襖に隠された真実

 自室で音楽をかけながらテレビをつけるという奇行をするほど俺は冷静じゃなくなっている。気候変動に伴う作物の不作や円安相場の物価高を知らせるニュースキャスターおじさんの声とボーカロイドが放つ高めの機械音が交じり合って不快な空間となっていた。


 動揺した気分が紛れるどころか気持ち悪くなってきたのでテレビも音楽も消した。重苦しい沈黙の中で響く心臓の音。震える両手を見て自問自答する。


 俺は何をしようとしていたのか。

 見知らぬ女性を駅の階段から突き落とそうとした?

 なぜ?


 難解な数式を解くことも複雑な英文法が入った長文も読み解くことができるのに、自分の心を読み解くことができない不可解さに気持ちが悪くなってくる。襖の件から心の均衡が傾いてきているのは明らかだった。いつからだろうか。恐らく母が死んだときからだろう。


 閉ざした襖のように自分の心も自ら閉ざし、決して中を覗き見ないようにしていた。閉じ込めた嫌な記憶を決して思い出さないように。しかし、目張りしたテープが粘着性を失って剝がれていくかのように少しずつ漏れ出ていく。


 精神よりも身体が先に思い出し、意識と動作が乖離する。

 きっかけは夕闇鴉。


 彼女がもたらした母の死の記憶の想起とともに襖の開放をしたのが決定的だったのだ。勉強をやめた時に俺は勉強が嫌いなんだと気づいた。いや、とっくに気づいていた気持ちに今改めて向き合ったという表現が正しいだろう。圧倒的な解放感に混じる黒々とした何かは確実に精神を侵食してきている。

 

 きっと向き合わねばならない。

 だが、唯一助けになってくれた夕闇鴉はもういない。それでもとすがるようにスマホを操作してしまう。救いを求めるように。スマホで1通のメッセージを彼女に向けて送ってしまった。


『そちらの調子はどうですか。問題ありませんか』


 相手の具合を気遣うポーズで自分の見せかけの体面を保とうとする情けない文面に涙が出そうになる。苦し紛れに送った文面とはいえここまで人は落ちぶれてしまうものかと逆に笑えてくる。鳥海が見たら一生ネタにしてきそうだ。


 そもそも彼女がいるであろう不可思議な世界に5G回線が届くこと自体ありえない……なんて自責の念が何十層にも積み重なる中、スマホが振動して肩がビクッとなった。恐る恐るスマホの画面をのぞき込むと、それは夕闇さんからの返信を知らせる通知だった。ありえるのかと大いに驚く。


 しかし、期待と恐怖が半々でせめぎ合う中でCODEを開くと、メッセージの内容を見て恐怖一色に染め上げられた。


『これから襖から呼び声が聴こえてきます。恐れず声に応じよ』


 彼女は本当に夕闇鴉かと目を疑った。他に頼れる者はいない。かといって無視したところでおかしくなってしまった現状を脱することができるわけでもない。


 引き摺るように足を動かし和室に入った俺は、ガムテープで目張りした襖に向き合う。夕方の時間帯で窓から差し込む夕日が和室内をオレンジに染め上げ、影と不気味なコントラストを生み出していた。


 目の前の全てを飲み込んでしまうような静寂に息を飲む。時が進むのが遅い。何時間も待っているような気さえしてくるが夕日が沈んでいる様子はなく、時間間隔が正常から剥離していく。和室を支配する重苦しい静けさは周囲の現実を空間を切り離す。和室の外は平和な現世であるはずなのに、薄壁一枚隔てたここから決して抜け出すことができない閉塞感。


 身体から吹き出る汗が頬を伝い、何度目か分からない小さな雫となって床に落ちた。一向に沈まない夕日。頭がおかしくなりそうで大声を上げてしまいそうになった時、襖の奥から声が漏れてきた。


――声は届いているかしら、一郎。返事をして。


母さんの声だった。


「あなたが私を殺した」


 続く一言で俺の身体は凍り付いた。

----------


 2、3時間ほど川沿いの畦道を歩いただろうか。ようやく目的の地らしい駅舎に到着した。列車の先頭運転席から狸のお面をした細長い男が降りてこちらを向いていた。服装は駅員のそれで、

彼岸逝きの列車というのをなんとなく察した。


 何時間も歩いている最中、夕暮れは一向に暮れることなく、また暑さに身体が火照ることもない。むしろその逆で、時間の経過とともに身体が冷たくなっていき、肌も死人のように青白く変色してきている。かつて黒かった瞳は夕暮れの紅色に染まり、生者だった私の色素が徐々に失われてきていた。確実に死に近づいている。


 狐面男が狸面男に挨拶がてら軽く会釈すると、向こうも会釈を返してきた。夕暮れの日差しを受ける列車と古びた木造駅舎は日本らしい和を感じてどこか安心感を覚える。ここが幽世の世界の淵であるというのに。ただ、死というのも知ってしまえばこんなものなのだろう。


