襖の向こう側の世界
気づくとそこは川沿いの畔道で、私は草っぱらに横たわっていた。空は燃えるように真っ赤な夕焼け空で、橙というよりは紅に近い。空一面に血をまき散らしたかのようで、日常から乖離した世界を彩っていた。
頬を撫でるそよ風は、夏とは思えないほどに冷たく、私は思わず立ち上がった。学生服を着ている。荷物はなし。スマホがポケットに入っていて電源はついた。霊道、幽世の世界にまで電波が届くのかと、通信大手キャリアのネットワークと5G回線の守備範囲の広さに感心する。しかし、友人知人祖父母からメッセージは特に受信しておらず、薄情者!と川に向かってはしゃいだように叫んだ。
気温の低さにじっとしていられず、とりあえず歩こうと顔を上げると、川を挟んだ向こう側の畦道に仮面をつけた怪しい集団が小さな列をなして歩いていた。人数は10人ほど。コンタクトを取ってみようか。幽世の世界の者とコミュニケーションが取れるかは分からないが、福原君を誘う霊について、そして、ここ幽世の世界について色々聞かねばならない。
川は膝下くらいの深さで容易に渡れると判断した私はローファーと靴下を脱いで躊躇なく向こう岸まで歩いた。冬の小川かと思うくらいの冷たさで両脚の感覚が一瞬でなくなり、踏みしめる石ころの痛みさえ感じない。渡り終えて川から両足を脱することができたかと思うと、川の冷たさが空気にまで伝わっているような、凍り付くほどの冷気が背筋を走り、ぞくっと身体を震わせる。
燃えるような夕焼け空とは対照的な冷感が異世界間を色濃く際立たせているようで、別の意味でゾクゾクと心を震わせた。この川はもしや三途の川だろうか。とりあえずあの集団に合流して尋ねてみようと畦道を駆けあがった。
列の先頭を歩いているのは狐面を付けた白装束の男で不思議な雰囲気を醸し出していた。幽霊というより、宮司や神主のような雰囲気を纏っている。
「黒くて異常に長い腕を持った霊に引きずり込まれてここに来てしまったの。そいつを探しているのだけれど、何か知っていたら教えてくれないかしら?」
狐面男は私の質問に答えず沈黙している。やがて袖口から扇子を取り出し、それを私の背中に向けてゆっくり伸ばし、何かを叩いた。私は何かと思い後ろを振り向いてぎょっとした。
列に並んでいた者の1人が、いつの間に私へ腕を伸ばしていたのだ。土色で皺だらけの腕。明らかに生きた人間のものではない。そいつは猫のお面を付けた大柄で丸っこい体型で、その割には臆病そうにびくびくと叩かれた腕をさすっていた。みすぼらしいくらいに薄汚れて傷んだ衣服を着ている。
それから、狐面男は懐から別のお面を取り出し、私に差し出してきた。鴉のお面だった。これを身に着けろと言いたげだ。どういった意味合いがあるのかは分からない。それを尋ねても狐面男は応えてくれなかった。狐面男は列をなして歩く遥か先を指差した。そちらへ向かっている、あなたも来なさい、そう言いたげに私の顔をじっと見つめる。私は他に行く当てもなかったので、ついていってみることに決めた。
今度は別の何者かが私に向けて手を伸ばしてきた。豚のお面を被った小さな女の子で、夏祭りに着るような可愛らしい花柄の着物を羽織っていた。彼女も同様に伸ばした手を狐面男に叩かれ、彼女はクレームをつけるようにブーブーと唸った後、脇の石ころを川に向かって蹴り上げた。
石ころは小さな波紋とともに川に沈む。夕焼け空を反射する水面は、波紋とともに揺れ動く。広がる夕焼けに穏やかに流れる川、ほのかに香る草の匂い。見覚えがあるようで決して来たことのないこの世界になぜか郷愁を感じてしまう。
空を見上げると吸い込まれるように目を奪われる。この世のものではない空色は黒い両の瞳を赤く赤く染め上げる。不意に視界が暗くなり視線を地上に戻すと、狐面男が扇子を広げて空へ向けた私の視界を遮っていた。それ以上空を視るなと言いたいようだ。決して口を開かない狐面男は動作で主張を訴えかける。かと思うと、私の瞼を指で広げて瞳の奥を覗き込む。
「ち、ちょ、…………やめてっ!」
私は驚いて狐面男の手を振り払った。危害を加えてくる様子はない。何かを確かめていたようで、狐面男は再び手を行く先へと伸ばした。急げ、急げと何度も指を指し示す。何を慌てているというのか。何かが追ってきているのかと後ろの景色を眺めるも、同じ田園風景が延々と続いているだけ。このままじゃ取り返しがつかなくなるくらいの慌てぶりに私は疑問符ばかりが浮かんだだけだった。
指し示す遥か前方では、大きく広がる田園風景の中を列車が駆け抜け、米粒ほどに小さく見える無人駅舎らしいさびれたホームに停車した。どうやらあの駅舎が目的地らしい。幽世の世界に駅舎とは、きさらぎ駅なんて駅名だったりして、なんてネットで流行った都市伝説を想像してクスッと笑ってしまった。
同時に身体を襲ってくる寒気に身震いした。腕を見てみると、血色が悪くなっていた。血が通っていないかと思えるくらい白くなっている、肌感覚はあるが体温が感じられない。腕をつねってみると、小さな痛みとともに熱を感じられ少しホッとした。
長居できる世界ではない。直感でそう感じた。私の身体は、幽世の世界に同化してきている。つまり、死人に近づいている。恐らく、狐面男は私が生者で迷い込んできたことをすでに察していて、現世への還り道までの道案内をしてくれるということかもしれない。なんと親切なことか。彼が何者なのか、あの列車が何なのか、聞きたいことは山ほどあるが、口のきかない案内人に期待もできなければ調査する時間もないというわけだ。
ちょいちょいと狐面男が視線を戻すように手をひらひらとさせると、手鏡を掲げていた。それに従い手鏡を覗き込む。反射する私の顔も病人のように白く、両目は燃え盛る夕焼けを映すビー玉のように綺麗な紅色に変わっていた。まるで死人だった。ただ、瞳はさながら異形の者のようだった。
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