「やべえ~マジ亀〇痛ぇ」


(うわ)


「まじおもろいやん、性病じゃね?」

「ヤりすぎだって」


(おいおい電車だよ?時と場所考えろ?)


「てか暑すぎ。ここ全然冷房効いてないなぁ」

「めっちゃ夏って感じだよね」


「夏嫌いだわ~」


「え、まじ?夏一番好きなんやけど」

「分かる」


「え~どうして?」


「そりゃモチロン、薄着だからよ」

「それな」

「いや不純すぎ」

「ははははっ!合法よ合法」


(?)


「ほら~やっぱピンと来てないって」

「絶対薄いよね」

「うん。薄そう」

「まあいろいろあるっしょ」

「せやな」




 僕は男女問わずカッコいい人が好きだ。顔だけでは測れないような生き様が好きだ。そしてカッコいい生き方をしている人は顔もカッコよく見える。


だがそこに恋愛的な感情も性的な感情もない。そして、その『ない』ということがひどく悪目立ちする環境であること、悪く目立ちたくないと思うこと、『そういった人』として名前ができて社会で問題視されること、その全てが僕を悩ませている。


 今や様々な名前がついて人間の在り方が変化しつつある。たくさんの人が日々新たな情報に触れ、その知識が理解へとつながり、偏見や差別がなくなっていくらしい。それはとても素晴らしいことだと思う。人と人が歩み寄り、思いやりの輪が広まれば世界平和も夢じゃない。


だが僕はいまとても窮屈だ。とてつもなく。当然のこととして、差別や偏見はあってはならないし、苦しい思いをする人など一人もいてほしくない。だがどうだ。情報だけが先行して、名前に当てはめられ、ラベルが張られて分類されていく。細かな違いなどどうでもいい、という無言の圧さえも感じる。


そうして割り振られた人間を、『普通』とされる懐の広そうな枠組みにいる人間は容赦なくラベルで判断する。ああ、『こういう人』ね、と。


視点を変えて考えてみる。人は誰しもが100%の主観で生きている。相手の立場に立ったとしても、考えるのは結局自分の頭だ。つまり、『普通』が生まれる。そうして生まれた『普通』を疑うことは、自分と自分を愛してくれる存在たちを疑うことであり、進んでできることではない。だからこそ名前を付けて、ラベリングして理解し、対応する。「普通って、なんですか?」というよく聞く言葉も、マイノリティ側の視点を表すのには効果的であるのだろう。


そして僕はどちらの気持ちも分からない。他人だからだ。そもそも、分かる必要があるのだろうか。おもいやり、配慮、理解…素敵な言葉たちだ。でも最も大切にすべきは、何より人間そのものではないのだろうか。


なぜ名前を付けて周知させる必要がある?今まで知られずに不当な扱いを受けたり、何気ない一言で傷ついたりした人たちがいるからだ。つまりはその根本、自らの理解の及ばないものを排除しようとする考えを変えるべきではないか。本当の意味での配慮を実現させるには人間として尊重し合うことが大前提のはずだ。


とにかく僕は、名前をに人格を左右されるくらいなら、自分勝手に好きなものを好きでいたいと思う。


 もちろん、そんなに簡単なことではない。ヒトという同じ種であってもそれぞれが違う個体であるように、同じ枠組みであっても同じ個体は存在しない。だからこそ、「他人(という大きな枠組み)を尊重する」という簡単な行為が大切だと思う。


『自分』と『他人』、決して交わることのない存在。僕は『他人』からどんなラベリングをされようと、『他人』の側で生きられなくても、『他人』を尊重できる人間になりたい。それに、僕以外の人間は皆『他人』側の人たちなのだから、せめて仲良くいてほしいと思う。


簡単に解決することではないが、簡単なことなら始めやすいと僕は思う。



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透明は空の色 高代 柊花 @no_name_1224

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