ロワンテーヌの街

柊木ふゆき

エマばあさんとマルゴばあさんの家

 エマばあさんとマルゴばあさんがいったい何者で、いつからそこに住んでいるのか、知っているものは誰一人いない。学校の一番年長の先生でさえ知らない。ものすごく歳を取っていて、シワのせいで顔立ちがほとんどわからなくなっている。東の島の外れ、街と島を結ぶ橋から一番離れた場所にふたりの住むひどく背が低い家がある。平屋で、部屋は二つしかないらしい。誰も入ったことがある人がいないのになぜ間取りがわかるのかは私も知らない。昔招かれた人がいたのかもしれないし、誰かが窓の外から観察して突き止めたのかもしれない。けれど少なくとも、地理のフォール先生が知る限りずっと彼女たちの家のすべての窓は板で目隠しされている。晴れた日には、家の前に椅子を並べて黙って座っているばあさんたちを見ることができる。それから、街から配達にきた配達員から日用品を受け取る。それ以外に彼女たちの生活を知ることはできない。

 私の寮の部屋の窓からは、遠くにポツンと佇むばあさんたちの家が見える。嵐で瓦がいくらか飛んでしまっており、壁は黒ずんでいる。遠くから見るとほんとうに小さくて、ミニチュアの家みたいに見える。私は時々、窓越しにばあさんたちの家を掌の上に乗せてみる。息を吹きかけると飛んでいきそうなほどに脆い家だ。

 ばあさんたちは近寄っても挨拶しても何も喋らない。私はずっと、二人は話すことができないのだと思っていた。もしかしたら耳も聞こえないのかもしれないと。けれど寮母のおばさんが言うには、あれは話せないのではなくて話したくなくて黙っているのだそうだ。

「あたしがまだ子どもだった時、ばあさんちの庭にあった木から林檎をくすねたことがあるんだよ。そしたら、あのばあさんたち、とんでもない叫び声をあげてふたりして追っかけてきて、ほんとに恐ろしかった」

 おばさんはそう言って、まるで目の前に鬼の形相のばあさんたちがいるかのように身震いした。

「それでどうなったの?」

 私は訊ねた。おばさんは肩をすくめて言った。

「逃げ切った。なんたってその時でもばあさんだったからね。そのあとはあそこにしばらく近寄らなかったよ」

 ばあさんたちの家の周りには敷居があるわけではなく、どこまでがばあさんたちの庭で、どこからが学校の所有地なのかはわからない。ばあさんたちの家は学校の敷地内にあるとも言える。なぜなら、この島には学校と寮と学校に関わる人たちの住む小さな住宅街しかなくて、ばあさんたちのように学校に属さないものは他にはいないため、島自体が敷居となっているからだ。だからその林檎の木がばあさんたちのものなのかは怪しいところだ。ただ、いまはもう林檎の木はない。

 寮母からその話を聞いた日、ふと思いついて、私はばあさんたちのことをノートにまとめることにした。ひとまず知っていることを書いていく。

 

 ・ばあさんたちの名前はエマとマルゴという。(氏はだれもしらない)

 ・ばあさんたちは二間の平屋に住んでいる(要検証)。家の窓は板で塞がれている。

 ・ばあさんたちはしゃべれないわけではなく、話したくないだけだ。

 ・ばあさんたちは林檎を盗むと怒る(ただしもう林檎の木はない)。

 ・ばあさんたちは家の前で椅子に座って日向ぼっこをする。あるいは瞑想をする。あるいはふたりだけの会話をする。あるいは……。

 

 書き出していくうちに、私は彼女たちに強い興味を抱くようになっていった。ばあさんたちは何者なのだろう? ふたりだけで寂しくないのだろうか。私はノートとは別に半端な紙を束ねたメモを作り、調査をすることにした。

 まずは配達員がいいだろう。唯一彼女たちと接触のある人たちだから。この島には男性は入れないので、昔は橋の手前で品物の受け渡しをするか、女中たちが外に出て買い物をしていたらしい。今は女性の配達員がいるため、彼女たちが島の中まで物を運んでくれる。私はそのうちのひとりと顔見知りだった。というのも、シモーヌというその女性は、私の母の友人なのだ。私から話しかけずとも、彼女のほうからいつも声をかけてくれる。私はさりげなく近くを通り過ぎるだけでいい。

 配達は朝の五時と夕方の六時にやってくる。朝早くに起きていると不審がられるだろうから、夕方を狙うことにした。毎回シモーヌがやってくるわけではないので、しっかり見張っておかなければならない。

 そうやって気を張っていたが、拍子抜けなことにある日の帰りに私はシモーヌにばったりと出会した。その日は友人のアデルと川のほとりまでザリガニをとりに行っていたのだが、夢中になったあまりすっかりばあさんたちの調査のことなど忘れて、外が薄暗くなるまで遊んでいたのだ。バケツにはいったザリガニをアデルが抱えて笑いながら走っていくのを、私もケラケラと、何がおかしくて笑っていたのかも忘れて追いかけていた。橋の手前なら差し掛かったところで、クラクションが夕方の野原に響き渡った。

