夕闇さんの失踪
両親はおらず祖父母宅で暮らしていた彼女は、後に捜索願が出されたのち、行方不明者扱いとなった。校内で一時話題にも上がったが、それもすぐに収まり、何事もなかったかのように時間は過ぎていく。彼女の失踪はさすがに笑えないが、以前までの日常に戻れたことはありがたかった。これで勉学に励むことができる。
そうだ。ここ最近捗らなかった分これまで以上に勉強時間を増やしていこう。快適な睡眠と持続する集中力は戻ってきたはずなのに、参考書を開いてもペンはノートの上をなかなか走らない。上位大学進学という目標。だが、それを成したところで一体何になるのだろうかという疑問が今更に俺の脳裏を蠢きだす。
襖の奥に引き込まれる彼女の目は爛々と輝いていた。なぜ彼女はあの危険な状況を楽しんでいたのだろうか、ホラー作家だった父親と同様に心霊関係に興味を持つというレベルではなく、生と死の淵を悠々と闊歩しようとする彼女自身が彼岸の住人なのではないかと考えてしまう。そんな彼女を俺は、少し羨ましいと思ってしまった。
俺はオカルト分野に興味はこれっぽっちもないし、彼女に憧れを抱くほど劣っていない。むしろ俺の方が文武どちらも優れていると思う。でもステータスの高い俺には彼女のような目の輝きがない。寝食を忘れるほどに夢中になれる何かがない。
俺は何のために勉強しているのだろうか。こんなありふれた疑問に応えてくれる母は襖の奥にはいない。いや、母を模した何かだっただろうか。もうどうでもいい。
夕闇鴉の失踪以来、勉強に全くと言っていいほど手がつかず、無駄に長く感じてしまう放課後の時間、俺はレンタルショップに足が向いていた。今まで母さんに禁止されていたJPOPにロック、パンク、メタル、最近話題になっているアニソンやドラマの主題歌。勝手に手が動き、カゴの中に次々と詰め込んでいく。
夕方家に帰宅した俺は早速パソコンにCDを挿入し部屋内に音楽を垂れ流す。音質に物足りなさを感じた俺は財布を引っ掴んで近くの家電量販店に行き、外付けのオーディオを購入し、パソコンに接続して音楽を大音量で流す。
勉強も夕飯の支度も母さんとのルールも何もかも全て、激しくかき鳴らされるギターの高音、腹の底に響くベースの重低音、鼓膜に直接打ち鳴らされているほどのドラム音、心を打つボーカルの叫びに飲み込まれる。身体が疼いていてもたってもいられなくなり、窓を大きく開け放つと、大音量の音楽をも乱すほどの雄たけびを喉の奥から放った。
これまで抑えつけられていた鬱屈が爆発したのか。どこに向かえばいいかわからない学生特有のモラトリアムの発露なのか。夕闇鴉の失踪に対する自責の念を紛らわしたいだけなのか。もうワケが分からなくなっていたが、ワケが分からなくなっていることすらどうでもいい。
外を散歩していた老人がぎょっとしてこちらを見上げていたがどうでもいい。枯らすまで、息が続かなくなるまで叫び続けた。
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「最近いつもと様子が違うけどなんかあったのか?」
クラスメートからの問いかけで自分が鼻歌を歌っていることに後から気がついた。機嫌が良いかと言われると決してそんなことはない。興奮気味、ハイになっているような落ち着きのなさという感覚だった。
真面目にこなしていた授業を熟睡するなんて今までありえなかった。数学の教師はそんな俺を注意するでもなく、むしろ心配そうな目でいびきを掻いて寝る俺を見守っていたらしい。
初めて塾をさぼった。体調不良で休むことは今まであったが、無断欠席して友人とカラオケに行くことなんて考えられなかった。欠席しても、殴られるわけでも罵倒されるわけでもない。罰として冬の水風呂に長時間入らされることもない。ホチキスで腕を刺されることもない。マイクを片手に勉強なんてやってられるかと歌詞を無視して絶叫すると、同級生達は沸き立った。
何日も続く塾の無断欠席、下降していく学校の成績、それと反比例するように上がる俺の不自然なテンションと広がっていく交友関係。距離を置いていた父もさすがに気づいたらしい。塾を辞めるよう勧めてくる父に責め立てる様子はなく、くだけた感じで楽し気に話していた。勉強して良い大学に入ったところで、良い就職先に恵まれたところで、それが自分にとっての幸福に繋がるかというとそういうわけではない。学生にしか得られないものは友人や恋人、遊びや部活。つまり、人間関係と経験にこそ価値があるのだと父は語った。
