なんて、つらいと思うぞ?」
「はるるちゃん?」
園長が首を傾げた。
「春だってば……」
呆れた。
「まあ、ともかく。聞いたことあるけど、有給とか、工場勤務なら年末年始休みくらいあるだろ?」
「ないわよそんなの」
「……」
「はるるちゃん」
「春だって……」
「今は江戸時代で、とても裕福とは言えない時代よ? そんな時代に、二十万ぴったりでお給料をくれるところなんて、他にあると思う? 前ね、実家で豆腐を作っていたんだ。でも、家族にご飯を食べさせてあげるのでやっとだった。二十万よ二十万。三ヶ月働いたから、銀行に六十万あるのよ!」
春は、ただ黙然としていた。
「居場所とかそんなの関係ないわ。家族にお腹いっぱい食べさせてあげられれば、それでいいの……」
園長の言うことはご最もだと思った。しかし、なにか引っかかる春だった。
「ほら、はるるちゃん。急いで託児所に向かわないと。あと、子どもたちの前では、笑顔で、おおらかにしてね!」
「は、はあ…!」
一応うなずいた。
託児所に来た。託児所は、事務室のあるろうかを左に曲がって、裏手にあった。
「ここは、赤ちゃんやまだ六歳未満の子たちを持つ従業員たちが、子どもたちを預ける場所なの。お家にご家族が見える場合は、そのまま置いてくけど、いない場合は、ここで暮らすことになるのよ?」
園長の説明を聞くのもやっとだ。なぜなら、託児所内の、子どもたちの騒がしい声がうるさいからだ。
「はーいみんな! ちょっと集まってくれるー?」
園長が手を叩いて子どもたちを呼んだ。子どもたちは、園長と春のまわりに集まってきた。
「見ろよ! おばさんがいるぞー?」
男の子が春に指さした。
「なっ!」
ムッとする春。
「おばさんおばさん!」
と、はやし立てる女の子。
「鼻くそ食べる?」
ほじった鼻くそを、春のはかまにすり付けてくるとろんとした目の男の子。
「お、おい! なに付けたお前!?」
春は、とろんとした目の男の子のえり首を掴んだ。
「ちょっとはるるちゃん!」
園長が止めにかかった。
「おばさんのくせに、はるるちゃんっていうの名前?」
と、男の子。
「まだ私は二十歳だぞ? おばさんじゃない!」
「でもあたしたちからしたら、おばさんじゃん!」
女の子が言うと、他の子どもたちもはやし立ててきた。春は唖然とし、頭をかいた。
「今日から新しく入ってきたはるる先生よ? みんな仲良くしてね!」
園長が紹介した。
「鼻くそあげる!」
とろんとした目の男の子が、春の手に鼻くそを付けた。
「だから私は春だあーっ!!」
春の怒声が響いた。
春は、はかまの上に保母専用のエプロンを身に着けた。はずかしくて着たくもなかったが、仕事ならしかたがない。
しかし、そんな彼女は、ムスッとした態度のせいか、子どもたちに全く相手にされなかった。ある子なんて、春の顔を見ただけで泣いて、園長のところへかけ寄るし、春を勝手に悪者役にして、容赦なく蹴りや突きをくらわれるし、一番やっかいなのは、これだけ手も足も付かない状態の春を、全く気にかけてくれない園長だった。せめてなにか一つ助言をしてくれたらうれしいのだが、なにも言ってくれない。
(ガキ相手に仕事するのなんて初めてなんだから、なんかエスコートしろよ!)