「カミーユ!」

 のろのろと走る車を運転するシモーヌが、窓から手を出して大きく振っている。

「シモーヌ!」

 私は叫んで手を振りかえした。クラクションの音に振り返ったアデルが私に向かって「先に行ってるね」とジェスチャーをする。私は頷いた。

 アデルがバケツを抱えて不恰好に駆けていくのを眺めながら、私も車に追い付かれないように走った。敷地内では車は自転車の方が早いくらいゆっくりと進む。

 私たちの寮の前で車を停め、シモーヌが運転席から降りてくる。彼女は焼けた肌に少し黄ばんだ歯を見せて笑い、私を抱き上げた。

 私は喜びの悲鳴をあげる。これは私が小さい頃からお馴染みの挨拶で、大きくなった今でもシモーヌは私を軽々と抱き上げる。荷物を積み上げるために豊かな筋肉をたくわえた二つの小麦色の腕が私は大好きだった。

「大きくなった?」

 これもお決まりのセリフ。

「天井を突き破るくらいにね!」

 シモーヌは私をおろすと、学校の勉強はどうかと訊ねた。私はいつも通り「まあまあね」と答える。

「まあまあねって、なんなのよ、ってあなたのお母さんは言ってたよ」

「だって、まあまあなんだもの」

「好きな教科はないの?」

「絵を描くのは好き。生き物について学ぶのも楽しいよ。でも歴史は嫌い」

 シモーヌは乾いた布で素早く叩くみたいな短い笑い声を上げた。

「パパが泣くわね」

「他に変わったことはない?」と訊ねられ、私は危うく忘れかけていたばあさんたちのことを思い出した。

「ねえ、エマとマルゴのおばあさんたちとしゃべったことある?」

 シモーヌは首を傾げる。

「あの人たち? ないね」

「でも配達するんでしょ?」

「受け答えはするけど、一言も話したところを見たことないな」

 一息おいて、彼女は突然心配そうな顔つきになり、早口に言った。

「なんかあったの?」

 私は首を振る。

「私の部屋からあの家が見えるの」

 私はばあさんたちの家の方を振り返る。そこから家が見えるわけではない。見えるのは頑丈な窓が並んだ寮の壁だけだ。窓の一つにアデルの姿が見えた。彼女も私に気がついて手を振る。

「何かあの人たちのこと知ってる?」

 シモーヌは面白がるような笑みを向けた。

「探偵さんってわけね」

 私はポケットからメモと鉛筆を取り出して構えた。私たちは顔を見合わせて笑い合う。

「あの人たちについて何か知っていることは?」

 私は気取った声で訊ねる。

「そうね、二人は姉妹だって聞いたことがある。誰からかは覚えてないけど。でも、苗字が違うんだよね」

 さっそくの新情報だ。私はメモにペンを走らせながら言った。

「お二人の姓をご存知で?」

「ええ、エマ・デュボワとマルゴ・レノー」

「姉妹という証拠は?」

「ないね。人伝に聞いただけ」

「他にご存じのことは?」

 シモーヌは肩をすくめた。

「残念。知ってるのはこれくらい。歳すら知らないよ」

  出だしにしてはなかなかの収穫ではないだろうか。

 

 私は満足してシモーヌに別れを告げ、夕食のために食堂へ向かった。その晩、私はノートに今聞いたことを書き写した。

 

 ・二人の姓名はエマ・デュボワとマルゴ・レノー。

 ・姉妹という証言あり。


 

「ねえ、何見てるの?」

 私がいつものようにばあさんたちの家を掌の上で弄んでいると、ルームメイトのジゼルが話しかけてきた。私は家を見つめたまま答えた。

「ばあさんたちの家」

 振り返ると、ジゼルは自分の机に肘をついてこちらを見ていた。三年年上の彼女は長く豊かな金色の髪がとても美しく、同じ学年の生徒たちは私のことを羨ましがる。ジゼルはたしかにとても綺麗で素敵だけど、私はなぜみんながそんなに羨ましがるのかがわからない。

「ねえ、ばあさんたちって姉妹なんだって」

 私は言った。

 ジゼルは引き出しからブラシを取り出し、髪を梳きはじめた。壁に立てかけた鏡をうっとりと眺めている。

「私は従姉妹だって聞いたけど」

 しばらくして、鏡を見つめたままジゼルはそう言った。

 去年の演劇祭でジゼルは髪の長いお姫様の役をした。彼女はそのために一年かけてもともと長い髪をさらに伸ばした。それでもハリボテの塔からぶら下げるには短くて、結局偽物の髪の毛を付け足したのだが、ジゼルはそれがとても不服らしかった。彼女は自分の髪を三つ編みにして、クラスメイトたちがかき集めた様々な形の髪留めをたくさんつけていた。舞台の照明に照らされてキラキラと輝く髪飾りたち。あんなに美しい髪は今まで見たことないと、みんな口々に言っていた。演劇祭が終わり、ジゼルは髪を少しだけ切ると、それを従姉妹のエレーヌに贈った。ジゼルの引き出しの中にはクラスメイトからもらった髪飾りがたくさん入った箱がある。

「誰が言ってたの?」

「エレーヌ」

 彼女は答えるとブラシを引き出しにしまい、立ち上がった。もうこの会話に興味はないらしい。

「エレーヌはどこにいるの?」

「さあ、わかんない」

 彼女はそっけなく言ってベッドに寝転がり、すぐに眠りに落ちてしまった。

 

