見えない家族の誰かさん

 家に戻って勉強の続きを行い午前の部を終えた私とひよ子は母の作った昼食を食べ終え、1時間の休憩時間に入った。ひよ子は自室でお絵描きを、私は縁側で麦茶を飲みながらぼーっとしている時だった。


 畳の上を駆けていく足音で和室を眺めると、開け放たれた襖の向こうを通り過ぎていく女の子の後ろ姿を捉えた。ひよ子……じゃない。


 走っていった女の子の服装は黒のワンピース。ひよ子の服装はTシャツにショートパンツだ。それに、ひよ子の髪はあんなに長くない。そもそも膝元まで伸びる長い黒髪なんて楠木家のルール違反だ。私は黒ワンピースの彼女を追いかける。彼女は2階へ駆け上っていく。


「ちょっと待って!」


 私の呼び止めに彼女は答えず走り続ける。2階に上った彼女は、奥の部屋、つまりひよ子の部屋へと向かっていき、入っていった。ひよ子の、友達?そんなはずはない。そもそもここに移り住んだ私達に家族以外との繋がりはないからだ。ひよ子の部屋の前で立ち止まり、扉を軽くノックする。


 どうぞー、というひよ子の応答で中に入ってみると、そこには自由帳にクレヨンでお絵描きをしているひよ子1人しかいなかった。


「どうしたの?お姉ちゃん」


…………あ、れ?


「さっきここに女の子入ってきたよね。黒いワンピースの子。ひよ子と同じくらいの背丈の。どこに行っちゃったのかな」


「そんな子入ってきてないよ」


 きょとんとしたひよ子の顔には嘘偽りの欠片もなく、私の身体をうすら寒い何かが通り抜けた。


 その日の夜、こっそりと絵長さんの部屋に入って、昼間に見た黒ワンピースの女の子の話をしてみた。絵長さんなら何か知っているんじゃないかと期待したのだが、絵長さんはその話を聞いた途端、怯えたように顔を歪め、戸棚から引っ張り出した数珠を両手に、一心不乱な様子で念仏を唱え出す。


 絵長さんの変わり様に驚きつつもワケを聞いてみたが、


「あの子にかまってはいけんよ。追いかけてはいけん。見ても見なかったフリをしんさい」


 それ以上は教えてはくれなかった。踏み込んではいけないという警告じみた物言いに私もそれ以上は追究しなかった。念仏後に涙を流しながらそこにはいない誰かにひたすら謝り続ける絵長さんを不気味に感じたのも、追究できなかった理由の1つだった。


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 あれから数日後、私はまた黒ワンピースの彼女を目にした。


 追いかけてはいけない、見ても見ないフリをしろと絵長さんから警告されていたが、かまわずに追いかける。ひよ子と同じくらいの幼い彼女が孤独に過ごしていることがほっとけなかったのかもしれない。それに、今日父母は市街のスーパーへ買い物に行っていてしばらく帰ってこないという解放感が後押ししてくれたのもある。


 そんな彼女が1階のとある一室に入っていくのを見て真っ先に思ったことは、あり得ないの一言だった。その一室は常に施錠されていて開くはずがないのだ。そこは、母の部屋だった。管理を徹底しミスを許さないあの人が部屋の締め忘れなどするはずがない。


 私は扉を開けたが中に踏み込まず、顔だけ出して室内を見回す。部屋は整然としている。窓は綺麗に磨かれ、埃1つ落ちていないというのに、不自然にも部屋の中央に1冊の小説が落ちていた。拾われることを待っていたのかと思ってしまうほど、その不自然さに訝しみはしたものの、膨れ上がる疑問を抑えることができず、私はその本を手に取って中を開いた。


 『カントリーサイドファミリー』というタイトルの本で、あらすじを見てみると、どうやら都心での生活に疲れた家族が山奥の僻地に移住し、自給自足の生活を通して家族の絆を深めるという家族愛のお話のようだった。


 なにか既視感めいたものを感じる。いや、既視感を感じること自体おかしい。私達との生活とは月とスッポンどころか根本的に何もかもが違うのだから。その先を見てはいけないような、しかしはやる気持ちを抑えることができず、私はページをめくっていく。


 登場するのは5人家族。祖母、父母、そして姉妹。彼ら以外誰も住んでいない山奥の僻地。コンビニ1件すら立っていない誰からも忘れ去られた土地。そこに出てくる姉妹の名前に戦慄する。


 姉、楠木雀。妹、楠木ひよ子。

 姉の雀は、家族想いで気遣いと配慮が行き届いたホスピタリティー溢れるタイプで、妹のひよ子は、聡明で気品のあるお嬢様のような人間として描かれていた。


 私達がこの家に住み始めた時に彼らから与えられた名前。それがこの本の姉妹の名前と符合する。偶然……そんな安い気休めでは拭えない違和感だった。スケールの大きなままごと、家族ごっこ、そんなフレーズが脳裏に浮かび上がる。


――――ミシッ。


 近くで床板を踏みしめる音が聞こえて咄嗟に振り返る。


「お姉ちゃん、ここで何してるの?」


 ひよ子が首を傾げてこちらを見ていた。母かと思い心臓が飛び上がったが、彼らは今買い物に出かけていたのをすぐに思い出した。私は持っていた本を服の中に入れてひよ子に見せないように隠した。ひよ子にはまだ読めない文字もあるし内容を理解できないとは思うが、何かの拍子でこの本の内容がポロっと彼らの耳に伝わるのはまずい。


「ううん、なんでもない。部屋が開いてたから気になって中に入っちゃったのよ」


 そう返してひよ子とともに部屋を出ていった。この本を部屋から持ち出すなんて危険な事を私はなぜしてしまったのだろう。この本に重要な鍵が眠っているという直感か、黒いワンピースの彼女に導かれたような気がしたのか。普段はなるべく冷静に努めているが、こんな隔離された地獄に一筋の光が差し込んだのだと、藁にも縋る思いがこんな危険な事をさせたのかもしれない。私とひよ子がこの生活から抜け出せるかもしれない小さな希望。


 部屋を出た瞬間に、カチャッと鍵の閉まる音に驚きドアノブを捻ると、鍵がひとりでに閉まっていた。黒いワンピースの彼女が私をここに導いた。この小説は彼女が訴えかけたいメッセージが記されているのだと私は直感的に感じた。


 この後すぐにその期待が絶望へ反転していったことなど予期できるはずもなかった。

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