イライラがつのるばかりだった。子どもたちにも、園長にも相手にされない。会社にいるのに仕事をしていない、いわゆる社内ニートになっていた。
十七時、一日の仕事が終わった。十九時に夕食が始まる。
食堂で春は箸と茶わんを持ったまま、放心状態だった。
「?」
夏と雪はめずらしい姿の春を不思議がった。夏は、彼女の顔の前で、手を振ってみせた。しかし、なにも反応してくれない。
「あ、ゴキブリ」
と、夏が言うと。
「!」
ガタッと席を立った春。
「俊敏な反応だったねお姉ちゃん……」
「はあ……」
春はため息をついた。
「どうしたの春お姉ちゃん?」
「ちょっとな。仕事が大変で……」
と、ほほ笑んで答えた。
「託児所の子どもたちにいじめられてんでしょ?」
夏はニヤリとした。
「ああそうだよ!」
と、ぶっきらぼうに答えた。
「毎日毎日、どうしたらいいかわからずじまいさ」
「園長さんに聞けばいいじゃない」
「それが、そっちも忙しくて、なかなかアドバイスなんてしてくれないんだ」
「へえー」
夏は思いついた。
「そうだ! いつも雪ちゃんに接してる感じでやったらどうよ?」
「はあ? 雪は十歳だろ。相手は六歳未満ばっかりなんだ」
「歳の頃合い違けれど、雪ちゃんは年下じゃない。ほら、雪ちゃんがたくさんいると思ってやれば」
「ゆ、雪がたくさんか……」
「えへへ! 雪がたくさんいたら、お姉ちゃんたちどれが本物の雪か、わからなくなるんじゃないの?」
雪が笑った。
「そんなことないわよ。だって雪ちゃんは、世界に一人だけなんだから!」
「わーい!」
夏と雪はお互い顔を合わせて笑った。
「やれやれ。のんきでいいね君たちは」
と言って、春は湯飲みのお茶を飲み干した。
翌朝八時。勤務スタート。と言っても、託児所に子どもたちが来るのは九時。託児所に子どもを預けている親は、やむを得ない事情ということで、勤務開始の時間を九時にずらしてくれる。
春は、ついに誰も相手にしてくれなくなっていた。笑顔とおおらかさを絶やさない園長とは違い、無愛想なのが原因だろう。園長も園長で、園児が来る九時まで一時間あるのに、春にはいつも「笑顔とおおらかさを」としか言ってくれない。元々保育士の資格もあるはずなのに、同僚の指導は手いっぱいなのだろうか。春のすることといったら、子どもたちのごっこ遊びの悪役か、お昼できらいなものを食べてあげる、便所掃除だった。
(こんなんでいいのだろうか。あと三日で給料日だが、まともに働けてない私だけ二十万ももらえないのでは……)
子どもたちの飛び散った小便だらけの便所の床を拭きながら、つくづく思った。
「もらえたとしても、続けていく自信がないぞ?」
便所掃除が終わり、出た時だった。
目の前に、もじもじとして佇んでいる、女の子がいた。
「どうしたの?」
春は、しゃがんで聞いてみた。
(笑顔……。おおらかに……)
心に問いかけても、笑顔は難関だった。
「こ、これ!」
紙を渡すと、そのまま去っていった。
「な、なんだろう?」
春は渡された紙を見てみた。
「わあ……」
そこには、"べんじよそうじおつかれさま"という一言文と、女の子の絵が描かれていた。女の子の絵の横に、矢印で春先生と記されていた。
「あ、そういや、あの子……」
絵をくれた女の子は、隅でよく一人で遊んでいる子だった。人見知りもあり、他の園児が話しかけても、もじもじとするだけだ。
春はクスッと笑った。同時に、
「情けないな」
と、思った。
教室に戻れば、絵をくれた女の子が、一人で隅でなにかやっていた。春は、彼女に近づいた。
「あっ。あやとり」
女の子は、あやとりをしていた。しかし、うまくできず、手間取っているみたいだった。女の子はびっくりして振り向いた。
「あ、えっと……。貸してみ?」
春は、女の子からあやとりを手にした。
「なにが作りたい?」
「えっと……。ほうき……」
緊張しているのか、うつむきながら、答えた。
「ほうきはな、こうしてこうやるんだ」
春は、あっという間にあやとりでほうきを作ってみせた。女の子は、目を輝か
せて、感心した。
「他に作ってほしいのある?」
「えっと……。天の川!」
春は、女の子がリクエストするものなんでも作り上げた。そのたんびに女の子は笑ってくれた。そのうち、他の園児たちも気づいた。