 私はエレーヌを探しに部屋を出た。廊下には窓枠にもたれかかって話し込んでいる子たちがいて、カミーユに気付くと微笑みかける。ジゼルと同じ学年の生徒たちだったので、カミーユは訊ねた。

「ねえ、エレーヌ知らない?」

「さっき談話室で見たけど」

 談話室は一階にある。私の部屋は二階で、さらに三階まで部屋が連なっている。私は手すりに手のひらを滑らせながら階段を駆け降りた。吹き抜けの階段で、ステンドグラスの天窓から落ちた色とりどりの影が散りばめられている。それぞれの色に音があったら、ピアノみたいに綺麗に鳴るのだろうか。

 談話室の扉は両開きで、常に開け放たれている。ソファとテーブルがまばらに置かれ、もう使われない年代物の蓄音機や、今までここに住んでは去っていったたくさんの人たちが置き去りにした本が収まった棚などがある。

 談話室にエレーヌはいなかった。数名の生徒が本を広げて話し込んでいた。

「ねえ、エレーヌ知らない?」

 彼女たちはみな首を横に振った。

 私は寮を出て、あたりを歩き回ることにした。散歩をしている生徒がちらほらいる。だがエレーヌはいない。

 東の島のさらに東側は小さな森もどきになっている。鬱蒼と生い茂っているようで、入ってみるとすぐに川岸に出てしまうのだ。だが島の人たちはみなあれを東の森と呼ぶ。大人たちは私たちが森に入るのを良く思わない。虫が多いのと、森に入ってしまうと大人たちの目が届かないからだ。森を抜けた川岸は場所によっては広い野原になっていて、私とアデルはよくそこでピクニックをした。生徒たちの間には暗黙の了解があり、だれかが森の広場(私たちは皆そう呼んでいる)を使っているときは、後から来たものは引き返さなければならない。

 森に入ると葉陰で薄暗いのだが、入り口と出口(進行方向によって変わる)から陽光が差し込んでくるため、それほど恐ろしくはない。森の中で木々の隙間から見える水面ほど美しいものはない。晴れ渡った日の夕暮れ時などは、星を撒き散らしたようにキラキラと輝いている。ジゼルは虫が大の苦手で、決して森に近づかない生徒の一人だ。そういう生徒は一定数いる。エレーヌはというと、私はジゼルといるときのエレーヌしか知らないので、森に入っていくのを見たことはない。そもそも、大人に見つからないようにみなこっそりと忍び込むので、だれかが森に入る姿を見ることすらあまりないのだ。

 森には生徒たちが何年もかけて作り上げた小道がいくつかある。入学したばかりの生徒は、ルームメイトや寮の親しい年長者からその道を教えてもらい、友人と連れ立って出かけるようになり、そして次の新入生に同じように伝授する。そうやって森の広場の神聖は守り継がれてきたのだ。たいていそれぞれ好きな道がある。私とアデルも、森の真ん中を蛇行しながら突っ切る道を使うことが多い。この道は校舎の裏手の倉庫の裏にある。私は周囲を、特に校舎の窓に人影がないのを確認して小道に入って行った。

 風のない日で、森の中は静かだった。虫が葉を掠めて飛んでゆき、かすかに音が鳴る。それ以外には私が落ちた枝や葉を踏み締める音だけが響く。

 道を抜けた先には誰もいなかった。鴨すらいない。ひとりで広場に来るのは初めてだ。川を超えた先はやはり森になっていて、ここは誰からも見えない。私は靴を脱いで川縁に座り足を水に浸した。歩き回って少し熱った肌に冷たい水が気持ちいい。私はそこを離れがたくなり、エレーヌを探すのは諦めようと思った。

 寝転がって空を見ると、空高くに黒い小さな影が飛んでいる。鳥だろう。何の鳥だろうか。

 私は昔、父に連れて行ってもらった登山で見たハゲワシの群れを思い出す。大きく広げたマントのような翼に、白い頭をしたハゲワシたち。瞳は案外つぶらなのだが、彫りが深く、気を抜かない凛々しい顔立ちをしている。私はあの鳥たちを見た時、叔母のアナスタシアを思い出した。父の弟の妻で、幼い弟を連れて十六の時にこの国にやってきた。弟の方は流暢に話すのだが、姉はいまだにこの国の言葉に慣れることができず、眉をやや吊り上げた険しい顔をしていつもむっつり黙り込んでいる。侮られることを決してよしとせず、つねに顎を引いて胸を張った立ち姿は、痛ましい感じすらする。叔父は彼女の母語が話せるので、ときおり叔父と低い声で話をしているのを見ることもある。叔父はあの人といて気が詰まることはないのだろうか。私は彼女が笑っているところを見たことがない。

 気付けば鳥はいなくなっている。

 私は足を乾かしてから、目に入った別の小道を使って森を抜けてみることにした。私は無意識にばあさんたちの家の方向へ向かう小道を選んでいたようで、寮の裏手にある菜園のそばへ出た。菜園は有志の寮生と寮母が世話をしている。私とアデルもトマトを育てている。私は生き物や植物が好きで、アデルはトマトが好きだ。私とアデルは、アデルの部屋の窓に野鳥のための餌台を作ってシジュウカラやスズメを誘き寄せようとしたことがある。しかし小鳥たちはやってこず、寮母に叱られて頓挫してしまった。

