夕闇さんと開かずの間調査
一度帰宅してからやってきた夕闇鴉は、白のワンピースに黒のショートパンツというシンプルな格好だった。
「お邪魔しまーす」
ピクニック気分のように間延びした挨拶とともに入る彼女を2階の自室に通す。元々は塾の予定だったが、体調不良で休む旨を伝えると、塾の講師はかなり心配していた。それもそのはず、これまでどんなに体調が悪くても、身体を引き摺ってまで通っていた塾を休んだのだから。大事故にでも遭ったのかと聞かれたときは噴出しそうになった。案外こういうオフの日があっても悪くないかもしれないなと思ってしまう自分に気づき、やはり相当の疲労が溜まっていることを改めて自覚する。
2階に上がっている最中、どうしても彼女の両脚が視界に入ってしまい、罪悪感を覚える。しかし、傷一つない綺麗な両脚が伸びるその先は決して覗いてはならない。その深淵を覗いた者は、将来を絶たれるに等しい恐ろしい罰を受けることになるからだ。
そうだと、彼女は突如階段を上る脚を止めてこちらを見下ろす。
まさか冤罪をかけられるのでは俺はかなり狼狽したが、部員募集の協力も忘れないでねという念押しだったようで、俺の心配は杞憂に終わった。
自室に荷物を置いた彼女は、早速和室に入りたいと言ったので、大きな声を出さないようにと前置きしつつ和室に案内する。彼女は和室内で探るように周囲を見回すが、特に何かの気配を感じた様子はない。
「お母さーーん!一郎君の恋人の夕闇鴉です!今日1日お宅にお邪魔してまーす!」
注意をガン無視して破天荒な自己紹介をする彼女の口を慌てて抑える。
「頼むからおとなしくしててくれ。あとふざけるのも大概にしてくれよ。俺があとで怒られるんだから」
「……全く反応がないようなのだけれど。変ね。襖開けていいかしら?」
ダメ!ゼッタイ!
両腕をクロスさせて大きな罰マークを作ると、彼女は大きく肩を落とした。
和室を出た後はお互いまだ夕飯を取っていなかったので、簡単ながら冷蔵庫の余りの野菜と豚肉を使って肉野菜炒めを作り彼女に振舞った。そろそろ父さんが帰ってくる時間だが、どう説明したものかと頭をひねっていると、彼女は青ざめた顔でこちらを睨んでいる。
「野菜炒めにブロッコリーってどの地方の郷土料理なのかしら……。それに味が薄い。めちゃくちゃ不味いわね。私を殺す気なのかしら」
俺は気まずそうに視線をそらした。勉強以外のスキルは高めていない弊害なのだが、それをいってもしょうがない。それに父さんは黙って食べている。死にはしないだろう。
「ガリ勉に期待した私が馬鹿だったわ。私が作り直す。冷蔵庫借りるわね」
そう言うと、皿に残った野菜炒めを躊躇なくゴミ箱に流し入れ、勝手に冷蔵庫を漁りだす。キャベツ、ピーマン、人参、豚肉の余りを取り出してフライパンで炒めた後、豆板醤甜面醤など色々調味料を配合してソースを作り、フライパンに流し込んで再び炒める。
ほんのり漂うソースの甘い香りと肉野菜が焼ける音が食欲をそそる。10分ほどで完成されたのは回鍋肉。悔しいがかなり美味かった。
「福原君のお父さんの分も一応取り分けておいたけど食べるかしら」
「どうせ外で食べてくるだろ」
吐き捨てるように言った直後、家のドアが開く音が聞こえた。間の悪さに軽く舌打ちした。リビングに入ってきた俺達2人を見て父さんはきょとんとする。
微妙な空気感が一瞬流れたが、夕闇鴉の方は特に気にもしない様子で簡単な自己紹介をして、友人として遊びにきたという体で話をした。
「あ、え、……はい。よろしくお願いします」
あんたが何をよろしくすることがあるのかと突っ込みたくなった。普段女の気配すら見せない俺が急に同級生の女の子を連れてきたことに困惑しているのだろう。自室に戻ろうと彼女に耳打ちし、早々にリビングを出て行った。回鍋肉よければ召し上がってくださいと笑顔で言い残して出ていく彼女の言葉に、
「あ、どうも」
父さんは小さく返事をした。
自室に戻った俺はいつも通り勉強を進め、彼女は自宅から持ってきたらしい文庫本を読んでいた。江戸怪異物語というタイトルから察するに恐らくホラー小説なんだろうが、そのジャンルに興味のない俺は特に話題として触れるでもなかった。父親がホラー作家というぐらいだし、小さい頃からそういう話に触れていて好きなんだろう。
部屋に誰かがいるという安心感だろうか、今日は久しぶりに熟睡できそうなくらいの眠気に瞼が重たくなった。彼女はというと、用意したかけ布団で寝る様子はなく、俺のデスクに座って照明をつけながらずっと小説を読んでいた。暗い部屋の中、照明のせいで際立って見える彼女の表情は愉悦を楽しむように薄気味悪く歪んで見えた。
身体が覚えているせいか、自然と深夜2時ごろに目が覚めたが、すでに部屋は真っ暗になっていた。さすがに夕闇さんも寝たのだろう。母さんからの呼び声も聞こえず、部屋は静まり返っていて物音ひとつしない。安心したように再び目を閉じ、意識の底へと沈んでいった。
それから夕闇さんは週に何度かウチに来るようになった。
幽霊もしくは怪異に遭遇にするのがいつかは予想がつかないため、なるべく一緒にいる時間を増やすことで遭遇率を上げたいということらしい。
怪異というのは、この世に未練を残した幽霊が長い年月を経て存在自体が消え、それでも残り続ける現象を指すのだと、彼女は持ち前の革表紙の手帳を見ながら説明した。