「ええ!?」
園児たち全員驚いた。いつももじもじしてばかりの女の子が、笑っているから。
その日を機に、春と女の子はあやとり仲になった。春はあやとりでなんでも作ることができた。むずかしい十二段はしごまで作ってしまうほどだ。教え方も丁寧だったので、女の子はいろいろな技を会得していった。
「見てみて。トンネルだよ?」
と、見せつける女の子。
「うんうん。なかなかの出来だな」
「えへへ!」
お互い顔を見合わせて笑った。でもすぐに笑うのをやめて、下を向いた。恥ずかしかったから。
「二人ばっかりずるーい」
他の園児たちが来た。
「春先生あたしたちとも遊んでよー」
一人、別の女の子が春の手を握ってくる。
「え? え?」
託児所にいる園児たちそろって春に寄ってきたので、呆然とした。
「はるる先生!」
と、園長の弾んだ声。
「だから春だってば!」
怒る春。
「うんうん!」
園長はにこにこしていた。春は考えた。思いついて、フッとほほ笑んだ。
「みんな、よく聞いてくれ。私はな、剣豪なんだ」
「剣豪〜?」
首を傾げる園児たち。
「ああ。ちょっと、事務室へ行こう。なっ、園長?」
園長に向けて、ウインクした。園長は、なにがなんだかで、おろおろしていた。
春は園児たちを連れて、事務室へやってきた。
「ダメです。社長の指示ですから」
と、事務の女。
「子どもたちが私の剣の腕前を見たいと言っている。見せたら返すから」
「決まりは決まりですから」
春はムッとした。
「ここの託児所の子どもたちにはな! ずーっと寮で暮らしている子もいるんだ! 家から来ている子たちより、知らないことがたくさんあるってことだよ。私はただ、少しでもその子たちのためになりたいと思っているだけなんだよ?」
「決まりは決まりですから!」
事務の女は、ただそう答えるだけだった。腹が立ってきた春は、
「みんな来い!」
園児たちを中に入れた。
「この子たちにせがまれても、まだ決まりだからって言えるのか!」
園児たちは、必死に春の剣が見たい見たいと訴えた。もちろん、もじもじしてばかりだった女の子も。事務の女は、とうとう勢いに負けて、春の刀を出してあげた。
「社長に言いつけてやるから!!」
と、事務の女は言い放ち、事務室をあとにした。
園児たちを中庭に集め、いよいよ高みの見物の始まりです。
「なんか斬ってほしいものはある?」
園児たちは、目をキラキラさせていた。春が勤務用エプロンを外し、自身のはかま姿をあらわにして、刀を腰に下げている姿が、尊いらしい。
「かっこいい春先生!」
もじもじしてばかりだった女の子が、春に抱きついた。春は驚いたが、すぐほほ笑んで頭をなでてあげた。
「さあ、なんでもいい。あ、でもほんとに斬っていいものだけな?」
「はーい!」
園児たちは、そろって野菜を持ってきた。
「や、野菜〜?」
春は拍子抜けた。
「俺きゅうり!」
「僕白菜!」
「あたしトマト!」
「私は大根!」
春は、刀で野菜を"斬る"のは初めてだった。
「まあ、子どもたちの頼みとあらばしかたがない。剣豪は、斬ってなんぼの生き物さ」
春は、刀を抜いた。園児たちから、「おお!」と歓声が上がった。
「さあ、野菜を投げてこい! 全部料理してやる!」
園児たちは、そろって野菜を投げた。きゅうり、大根、トマト、白菜、ピーマン、カブなどの野菜が、宙を舞う。春の元に落ちてくる。春は落ちてくる野菜に、眼光を光らせて、順に斬っていった。
実際は、〇・三秒より早いスピードで切っている。しかし、野菜たちは、料理すると言ったとおり、半月切りや輪切り、キャベツなんて一瞬にして千切りにされた。
「とう!」
園長がすばやく、斬られていく野菜を皿でキャッチした。
すべての野菜が斬られた。春は、刀を一つ振るうと、鞘に戻した。
「またあとで、きれいに刃を拭かないと。お?」
園児たち全員が、春に飛びついてきた。春は子どもたちに圧倒されて、倒れた。
「お、おいおい! そんなにすごかったか?」
できていないけど、全員の背中をポンポンしてあげていた。そんな様子を、園長がほほ笑んで見つめていた。
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