 私は菜園の誰かのプチトマトをくすねて頬張りながら、ばあさんたちの家の方へと向かった。ばあさんたちが椅子に座っているのが見える。いつものように、組んだ手を膝の上に置いて、まっすぐ前を向いている。街の方を見ているので、こちらに視線は向いていない。菜園からばあさんたちの家までの間には野原があるだけだ。ばあさんたちの家の周りには木が少し生えているが、畑や花壇のようなものはなにもない。ばあさんたちは歩いてくる私に気付いているのだろうか。こちらを振り向きもしない。もしかしたら目の端で私のことを観察しているのかもしれないが。

 ばあさんたちは私がすぐそばにやってきてもこちらを見ることも声を発することもなかった。私は上擦った声で言った。

「こんにちは」

 しばらく待ったが返事はない。

 立ち去るべきか、さらに話しかけるべきか悩んで、私はスカートを握りしめた。恐るべき沈黙。顔を顰めたり、ため息でもついてくれれば立ち去る決心もつくものだが、まるでそこに誰もいないかのような態度を取られると、こちらはまごついてしまう。ばあさんたちは石像のように不動だ。生きているのかしらと不安になってじっと見つめていると、ほんとうにときたま瞬きをする。

「いい天気ですね」

 やはり答えはない。

 ほんとうはいろいろなことを聞きたかったが、どの質問も不躾なように思える。あなたたちは姉妹なんですか? それとも従姉妹? いつからここに住んでるの? 一体何を見つめているの? 家の中には居間と台所と小さな寝室があるんですか?

 私はばあさんたちの椅子と並んで地面に座り込み、ばあさんたちが眺めている方向に視線を向ける。ロワンテーヌの街と島を繋ぐ大きな橋と、島を囲む並木が見える。並木の向こうには塀があり、街の方から島の中は見えない。塀は橋の左右で一箇所ずつ途切れていて、小さな階段があり、河岸に降りることができる。見つめていても何も面白いものはない。

 私はばあさんたちの横顔を眺める。正面から見たふたりはシワのせいかよく似ている。しかし、横顔はというと、あまり似ていないことに私は驚いた。エマばあさんは鼻の先が丸く、マルゴばあさんは魔女のように尖っている。マルゴばあさんのほうが額もやや出ている。耳の形も違う。ふたりとも同じひっつめ髪をしているのだが、エマばあさんのほうが癖毛で、後毛が多い。マルゴばあさんは生え際の毛が薄くなっている。

横から見たふたりはとても姉妹には見えない。もちろん似てない姉妹だっている。一つ上のロランスとクラスメイトのシルヴィは姉妹だが、ふたりともそれぞれ両親にそっくりで、姉妹だと言われないとわからない。シルヴィのほうはひょろりと背が高く、薄べったい。顎が細くて口が小さく、面長なので、まるで機械で薄く伸ばしたみたいだ。一方ロランスは、背がそれほど高くない。ふっくらとした身体つきで、柔らかい手をしている。頬がいつもほんのり赤い。桃のような人だ。だけどわたしは、ばあさんたちは姉妹なんかじゃないんじゃないかと思った。

 穴が開くほどふたりを見つめて見比べても、ふたりともこちらを横目で見ることすらなかったので、私は気を揉むのが馬鹿馬鹿しくなってきた。よっぽどなことをしない限り、きっとふたりは私のことなんて屁とも思ってないんだ。なら気にしたって仕方ない。

 私は野原に寝転がった。私はこうやって土の上で寝転がるのが大好き。ときどきありが私の身体を登る。ひとが大きな山に登るみたいに。蝶や鳥や羽のある虫が視界を横切っていく。雲が空を流れる。とてもゆっくりと。ぽかぽかと当たる日が気持ちよくて、私はうっとりと目を閉じた。ばあさんたちはこんな気持ちのいいところで日向ぼっこをして、眠くならないのかしら。彼女たちの目はいつもしっかり開かれて、ずっと同じ方向を凝視している。

 私は眠ってしまったようだった。目が覚めた時、ばあさんたちはもういなかった。

 

 夕食の席で私はエレーヌを見かけたが、話しかけることはできなかった。彼女はジゼルと数名のクラスメイトたちと談笑していた。ジゼルは私に気付いていたに決まっているが、「あなたエレーヌ探してたでしょ」とは言ってくれなかった。

 私は食堂で大抵向かいの席に座るシルヴィに話しかけた。

「ねえ、エマとマルゴのばあさんたちって姉妹なんだって」

  冷たい鶏肉を不機嫌そうに切り刻んでいたシルヴィは、愛想のない表情でこちらを見た。

「なに?」

「ばあさんたちって姉妹なんだよ。知ってた?」

「知らない」

 シルヴィは次はニンジンを切り刻み始める。彼女の妙な癖で、食べるまえにすべての料理を小さく切り分けるのだ。いつも眉間に皺を寄せて、仕事にうんざりして疲れ果てたような顔で作業を行う。姉と違って彼女は食事が嫌いなのだ。普段から機嫌がいいことなど滅多にない子ではあるが。