うるさい。俺がこれまで罰と称して酷い目に遭っていた時に何も助けてくれなかったくせに。全てが終わったこんな時にもっともらしいことを言うな。塾の模擬テストの成績が悪くて3日間絶食の罰を受けていた時、そんな俺を見て見ぬふりをして今みたいにビールをあおって顔を赤らめていたお前がそんな親らしい説教を垂れる資格はない。
「塾はもう辞めるよ。金ばかり無駄にかけさせてごめん」
腹に力を込めて不満の塊を胃の中に押しとどめた。スポーツをしていない俺の腹筋が常に割れていたのはストレスを感じるたびにそれを腹に押しとどめていたおかげかもしれないとふと思った。襖の様子は相変わらず、声は聞こえてこない、ごく普通の襖だ。夕闇鴉が帰ってくる気配もない。
仮に戻ってきたとして、それは生きた彼女が果たして帰ってくるのだろうか。
あの世だか彼岸だかに連れ去られた時と同様の姿かたちのままで戻ってくるのだろうか。
そうとは限らないのでは?むしろ、何か月も飲まず食わずの肉体が無事であるはずがない。神隠しのごとく襖の中へ消えていって数か月、栄養失調と脱水症状で彼女はとうに死亡し死体が白骨化している可能性が濃厚だ。
膨れ上がる不安は大きな輪郭と肉付きを伴い、精神を蝕んでいく。
ガタガタと襖を叩く音が聞こえたような気がして耳を塞ぐ。
――――ここを開けてくれ。
死体となった夕闇さんが襖越しに俺に懇願する声が今にも響いてきそうな恐怖に駆られる。
俺のせいじゃない。
俺は何もしていない。
リビングから急いでガムテープを取り出し、襖が動かぬように縁に貼付け目張りする。本気で開けようものなら簡単に外れるだろうが気休めくらいにはなるだろう。それに母を模した霊達と同様、こちらが呼びかけに応じない限り向こうから襖を開けられないことも充分に考えられる。
あの世におけるルールは知らないが、自分から襖を開けられない、つまり境界を踏み越えることができない大きな理由があるに違いない。母も。夕闇さんも。臭いものには蓋を。背けたい真実は全て誰にも目の届かないところへ置いて閉ざしてしまえ。
父は俺の行動を不審に感じたが、襖の固定部分が摩耗して勝手に倒れてくるからガムテープで固定したと適当な嘘をついておいた。
勉強はサボってばかりだったが、生徒会の活動には毎回参加していた。自覚はあまりなかったが生徒会活動は楽しんで取り組んでいたんだと思う。あとは、生徒会内の交友関係や雰囲気が気に入っていたこともあるだろう。朝の挨拶運動も震災の募金活動も、体育祭に向けた予算や運営準備の取り組みも、仲間とともにそつなくこなしていた。
鳥海からのヘルプも相変わらずだったが、嫌な顔一つせずに手伝ってやった。そしたら、薬でもキメてるのかとと場違いな疑いの目を向けられてさすがにイラッとしたので、樹脂で作られたゴキブリの精巧な作り物を彼女のデスク脇にこっそり忍び込ませたら大いにビビっていたので思わず爆笑してしまった。本当に大丈夫かと心配した様子で尋ねられたので、俺は全く問題ないと答えてやった。本来あるべき日常を取り戻したのだ。母の影にも怯えず、好きでもない勉強に執着しないごく普通の学生の日常。それを面白可笑しく楽しんでいるのだ。それの何が悪い。
――――なんだか俺も日常も全てが作り物のようで朧気でちぐはぐで。
――――俺はおかしくなってきているのかもしれない。
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夕方、駅の改札を通って階段を下っている時の事だった。
前方を歩く女性が目に留まる。肩まで伸びた黒い髪、揺れる髪の隙間から時折覗く綺麗なうなじ、ゆりかごのように交互に揺れる手と綺麗な指。反射的に母さんだと思った。
すらっとした細いボディーラインを際立たせるスーツ姿、ブランド物の黒い革の鞄、育ちの良さを感じさせるような背筋の伸びと歩き。紅く彩られた爪にハープでも奏でそうな上品な指。あの手から放たれる強烈な殴打なんて誰が想像できようか。
気づくと女の真後ろにまで近づいていた。
女の肩に両手を伸ばす。
あと数センチ。
あと少し、軽く押すだけで全て――――。
俺は一体何をしようとしていたのか。女が背後に迫った俺の気配に気づいて振り向くと、20代半ばの全く面識もない女性だった。
俺はとっさに彼女の肩を軽く手で払い、
「蜂が肩に留まっていたので払っておきました」
ぎこちない笑みで恩着せがましい言葉を並び立てると、OLは素直に頭を下げてお礼を言った。
居心地の悪さよりも自分自身に対する不可解さで唖然とした。俺はやはり、おかしくなってきているのかもしれない。
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