 死を知らないからこそ恐れる。

 幽世の世界に対する認識が深まれば、死に対する恐怖は薄まっていく。

 死が安寧の地であるという思想が根付き、やがて死は救いになる。

 そうして生と死の境界が薄まり、溶けて入り混じる。

 

 他人の命を大切にしすぎる人間達は世界を歪めているから。

 生者と死者は同価値だから。

 生者である者達の死に対する意識をもっと身近にし、死者の存在をもっと認知させる。

 そうすれば、世界が変わる。

 死に行く者たちへ向けられる悲しみや争いがなくなる。


 私は父と同様、大層な霊能力を持ち合わせてはいない。多少の霊感があるものの、それで何がどうこうできる代物ではない。ただ、今見た景色を。感覚を。思想を。広めることはできる。海のように広大な世界に、たった一滴の雫でも、それを落すことで波紋を広げることができる。


 タイムリミットが迫っているのか、身体を覆う悪寒が時間経過とともに増していく。あの夕日はただの間接照明なんじゃないかと思ってしまうくらい熱を感じなかった。狐面男は私の肩を叩いて呼びかけ、駅のホームの待合室を指差した。あそこで待っていろということらしい。狐面男とその一行達は私と別れて列車へと向かっていった。豚のお面を付けた少女は別れ際、私に手を振ってきてくれたので、私は振り返してあげた。


 視線を待合室に向ける。木造でかなり古ぼけていた。窓は曇っていて壁には蜘蛛の巣が張っている。中に入ると、端の方に不自然に置いてある大きな姿見の前で、一人の女性が立っていた。40代前後といったところだろうか。凛々しい顔立ちに深い影を落とすように顔色が悪く、酷く落ち込んだ様子で姿見を見やっている。中に入ってきた私に気づく様子はなく、奥深くを覗き込んで何か言いたげな様子で口を開いては閉じてを繰り返す。


 一目見て即座に判断する。関わると厄介なタイプの奴だ。異常なまでに何かに強く固執し執着する人間の目をしている。死んだ後に悪霊になりやすい人間というのは傾向がある。それは強い執着心や劣等感、孤独を抱きやすい偏った人間だと父の手帳に書いてあった。まさに今悪霊に転じるのではないかと思ってしまうそんな女性だった。


「こんにちは。鏡の前で何してるんですかー?」


 こんな世界に来て好奇心が抑えられるわけもなく、さながらナンパのように躊躇せず声をかける。自分でも馬鹿かと思うくらいに間延びした声だった。


「……こんにちは。いえ、こちらのことは気にしないでください」


 姿見を覗く彼女は、声をかけた私に驚いた様子もなく、淡白に返事を返して姿見に向き直った。

その姿見は何も映し出してはいない。暗闇が広がっていた。目を凝らしても何も見えてこないが、彼女は何かを待っているように辛抱強く立っている。


「誰か現れるんですか?」


 問題を解けず気だるげに答え合わせをする学生のようなトーンで質問してみると、女性は視線を真っ暗な姿見から反らさずに口だけ動かす。


「ずっと待っているんです。たまに呼びかけてあげたりもして。顔を出してくれるのを待っているんです」


「誰を?」


「息子です」


 若くして子供を残して死んでしまった母親。必死な様子も頷けた。彼女は他の者達のように列車に乗らず、幽世の奥へ行くのを躊躇い、ずっとこの境界線で息子を待ち続けている。その愛情が未練へと、そして悪霊へと転じてしまうかもしれないというのに。だとしたら、目の前の母親が酷く不憫に思えてしまう。


「息子さんはおいくつなんですか?」


「15歳でした。中学3年生の受験期で。ただどれだけの時間ここにいるのかもう覚えていません。一郎は今いくつになっているのでしょうか」


 最近見知った名前が彼女の口から出てきた事に急反応する。


――――いや、そんなまさか。


----------


――お前が殺した。


 俺は悪夢を振り切るように踵を返そうとすると、それを引き留めるようにスマホが振動する。


『これは真実よ。そして目の前にいるソレはあなたのお母さん。偽物ではないわ』


 嘘だ。そんなわけあるか。


 俺は和室を出ようとするが、身体が意思に反して動こうとしない。両脚が震えている。これは金縛りではない。怖いのに。怖くて仕方がないのに。目を背けずにはいられない。表層の意識ではない身体全体がその先の真実を聞きたいと主張しているようだった。


――か、いだん……、せなか…………お、され……た……。


 階段というフレーズである光景が想起された。それはつい最近の出来事だった。駅前の階段で俺は見知らぬ若いOLの背中を押そうとして寸前で止めた。無意識に、でも背中に突き動かされる大きな衝動を感じて。今しかないという切迫感の背後に、恐怖と怒りがあったような。


『あなたは半身不随となったお母さんを階段から突き落とした。それまでずっと抑圧された感情が爆発したのね。15歳にもなると身体も大人に近づく。相手は母親、ましてや半身不随。心の奥でずっと牢獄から抜け出せるタイミングを無意識に待っていたあなたにとっては絶好の機会に違いないのだわ』


 そんなの出鱈目だ。嘘に決まっている。反論で喉から出そうになる言葉がやけに白々しく感じられた。思い出せない。それなのに背中を押した感触が手に残っているのが分かって酷く気持ちが悪い。


――ア…………け、……て……。


『襖を開ければ何もかも思い出すわ。都合の悪いものを隠したその襖を開けるのよ』


 恐怖で震える右手がひとりでに襖に伸びていく。左手で右手を無理やり抑え込もうと掴んだが、左手も同様に震えが止まらず、力が入らない。


 まずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずい。

 見つかる見つかる見つかるみつかる見つかる見つかる見つかる見つかる見つかる見つかる。…………………………………………何が?


