第4話
ㅤ観察日記は止まったままだったが、私は毎朝のラジオ体操には自ら進んで参加できるようになっていた。早起きも習慣となり、苦痛でなくなっていた。
千尋ちゃんは「おはよう!」と、朝の挨拶は元気にしてくれるけれど、なぜだか私の顔を見ると気まずそうだった。
私が夏祭りの約束を断ってしまったせいだろうか……。それとも、私の思いに感づいたのか、あの日からよそよそしい。
それでも私としては都合が良かった。
失恋した幼なじみの妹と関わると、心が痛んでしまうから。
幸い、千尋ちゃんも同年代の友達との遊びが忙しいらしく、疎遠となっていった。
それでもなんとなく、早起きとラジオ体操は意地でも続けようと、雨の日でも傘をさして会場へと行った。
そして当たり前だが待ちぼうけをくらった。
待っても誰も来ないなら、一人でラジオ体操をやってみる。誰かがこの様を見ればおかしな人間決定だろうけれど、私はかまわず雨の中、一人ラジオ体操をノリノリでやり切った。
私は翌日風邪をひき、ラジオ体操の連続参加更新はついに止まってしまった。
そのままラジオ体操からも足が遠のき、数日が過ぎた。
そんなある夜遅く、縁側に腰掛けてひぐらしの声を聞いていた。
目を閉じて、ただその音を聴く。
風に擦れる草や葉の音と、ひぐらしの声。まるで異世界に飛んでいってしまいそうな感覚に陥る。
「みさきねえ!」
呼ばれて我に返った。
声の方へと視線をやると、月明かりの中、久しぶりの千尋ちゃんが虫かごを抱えて立っている。
「よう! 元気か?」
その隣には、和希がいた。
「なんなのよ、兄妹してこんな夜遅くに」
「みさきねえ、変化があったの! ついにヨシオが羽化したの! アレックスももうすぐみたいだよ!」
千尋ちゃんはテンション高く、でも慎重に虫かごを見せてきた。
和希は隣で優しく微笑んでいる。
少し前に、指先のネイルを完璧に塗り替えていた事に、少しだけほっとした。
「多分この調子だとアレックスも朝までには羽化するぞ。どうしてもチーが美咲に見せたいって聞かなかったんだ。こんな時間だし、オレも用心棒についてきたんだ」
和希は片手でボーリングの玉を持つように小ぶりのスイカを持っている。
「ほら、元気玉くれてやる!」
と、私に抱えさせた。
そのスイカには、白油性ペンで大爆笑してるような変顔が描かれてあった。
「今まで山水にスイカ入れてたの和希?」
「ああ。今年はスイカが豊作でな。美咲、スイカ好きだったろ? 元気玉だよな?」
「よく覚えてたわね」
「まあ、弟みたいなもんだから」
和希は笑った。
「この前の子、彼女…?」
「まあな」
「へ〜。和希のくせに生意気に、綺麗な彼女じゃん」
和希は照れ笑いした。
その瞬間、私の和希への思いは、大声で泣き喚きたいような悲しさを感じながらも、過去の思い出へと強制的に切り替わったような、そんな複雑な気分になった。
軽くなったようにも思えるし、何かが足りなくなった不安もある。
生き物も、脱皮したての時はこんな不安な気持ちになるのかな……?
脱皮してすぐに心が都合良く切り替わって、清々しくなれる生き物なんて、この世に存在するのかな……?
「みさきねえ、明日の朝にアレックスとヨシオを空に放つね。……でも、クリスティーナだけが取り残されちゃうけど仕方ないよね…?」
千尋ちゃんはなんだか腑に落ちない顔をしている。
無理もない。千尋ちゃんの観察日記の未来は、クリスティーナとアレックスが仲良く空を羽ばたくという設定だったはずだから。
「仕方ないね。…なかなか思い通りに物語は進まないものなのよ。現実世界ってのは」
私は千尋ちゃんの頭を撫でて慰めると、千尋ちゃんは少し涙を浮かべて私を見上げた。
翌日の早朝、千尋ちゃんは虫かごを持ってやってきた。
大きな虫かごを覗くと、アレックスも羽化していた。
アレックスは黄色の羽を持つアゲハ蝶。
ヨシオは白い羽根のモンシロチョウだった。
色褪せた緑色の蓋を開け放つと、アレックスとヨシオは戸惑いながらも空へと飛んで行った。
「アレックスとヨシオのバカー! アレックス、クリスティーナを置いてくなんて裏切り者ー! バカー! もう勝手に二人幸せになっちゃえー!」
千尋ちゃんは半べそをかきながら早朝から近所迷惑に大声で叫んだ。
私の腰に両腕を回し、ギュッとしがみついてくる。
それから、なぜだか私に「ごめんね、みさきねぇ……」と謝ってきた。
「何で謝るの?」
「……なんとなくだよ。みさきねぇはいつまでも私のお姉ちゃんなんだから」
「……うん。ありがとう」
私は千尋ちゃんの頭を撫でた。
