家族遊戯
隔絶された土地にて
テレビの音もなければ雑談の声すらない家族の無機質な食卓、シチューを掬う私の右手はかすかに震えていた。ほとんど無音の食卓でシチューを啜る音は大変目立ってしまう。音を出して啜るのは楠木家のルール違反。食事中にテレビをつけるのもルール違反。ルール違反者には重い罰が課せられるのを私は身を持って知っている。その時に感じた痛みが確かな経験となって今こうして身体に表れていた。
「どうしたの雀、スプーンを持ったまま止まってお行儀が悪い。お残しは許しませんからね」
常にカッと大きく見開かれた母の目がお皿に残っているシチューやサラダをギョロギョロと見回して指摘する。
「はい、美味しくいただきます」
音を立てないよう注意を払いながら喉にそっとシチューを流し込んで具材を咀嚼した。本当はパンをシチューに浸して食べたいのだが、それもルール違反。あまりにも行儀が悪いと離れにある土蔵で一夜を過ごすことになってしまう。想像するだけでゾッとした。
小さくちぎったパンをそのまま口に入れ、味わいもせずに飲み下した。お皿に残った食事も残り僅かになってホッとした時、コップが盛大に倒れる音がして身体が一瞬硬直した。自分のコップを反射で見て倒れていないことにほっとする。しかし、即座に誰のコップが倒れたのかを理解した。隣を横目でみると、妹のひよ子がシチューをよそおうとした腕で倒してしまったようだった。
ひよ子は顔面蒼白になり、ごめんなさいごめんなさいと何度も父母に謝っている。まだ小学生低学年くらいであろう彼女のしでかした可愛らしい過ちであると、彼らは決して考えない。
父母、特に母の能面のような無表情を見て私は目を伏せた。絵長さん……いや、おばあちゃんは慌てたように台所に走り、台拭きで零れた牛乳をさっと拭きとったが、母の能面が外れる様子はなかった。
「ひよ子、またあなたは飲み物をこぼしたのね。つい昨日も同じことをしたばかりだというのにまぁまぁ。折檻が足りなかったのかしら」
「あ、あぁ……、許してやってくれんかね。まだひよ子ちゃんはちっちゃいからに。許してやってくれんかね」
「おばあちゃんはこの子に甘すぎます。ひよ子、来なさい」
絵長さんのフォローの甲斐もなく、母に腕を強く引っ張られたひよ子は、ごめんなさいと何度も謝りながら振りほどこうとするが、母の腕はひよ子のか細い腕を折ってしまいそうなほど強く握りしめ、もう一方の手には濡れたタオルを巻きつけている。
あれが縄でなかったことがまだ救いだと思った。縄で何度も打たれると痛みだけじゃなく皮膚が切れてしまう事がある。服が擦れるたびに痛みが走るあの感覚は、ひよ子には耐えられないだろう。
「雀、お前はさっさと食べなさい。夕食を食べ始めてから25分が経過している。ウチの食事時間は30分だ。残り5分しかないからな。あと、食器洗いも忘れるなよ」
父の言葉に、はいと短く相槌を打って黙々と食べ進めた。絵長さんが食べるの手伝ってあげよか、言ってくれたが、私は大丈夫ですと答えた。絵長さんはしばらく心配そうに私の様子を伺ったが、そのまま居間を歩き去った。
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次の日の早朝、朝6時半が朝食の時間というルールが身体に沁みついており、私は目覚まし時計の必要もなく勝手に目が覚めた。辺りには民家の1軒さえもない山奥の僻地にあるこの家からだと、父の職場までは車でもかなり遠いらしく、必然、父の家を出る時間に合わせて家族の朝食の時間もかなり早い。
ひよ子はフラフラの足取りで居間に入ってきた。目に見える部分に痣はなさそうだったが、それなりの折檻は受けていたことは顔色から察した。朝食を食べ終えると、父は仕事で家を出ていき、私とひよ子はいつも通り教科書とノート、筆記用具を持って和室に入る。
10畳以上もある広い和室が私とひよ子のいわば教室代わりだったが、入るたびに和室内に広がる荘厳な雰囲気に萎縮してしまう。壁に掛けられたいくつもの銅製のお面、水墨画の掛け軸、小棚に飾られた短刀に大きな甲冑。元は武家屋敷だったのかとここの家主である絵長さんに聞いたことがあったが、無用な詮索をするとまた彼らから罰を受けてしまうよと優しく窘められてしまい、これらの貴重な品々がなんなのかは未だに分かっていない。そうだ、知る必要のないことだ。楠木家の姉である私、楠木雀という人間には。
生徒は私達2人、先生役は母。今日も1日よろしくお願いしますと2人並んで母に礼をして座布団に座り、テーブルに教科書とノートを広げた。授業と言えば聞こえはいいが、教科書とノートを用いた自己学習がメインで、分からないことがあれば母に質問をするという形式。進捗具合を監視する母の目はカメレオンのようにギョロギョロと蠢き、私とひよ子は母と目を合わせぬようにと教科書に1点集中して勉強を進めていく。