「なんかばあさんたちのことで知ってることある?」

「ない」

 シルヴィの素っ気ない態度に私は内心ムッとしたが、いつものことなので黙って耐えた。すると、気を遣ったのか、いつもシルヴィにくっついているアン=マリーが諂った愛想笑いで話に入ってきた。

「あの人たちって姉妹なのね」

 私はアン=マリーがあまり好きではない。オドオドしていて、それだけなら許せるのだが、人から嫌われるのを恐れるあまり主張を決してせず、気遣いも大抵的外れ。幼馴染のシルヴィに引っ付き回っている。シルヴィは自身の静寂が邪魔されない限りアン=マリーの好きにさせていた。シルヴィは自分から人と関わりを持つ生徒ではないため、彼女の隣はいつもアン=マリーのために空けられている。

「でもエレーヌは従姉妹だって言ってたんでしょ?」

 調査のことを全て知っているアデルが言った。

「私は幼馴染だって聞いたよ」

 口を挟んできたのはシルヴィの姉のロランスだ。シルヴィの隣に友人と並んで座っている。ロランスはシルヴィが心配でたまらないらしい。彼女が愛想のない対応をするたびに優しい顔に気遣わしい表情を浮かべ妹を見ている。

「そうなの?」

 私は新しい情報に身を乗り出した。

「誰が言ってたの?」

「さあ……。あんまり覚えてないの。ごめんね」

 私はポケットからメモを取り出して書き込んだ。

「そんなの持ち歩いてるの?」

 アン=マリーがびっくりして言う。

「そうだよ」

 私はぶっきらぼうに答えた。アン=マリーは自分が失言したと気付いたようで、顔を赤めて黙り込んでしまった。ロランスはそれに関しては何も言わず、自分の食事に戻っている。

 

 その日から、私は度々ばあさんたちのそばで過ごすようになった。ひとりになりたいときはばあさんたちのところに行くと、ほんとうはひとりではないけれど、心穏やかに過ごせた。ばあさんたちがいないときでも、家の前で寝転がって過ごした。

 ある時、アデルは私に「もしばあさんたちが生徒だったなら、名簿に載ってるんじゃない?」と言った。私はその可能性を完全に失念していた。ばあさんたちがいつからここに住んでいるのかわからないが、ここの生徒だった可能性は高い。そしてそうであれば、彼女たちの名前が過去の名簿やアルバムに載っているはずだ。歳も定かではない老婆たちなので調べるのは少々骨が折れる作業だが、私はそんなこと厭わないくらいばあさんたちに興味津々だった。

 図書室に出入りできるのは、日曜日を除いた午前八時から午後六時までだ。司書は若い女性で、私とアデルが入学する一年前に就任したという。なので、彼女に尋ねたところで返事は期待できない。アデルが手伝ってくれるというので、私たちは土曜日の朝早くに図書室へ向かった。

「おはよう。早いのね」

 司書のグレースは、先生というよりはお姉さんという感じで、特に下の学年の生徒たちから慕われている。私たちは寝ぼけ眼でむっつりとしているというのに、朝から爽やかな笑みを向けて彼女は言った。

「おはよう、グレース」

「おはよう」

 私たちはあいさつもそこそこに、図書室の奥にある過去名簿やアルバム、学校や島の歴史の本などが所蔵された、人が寄りつかないためなんだか薄暗くジメジメして見える書庫へ向かった。許可がなくても入れる場所なのだが、入ろうという生徒はまあいない。グレースは几帳面で、毎日終業後に少しずつ図書室の掃除をしているので、埃が被った本は一冊もない。気の遠くなるような作業だろうに、彼女は何の不満もないようだ。

 書庫の中にテーブルがないので、私たちはありったけの本を抱えて書庫の入り口近くのテーブルに運び、そこを陣取って調べ始めた。シモーヌがフルネームを教えてくれたおかげで探しやすい。ファーストネームだけだったなら、同じ名前の生徒だらけで探し出すことはできないだろう。

 少なくとも、一番年長の先生の年齢よりも上だということなので、それなりに絞って探すことができた。ただ、本があまりに古いため、ところどころ破損しているものもあった。たとえば写真が擦り切れていたりとか、誰かがペンで塗りつぶしたものもある。一体どうしてそんなことをしたんだろう。こんな名簿やアルバムなんて誰も見ないから、きっと大ごとにならずに済んだのだろう。しかし、そう言ったことに意識を向けている時間はない。私たちは片っ端からひとつひとつ名前を読み上げて言った。

「ねえ、カミーユの名前があるよ」

 アデルは古いアルバムに羅列された名前の一つを指さして見せた。たしかに、私と同じ名前だ。歴史の長い学校だから、同姓同名の人がいてもおかしくはない。ばあさんたちの名前が見つかったとして、本人とは限らないかもしれない。でも手掛かりにはなる。ふたりの名前が一緒にあったなら、きっとそれは彼女たちだろうし。

「アデルの名前はあるかな?」

「探してよ。見つけたら教えてね」

 私たちはお昼までにあらかた読み終えたが、ばあさんたちの名前は見当たらなかった。アデルと同姓同名の生徒もいなかったが、クラスメイトの何名かは同じ名前の生徒を見つけることができた。私たちはそれを見つけるたびに笑いながら見せ合った。