 左手の抵抗も空しく襖はゆっくりと開け放たれた。

 襖の中は壁面が見えないくらいの飲み込まれるような暗闇が広がっていた。

 襖が開け放たれたそれは何か大きな口のようで、引きずり込まれる恐怖に思わずあとずさりした。


 それと同時にホッとした。

 もしかしたら、隠したアレを全て跡形もなく飲み込んでくれたのではないかと思ったから。

 だって、襖の中には何もなかったから。


『もしかして見つかる心配をしていたのかしら。もうそこにはないわよ。お母さんの死体は』


 呼吸が乱れて息が苦しい。目をつむって深呼吸をする。呼吸は落ち着き、手の震えも収まってきた。冷静になり思考の焦点が定まってくると、パズルのように断片的だった記憶が繋がっていく。階段で背中を押して殺した母さんの死体を押入れの中に隠した。閉じた襖とともに記憶を封印した。ジェンガのように積みあがっていたストレスとせり上がる罪悪感の板挟み。精神が限界に達していたんだと思う。


 母さんの不在と階段に残った血痕から、死体はあっけなく父さんに見つかったらしい。当日の夜に警察が家に来たが、階段からの転落による事故死として処理された。母さんの死体は襖ではなく階段下で見つかった。死体が勝手に歩いたというのか。まさか。襖で死体を見つけた父さんが階段下まで持ち運んだんだ。だって、死体の発見場所が襖の中だと、俺が殺したという事がばれてしまうから。今まで俺が辛い教育を受けていたのを黙って見過ごしていた罪悪感が父さんにもあったのだ。だからそんな形で償いをしたつもりなんだろう。別に父さんに感謝なんてない。後ろめたさの欠片もない。


「…………、聞いているか母さん。俺はあんたを殺したが、後悔なんて微塵もない。罪を犯したという行為そのものに反省はしているがあんたがこの世から消えたことに清々している。自分の劣等感を教育で押し付ける母さんも、面倒ごとには見ないフリの父さんも何の身にもならないつまらない勉強も全部大嫌いだ』


 10年以上の歳月で堆積してきた憤りが溢れ出る。あとは好きにしろと言わんばかりに襖の前で大きく両手を広げる。


「俺を憎んでいるならさっさと引きずりこめばいいさ。自分を殺した、勉強もしない不真面目な息子に復讐したいだろ。好き放題すればいいさ」


 吠えるような叫びに対して返答はなく、不気味なくらいの静寂が続く。夕闇鴉と同様に引きずり込まれていってしまう。この先は地獄に続いているのか。静寂を埋めるように思考が働く。悪い方向へ悪い方向へ。


 地獄はいくつかの階層に分かれていると聞いたことがある。あらゆる種類の苦しみと終わらぬ絶望。どんな苦しみが待っているのだろうか。妄想は肥大化していく。さきほどまで纏っていた熱が少しずつ冷たくなっていく。カラカラに乾いた喉からもう声は出なくなっていた。死にたくないと。絞り出したそれは声にならず、ヒューヒューと空を切る音のみが空しく走る。


 枯れ枝のような細い、そして異常なまでの長さの黒い腕が襖の奥から伸びてきた。握りしめたその腕で俺を殴打するのだろうか。身構えることもできずに呆けていると、その腕は俺の目の前で制止し、ゆっくりと掌を広げた。


 手の中には一凛の白い花があった。それは見覚えのある花だった。


 母さんが病院に入院したある日、お見舞いに持って行った花だ。その花の花言葉は旅立ち。花に詳しくないが、それは別れと旅立ちを意味し、学校の卒業祝いなど別れの場に使うもので、入院患者に対して持っていく花ではない。それは死を連想させる花だと叱られた覚えがあった。


ーーガ…………ン…………ば……ッ………………テ……。さヨ…………ナラ…………


 一声一声をやっとの思いで出している、弱々しくてか細い、消えいりそうな声。入院中の弱った母さんの声だった。枯れ枝の腕が差し出した花を受け取ると、腕は襖の奥の暗闇に消えていった。


「母さん、ごめんなさい。俺、勉強が嫌いなんだ。音楽が好きなんだ。母さんはがっかりすると思うけど、俺は音楽の道に進んで好き勝手やろうと思ってる。期待に応えられなくてごめんなさい。そして、さようなら」


 果たして俺の声は届いているだろうか。再び腕が伸びてくるのではないかと襖の奥を覗き込む。平手打ちの1つでも食らったほうがすっきりしそうだった。

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