ひよ子の身体に蓄積された疲労は目に見えて明らかだった。1時間目の授業ですら意識が覚束ないようで、母がひよ子を呼びかけるたびに意識を無理やり覚醒させてはいるものの長くは持たず。母の眉間に皺が寄っていくのが分かったが、さすがにひよ子の心身がもたないことは想像に難くない。
私は、恐る恐る手を挙げる。
「どうしたの、雀」
「あの、外の天気が凄く良いので、気分転換にひよ子と2人で軽く散歩をしたいのですが、許可をもらえますか」
「……まだ1時間目の時間というのに?」
母の眉間に一層の皺が寄っていくのを見て言葉が喉奥につっかえたが、深呼吸で息を整えて続ける。
「昨夜、私はひよ子と2人で少し自主学習をしてました。少し疲れが残ってるのかもしれません。勉強の進捗は良好なので、少しだけ休憩時間を取らせてもらえれば……」
自主学習をしたという嘘を咄嗟に吐いたことに、幼いひよ子は訳も分からず目を丸くしたので私はドキッとした。母に勘づかれないかと顔色を伺ったが、別段気づかれた様子はなく、小さく諦観交じりの息を吐いて許可を出してくれた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
使われていない田んぼに囲まれた畦道、隣を歩くひよ子が弱弱しい声で呟いた。
うん、と短く返事をする。何か励ます言葉がないかは探すだけ無駄だ。むしろ私が励ましてほしいと思ってしまうくらいだ。まだ短い付き合いながらひよ子もそれは理解しているらしく黙ったまま歩く。
彼女の目に期待の色は映っていない。当てもなく畦道を歩き、幅の狭い道路に出る。もはや整備の行き届いていないひび割れたアスファルトからは雑草が伸び放題で、道路に面した数軒の空き家は廃屋かと思えるくらいに風化して寂れている。廃村、いや廃集落という表現が似つかわしい。私達家族以外は誰も住んでいない土地。
「私達ここで一生暮らすのかな」
「どうだろうね」
「私、まだ学校に通い始めてからまだ半年も経ってなかった。学校に行きたい」
「…………それは、難しいだろうね」
この歪な生活が続く限りは。
「お姉ちゃんは何歳?」
「12歳。小学6年生」
「じゃあ高学年だ」
小さく笑うひよ子を見ていたたまれない気持ちになるのを隠すように目を逸らした。
「うん。卒業式には出られないだろうね」
その言葉にひよ子は肩をすぼめる。笑顔は瞬く間に消え失せた。
「……ここから、逃げられないかな」
道路の先に続く山奥への入り口を見つめながら呟くひよ子に思わずビクッとする。ひよ子の話し声が彼らに聞かれていないかと周囲を見回したが、私たち以外そこには誰もいなかった。
「その話はしちゃいけないよ。聞かれたら大変なことになるから」
「……うん」
俯くひよ子の小さな頭を撫でてあげる。ひよ子を言葉で支えてあげることはできないから、せめて振舞いだけでもと。こんな山奥にはほとんど人はやって来ない。車は父の持つ1台だけ。家の電話はない。通信手段は彼らの持つ携帯電話のみ。
彼らがこの家に移り住み始めた時に固定電話は処分させられたらしい。私もひよ子も当時の事はよく知らないが、絵長さんの話から察するに、管理体制がかなり徹底しているようだった。陸の孤島。
誰かと繋がっているということが存在していると定義するならば、私達はほとんど存在していないのと同じだ。楠木家以外誰からもここにいる私達を認識していない。
「……そろそろ帰ろうか」
「……うん」
私はひよ子の手を引いて、あの大きな牢獄へと戻っていく。遠くに見える自宅は田舎らしく贅沢に土地を広く使っていて、大きな庭と離れにある土蔵が和の味わい深い雰囲気を湛えている。端から見たら田舎暮らしののどかな生活と見えるだろう。
ふと、縁側に座る小さな女の子の姿が目に入った。身長が低くて髪の長い子だった。ひよ子と同じくらいの背丈だろうか。しかし、ひよ子の他に女の子なんて楠木家にはいない。食事の席で見たことがない。いなかった、よね?
「ウチに3人目の女の子なんていなかったよね?」
「いないと思うけど、なんで?」
あそこ、と縁側に向けて指を差すと、女の子の姿がすでに消えていた。ただの見間違いか。そうであってほしい。こんな所に迷いこんだらそれこそ山の遭難以上の危険が待ち受けているから。だがそれは見間違いなんかじゃなかった。
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