「見て、見た目は全然違うよ。すごく美人」だとか、「ちょっと似てない? 親戚かな?」とか。

「見落としたのかな」

 本を閉じて、目をこすりながらアデルが言った。アデルはあまり目が良くないのだ。

「もしかしたら、いっかい結婚して名字が変わったのかも」

「そうだね。疲れちゃった」

 昼食の時間が迫っていたため、私たちは本を急いで片して図書室を出た。カウンターの前を通った時、グレイスがいつもの笑顔で言った。

「何を探してたの?」

 私たちは急いでいたが、アデルが律儀に立ち止まって説明する。

「あそこの家のばあさんたちのことを探してたの」

「ばあさんたち?」

「北の方の家だよ。崩れかけの」

 私がアデルの手をひっぱって催促したので、アデルはグレースの返事を聞く前に背を向けて私についてきた。グレースはもしかしたらばあさんたちのことをほとんど知らないのかもしれない。

 私たちが並んで食事をしていると、普段滅多に寮に来ることのないフォール先生が食堂へ入ってきた。フォール先生はいつも顎を引いて澄ました顔で当たりを見渡す。本当はとても緊張していて、生徒たちに侮られまいと気を張っているのだ。アナスタシア叔母様みたいで私はフォール先生が苦手だった。

 フォール先生はいつものように部屋をぐるりと見渡すと、私たちの上で視線を止めて、こちらにまっすぐ歩いてきた。わずかばかり前のめりの姿勢は猪のようだ。

「カミーユ」

 彼女は私をまっすぐ見据えて言った。

「はい」

 生徒たちはみな手を止めてこちらを盗み見ている。静まり返った室内と隠しきれないみんなの視線に先生も居心地の悪いものを感じたのか、彼女はほんとうに言おうとしたことを飲み込んで言った。

「食事のあとで私のところに来なさい」

 そう言うと、先生は早足で逃げるように出ていった。せっかくの威厳もあの後ろ姿では台無しである。

「ねえ、なにしたのよ」

 普段は私に話しかけてこないジゼルがニヤニヤと笑いながら飛んできた。

「何もしてないよ」

「でも先生怒ってたよ。ねえ?」

 隣にはエレーヌがいる。彼女は困ったように笑って曖昧に頷く。

「なにもしてないもん」

 私は言い返すが、ジゼルが聞く耳を持つわけがない。

「なんて言われたから教えてよね」

 そう言ってエレーヌを引き連れて帰っていった。

 

 私が先生の部屋に入ると、彼女は書き物机に向かっていたが、わざとらしくこちらを振り向き、重々しくメガネを外した。前には丸い椅子がある。フォール先生はそこに座れと指し示した。

「なんで呼ばれたかわかる?」

 私は首を振った。

「グレースから聞きましたよ。あなた、あのおばあさんたちのことをこそこそと調べまわってるんですって?」

 私は頷いた。

「どうしてそんなことをしてるの?」

「私の部屋から家が見えるんです」

 私はばあさんたちの家がある方を指し示した。先生の部屋の中ではそこは壁だけれど。

「それは理由になりませんよ」

「ずっと見てると、気になってきませんか? どんな人たちなのか。誰も知らないなんて、おかしいと思う」

 先生はかすかに眉を持ち上げた。

「人間には、尊厳というものがあるんですよ」

 先生はそう言って非常の上で手を組み、椅子にもたれかかった。

「あのひとたちは静かで平和な暮らしに満足してるんです。それを脅かしてはいけません」

「でも」

「カミーユ。あなた、たまにあの家のそばへ行ってるでしょう」

 今度は前のめりになって、上目遣いに私をじっと見つめる。

「行ってます。でも悪いことですか?」

「それを考えるのはおとなのすることですよ」

 フォール先生は言葉を切って私から目をそらす。

「今後あそこへ行くのは禁止です」

 私は口をつぐむ。もやもやとしたものが胸に渦巻いているが、言葉にできない。これは多分怒りだと思う。けれど私にはそれを表現することも、反論することもできなかった。

「わかりましたか?」

 私は黙って先生の目を見つめた。目を逸らしたら負けだと思ったのだ。けれど先生は用は済んだというように書き物机に戻って言った。

「ドアをちゃんと閉めて行くのよ」

 私はしばらくの間椅子に座って先生を凝視していたが、意図的に私のことを無視しているのだとわかって部屋を出た。部屋の前ではアデルが待っていた。

「どうだった?」

 私の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。悔しくて仕方なかった。おとなってなんて身勝手なんだろう。理由にもならないようなことを建前に、こどもの楽しみを禁じるのが好きなのだ。

 アデルにことの経緯を話すと、彼女は

「フォール先生ってほんと意地悪。私も大嫌い」

 と言ってくれたけれど、私ほど動揺をしていないようだった。むしろどこかほっとした感じさえある。

 部屋に帰ったらジゼルの質問攻めに合うのは目に見えていたので、私はアデルの部屋で眠ることにした。明日にはジゼルもきっと興味を失っているだろう。

 

 ばあさんたちの家に近づくのを禁止されてから、私は再び部屋の窓からばあさんたちの家を眺める生活に戻った。図書室での調査はあれ以来できていない。一度別の用で図書室に訪れた際、私が叱られたことを知ったグレースは平謝りだった。彼女はこどもを軽んじない数少ない大人のひとりだ。私はグレースが好きだったし、腹が立っていたのはフォール先生に対してだったので、謝らないでと言った。