「観察日記はまだ終わってないよ。クリスティーナが羽化するまでは終わらないはずでしょ?」
千尋ちゃんは泣きながら頷いていた。
その翌日、クリスティーナは昼間に羽化をした。
縁側でそれを見守っていると、いつの間にか姿を消していた千尋ちゃんが、和希を連れてやってきた。
「ついにきたか!?」
まるで出産間近の父親のようで笑えてしまう。
和希は私の座る縁側の隣に、当たり前のように腰掛けた。
私は内心ドキッとしながらも、平然を装いその様子を伺った。
和希はその長い脚を投げ出すと、深く息を吐き出した。
「久しぶりだな~」と、緑の景色を見渡しながら、しみじみとした様子で呟く。
かつての自分の虫かごの中を覗き込むその横顔は、あの頃の和希の面影は有るけれど、私の中にいる和希とは違っていた。隣に座る感じも、雰囲気も、あの頃とは違う。
そんなのは当たり前の事だ。
私たちはもうあの頃の私たちじゃない。
あれから何年もの時が経ったのだから。
サナギから羽化したクリスティーナは、幼虫の頃からは想像がつかない美しい蝶に変化していた。
「やっぱミヤマカラスアゲハだった! すっげーな! あの時のより綺麗に思えるよ。やっぱ貫禄が違うよな~!」
子供みたいに和希は言い、あの頃の笑顔そのままに私を見つめてきた。
な? と、同意を求めるように見つめてくる和希に、少しほっとさせられる。
「この子、なんとかカラスアゲハっていうの?」
「ミヤマカラスアゲハ。美咲も見たことあるだろ? 昔この虫カゴで羽化したことあっただろ?」
「そうだったっけ?」
「まさか忘れたのかよ!? 中二の夏、ちょうどここでこんな感じで見てたじゃないか。あんなに美咲、綺麗な蝶々って喜んでたのにさ」
和希は不服そうに呟いた。
そんなの、しっかり覚えている。
忘れるはずがない。
この蝶は見たことあるし、羽ばたく姿を見ながら夢の世界の事なのかと喜んだ覚えもある。
確かに蝶の名前は忘れていたけれど、あの頃の虫かごの鮮やかな緑色の蓋を解放した瞬間は、年月が経った今でも色褪せず心の中にある。
それなのに私の中の強がりな私が、その思い出を忘れたフリにしたがっていた。
「アンタは昔からその虫かごに虫入れすぎなのよ。その虫かごの思い出がありすぎて私、何となくしか思い出せないよ!」
「思い出せないっておかしいだろ!? ミヤマカラスアゲハだぜ!? あんなに美咲喜んでたじゃんか!」
「忘れたもんは忘れたのよ! 仕方ないじゃない!」
「さすがにミヤマカラスアゲハの件は忘れないだろ!?」
「アンタが私を嫁にするって昔宣言してた事だって忘れてるじゃん!?」
「…な、なんだよ、今さら。小っ恥ずかしい昔話はやめろよな」
……そうだよね。昔の話。
泣きたくなるほどに良い思い出だ。
プチ言い合いになった私達の間に入って、千尋ちゃんが、
「ケンカはだめよ!」
とオトナみたいに諭してきたから、私達は顔を見合わせて笑った。
「よし、解放だ!」
羽が乾いただろうタイミングで、ついに和希は虫かごを開け放った。
しかしクリスティーナは羽ばたくことなく、虫かごの中に留まるばかりだ。
「クリスティーナ、一人で不安なのかな? 怖いのかな?」
千尋ちゃんは心配気に虫かごの中を覗き込む。
和希は指先に優しくクリスティーナを掬い上げると、庭にある向日葵の上に止まらせた。
「もう羽は乾いてる。いつでも飛べるはずだ。クリスティーナ、自分のペースでいいから、焦らず行け」
あの頃の面影を残したオトナになった和希は、向日葵の上で戸惑った様子のクリスティーナに、優しく話しかけている。
それを聞いたら私は、泣くつもりもないのにいきなり涙が溢れてきて、泣いてなんかないと誤魔化そうとしたけれど、無理だった。
ゲリラ豪雨かっていうぐらいに制御出来ない涙が頬を伝って止まらなくなる。
気づいたら私は、クリスティーナに人目もはばからず叫んでいた。
「大丈夫よクリスティーナ! 世界は広い! 何でも出来る! だから飛んでみせて!」
私だってこれから動いてみせるから。
このまま止まったままで私の物語は終わらせないから。
向日葵の上にいるクリスティーナは、戸惑った様子でその場に留まり、動こうとしない。
飛べ飛べ動け!!……お願い!!
生ぬるい風が吹いた。
向日葵がゆらゆらと首を揺らす。
しばらくしてクリスティーナは、その綺麗な羽を広げると、静かに空へと飛び立っていった。
変化の色 槇瀬りいこ @riiko3
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