 それにグレースはとても良い情報をくれた。私を不憫に思ったのか、交流のある前任の司書にばあさんたちのことをそれとなくたずねてくれたのだ。グレースが言うには、その前任者はグレースの話を聞いて笑った。

「私が勤めていた時も何年かに一度はいたわね。だから片っ端から調べたことがあるの。間違いなく、ばあさんたちはここの生徒じゃないわよ」

 結局、図書室での作業は骨折り損だったわけだ。それにフォール先生にもバレてしまって。

 最近アデルは私がばあさんたちの話をすると不機嫌になる。だから私はひとりで部屋に篭ることが多くなった。調査のために作ったノートは、結局たった一ページ半しか埋まっていない。私は出窓にノートとメモを転がしてばあさんたちの家を眺める。そのうち手持ち無沙汰の手が勝手にばあさんたちの家のスケッチを描き出した。これが案外楽しく、私はスケッチに夢中になるようになり、いよいよ窓辺で過ごす時間が長くなった。

 スケッチを重ねるうちに、私は家にアレンジを加えるようになっていった。たとえば、なくなってしまった林檎の木。たわわと赤く光る実をつけた木を描く。あるいは瓦を修繕してやる。アレンジはどんどん増えて行く。窓の板が剥がされて、ぼんやりと灯りが漏れる。花畑の中にポツンと立ち尽くす。スノードームの中に入れてみる。ちいさなかわいいおもちゃのお家。

 やがて、私は絵だけでなく、それに物語も付け足すようになった。姉妹のばあさんたち、従姉妹同士のばあさんたち、全くの他人のばあさんたち。どうやって親しくなったのか。どうしてこんなところにいるのか。色々な可能性を書き出していくのだ。前任の司書に否定されはしたが、この学校の生徒だった物語が私のお気に入りだ。ふたりは同級生でとても親しかった。しかし、マルゴのほうが理不尽な罰で倉庫に閉じ込められてしまった。怒り狂ったエマは倉庫の鍵を壊してマルゴを連れ出し、朽ちかけていた古い空き家に身を潜めた。先生たちは探し回ったが見つかることができず、やがて忘れてしまった。そして何年も刻が経って、あるときふと誰かが言う。「あんなところにばあさんなんて住んでたっけ?」

 はじめのうち、私はアデルに絵や物語を披露した。しかし彼女の反応が悪いのに気付いてからは、それもやめてしまった。最近ではアデルはいつも怒っている。私もその態度にだんだんと腹が立ってきて、隣同士で座りはするが、ひとことも話さない日々が続いた。そしてあるとき、ついに私の些細なひとことがアデルの怒りを爆発させてしまった。

「いい加減にしてよ」

 その日私はそれほど機嫌が悪くなく、久しぶりに普段の調子でアデルに話しかけたのだった。書き上げた物語がとても面白くて、どうしてもアデルに読み聞かせたかったのだ。私が肩に置いた手を、アデルはほとんど叩き落とすようなかたちで薙ぎ払った。

「ばあさんばあさんって! あんなつまらない人たちのことばっかり!」

 彼女の激しさに驚き、一瞬呆気に取られたが、すぐに私の方も怒りが湧いてきて言い返す。

「失礼よ!」

「どうせ聞こえないよ! あんなばあさんじゃね!」

「どうしてそんなに怒ってるの?」

「どうしてわからないの?」

 彼女は泣いていた。顔を真っ赤にして、口をひん曲げている。充血した目に透明の膜がはって、人形のガラスの瞳みたいだ。私たちはしばらく無言で睨み合っていたが、突然アデルが駆け出した。階段を駆け降りて行くアデルの足音が響く。階段を上がってきたエレーヌは脇をすり抜けて行くアデルを呆気に取られた様子で見送り、気遣わしげに私に話しかけた。

「どうしたの?」

「わかんない」

 私は彼女の顔もろくに見ないで言い捨てて部屋に戻った。ありがたいことに、部屋にジゼルはいない。私はもはやそこが定位置となった窓辺の椅子に呆然と座り込んだ。怒りの感情はもうなかった。ただアデルの悲しげにこちらを見つめる目が瞼の裏にこびりついている。

 窓台にはノートが開いて置いてある。私はそれをめくる。どれも馬鹿げた絵だ。どうしてこんなものに熱心になっていたんだろう。

 窓の外へ目を向ける。ばあさんたちの家はただそこにある。家の前はからっぽだ。そこにはワクワクするような秘密なんてない。あんな風だったかしら。ほんとうにつまらない家だ。

 私はほっぽっていた鉛筆を握り、そばにあったメモに家をスケッチしはじめた。見たままにただ描く。細部まで。

 できあがった絵は、いままで描いたもののなかで一番よくできていた。私はそれをそのまま置いて部屋を出た。

アデルの部屋と私の部屋は五つ離れている。廊下には誰もいない。私は部屋の扉を叩いた。

「ねえ、いる?」

 扉が内側から開いた。目を腫らしたアデルの顔が薄暗い部屋の中から覗く。鼻の頭がまだ赤い。私はアデルを抱きしめた。

「ごめんね」

 私たちはアデルの部屋を出て私の部屋に戻った。窓辺にはノートやメモが広げられたままだ。

「燃やしちゃおうと思ってるの」

 私は言った。

「よく見たらつまらない絵だし」

 アデルは私がついさっき描きあげた一枚を手に取ってじっくりと見る。しばらくして顔を上げると言った。

「これはよくできてる」

「そうかな」

 窓に紙をかざして、ほんものの家と並べてアデルはそれらを見比べた。

「よく似てる。そっくり」

 私はアデルの肩越しに絵を見る。

「ねえ、こればあさんたちにあげなよ」

 それは考えたこともないことだった。これだけばあさんたちに惹きつけられながらも、私とばあさんたちの間に交流と言えるものはなにひとつなかった。

「それは考えたことなかった」

「すごくよくできてるもん。燃やすの勿体無いよ」

 アデルはそう言って赤い鼻で微笑んだ。私の大好きなアデルの笑顔だ。私は嬉しくなって、俄然乗り気になってしまった。

 目下の問題はフォール先生だろう。

「この絵を見せて、最後に渡したいって言えばいいんだよ。ダメなんて言えないわ」

 アデルはそう言った。

 私たちはフォール先生の部屋を訪ねた。彼女はいつかと同じように書き物机に向かっていた。先生は一体何を熱心にしてるんだろう。ふと思ったが、先生の「なんです?」と言う声にそんな疑問は飛び去ってしまった。

「あの、これ」

 私は絵を差し出した。先生はそれを一瞥して、訝しげな顔をして再び言った。

「なんです?」

「これを、ばあさんたちにあげたいんです」

 間を置いて、私は慌てて付け足す。

「最後に」

 先生は絵を受け取って、出来の悪い生徒の試験を採点するみたいに険しい顔でじっくり見つめたあとに、私を見据えて言った。

「これを渡したら、もう二度と行かないと誓いますか?」

 私は頷いた。

「いいでしょう」

 彼女は絵を私に返して、そしてにっこりと笑った。

「よくできてるわ」

 先生のそんな笑顔を見るのは滅多にないことだった。特に、私のような生徒にはほとんど向けられることがないものだ。私はなんともいえない心持ちで部屋を出た。

「どうだった?」

 待ち構えていたアデルが言った。なぜか周りには他の生徒たちがいる。

「いいって」

 私は呆けた声で言った。

 生徒たちの間にどよめきが広がる。

「なんでみんないるの?」

「また怒られてるのかと思って」

 そう言ったのはジゼルだ。

「私たち窓から見てるからね」

 彼女はなぜか誇らしげに言う。

「気をつけてね」

 間が抜けたことをいうのはアン=マリーだ。

「グレースも呼んでくる!」

 アデルは廊下を駆け出した。なんの騒ぎかと部屋から出てきたフォール先生が、アデルに注意をする。みんなはフォール先生を見ると黙り込んだ。先生は私たちをぐるっと見渡すと、何も言わずに歩き去った。

 アデルが戻ってくると、私は玄関から一人押し出された。おそらくばあさんの部屋が見える談話室の窓辺により固まってこちらを見ていることだろう。私はさながら大使だった。あるいは未開の地へ向かう冒険者。

 いつのまにか、ばあさんたちは家の前に座っていた。まるであつらえたようである。私はスケッチを賞状のように両手に掲げて歩き出した。みんなが見ているのだと思うの身体が熱くなる。こちらを見ることなんてないばあさんたちまで私に注目しているようで、私は地面を見ながら歩いた。道のりはいつもより遠く感じられる。草の上を飛び跳ねる虫のことを考えて気を紛らわせようとしたが無理だった。虫はまるで付き添うかのように私についてきたが、やがてどこかへ消え去った。

 ばあさんたちに向かい合う形で立ち止まっても、彼女たちは私のことを少しも見ない。

「こんにちは」

 返事がないのをわかって私は言った。

「あの、これあげます」

 私は紙を差し出す。手汗で端の方がふやけてしまったが、絵は問題なさそうだった。ばあさんたちの視線は動かない。

「この家の絵です」

 私は手でばあさんたちの家を指し示した。

 すると、驚くことにエマばあさんが決して動くことのなかった視線をゆっくりとこちらに向け、それから絵に落とした。マルゴばあさんも続いて顔を向けた。

「うまく描けたので、よかったら」

 彼女たちは黙って絵を見ているだけで何も言わないので、私は口早につけたす。

 エマばあさんが震える手で紙の端を掴んだ。その手がしっかりと紙を掴んだのを見て、私は手を離した。そしてはじめて、ふたりのばあさんは私の顔を見た。

「私、カミーユと言います」

 返事はなかった。

 それで私の役目は終わりだった。私は踵を返して野原を駆け出した。ばあさんたちはきっともうこちらを見ていないだろう。でもあの絵は受け取ってくれた。窓に連なるみんなの顔がどんどんはっきりと見えてくる。彼女たちは真剣な面持ちで成り行きを見守っていたが、私が笑みを浮かべているのを認めると、みんなのうちにも笑顔が広がっていった。アデルが一番に窓から離れて見えなくなった。そして玄関から複数の足音が聞こえてきて、みんなが私を出迎えてくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ロワンテーヌの街 柊木ふゆき @daydreamin9

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る