今回俺が出遭った者達というのは怪異ではなく幽霊の可能性が高いらしいが、なかなか出現せず、鳴りを潜めていた。扉を開けてしまうと何が起こるかもはっきりしていない。
「あなたのお母さんという存在が非常に気になるのだけど、いまだに一度も会えないというのが残念極まるところね」
放課後、誰もいない教室でぼやいた彼女の発言に含みを感じた。心臓がキリキリする。
「しょうがないだろ。押入れから出てくることはほとんどないんだから。階段から転落して以来身体の調子が悪くなる一方なんだよ」
「それは気の毒だと思うんだけど、あなたの前に現れるモノたちと押入れのお母さんとで共通項が多い。お母さんの身に起きた経緯や事情が詳細に聞ければ解決糸口が見つかると思うのだけれど」
心臓の鼓動が速まるのを感じる。それ以上立ち入ってはいけない場所に足を踏み入れている感覚。
「詳細は俺が以前話した通りだ。それ以上の情報なんてない」
「あなたもとうに気づいているでしょう。いや、気づかないフリをしているだけなのかしら。階段からの落下事故と光を受け付けられない身体になってしまったというのを結びつけるには無理があるということに」
心臓を刺すような痛みが走った。
気づいてはいけない事実を。
開けてはいけない真実を。
今開けられそうになっている緊迫感が汗とともに頬を滑り落ちる。
「分かっているわよね?」
明言せずとももう何を言いたいか分かるでしょう。鋭い眼光で見据える彼女の黒い瞳は俺にそう訴えかけていた。
「お母さんはすでに亡くなってしまっているのよね」
汗が滝のようにどっと溢れ出る。
そんなこと分かっていたのに。とうに分かっているはずなのに。
見え透いた嘘で虚構を塗り固めたって真実から逃げることはできないのに。
しかし、母さんが死んだ直後の記憶は思い出せない。当時の記憶をゆっくりと指でそっとなぞるように辿っていくが、そこは霞がかったように何も見えず、思い出せない。
「正直、母さんが亡くなった当時の事はほとんど覚えていないんだ。病院での入退院を繰り返していたことくらいで。葬式くらいの頃からはうっすらと覚えている。それから数か月したある日、襖の奥から母さんの呼ぶ声が聞こえてきたんだ。母さんの声すら覚えていなかったが、直感で母さんだと思った。15年以上同じ声を聞いていたんだから。心の奥底で感じるものがあったんだと思う」
「でもそこでどうして幽霊ではなく、母さんが生きているなんて無理な論理で自分に嘘をついたのかしら?」
なぜだろうか。問いかけられて改めて思考する。
母さんの死を認めたくなかったから?
自分が孤独であるということを自覚したくなかったから?
「…………分からない。分からないんだ」
「あなたの頭には期待できなさそうね」
夕闇さんの無神経な溜息にカチンときて何か言い返そうと口を開きかけた瞬間、襖の奥からナニカがやってくる声が和室に響き渡る。
――一郎君。聞こえる?今日は友達を連れてきたのかい。
母さんの声のような違うような。夕闇さんに視線を送ると、彼女は驚いたように目を丸くしていた。
「…………………………………………お父さん?」
そう呟いた彼女の声に怯えの色はなかったが、困惑した声色だった。
それは俺も同様で、まず女性の声であることは間違いないはずなのになぜ彼女は自分の、それに父さんと間違えているのだろう。そのことを伝えると、夕闇さんは鞄から手帳を取り出す。
目的のページを目で追いながら彼女は考え込み、その空白を埋めるように母さんらしき女の語りかけに心を持っていかれそうになる。本物なのか偽物なのか。いっそ扉を開けてしまおうかと思ったが、夕闇鴉が前のめりになった俺の前に手を伸ばしてそれを制止させた。
「これは偽物の声よ。あなたのお母さんでもなければ、私のお父さんでもない。道を通る良くない霊が私達を引き込もうとしているだけ」
「道を通る?」
「この襖の中は霊道が通っている。彼岸を目指す霊達が歩いていく通り道。霊道は現世のあちこちにあるけど普通は見えないし聞こえない。でも身内に不幸のあったような、死に縁ができた人なら別。あなたは母親の死から彼岸と縁ができてしまった」
「じゃあ、あんたの父親も……」
彼女の寂しげな笑みで俺は察した。
「霊道を歩く霊達は孤独を紛らわすように時折現世の私達に話しかける。あるいは、あちらへ引きずり込もうとするの。でも彼らの問いかけに応じてはだめ。決して襖を開けてはいけないわ。母親の声を模した正体不明の霊達に連れていかれてしまう」
「連れていくって、どうやって連れて行くんだよ。襖の奥に異世界が広がっているわけでもないだろうに」
「向こうにどんな世界が広がっているのか、何が跋扈しているのか、それはこの襖を開けてみないと分からない。でも、襖を開ければそれが分かる」
彼女は一歩俺に近づき、俺の胸に両手をかざした。俺はゾッとした。さきほどまでの寂しげな様子は消え失せ、彼女の目は玩具を与えられた子供のように爛々と輝いている。そして、楽し気な声で言い放つ。
「こんなチャンス滅多に訪れないの。ごめんなさい。少しの間現世を離れるわ」
彼女の両手は勢いよく俺の胸を突き飛ばし、俺は後ろによろけて受け身も取れず壁に背中と後頭部を打ち付ける。
身体に走る衝撃と痛みに顔をしかめた。後頭部を手でさすりながら身体を起こすと、そこには、すでに襖を開け放った夕闇鴉と、彼女の両肩を掴む、異常に長い二本の真っ黒な腕が襖の奥から伸びていた。
そしてその真っ黒い腕は彼女を襖の奥の暗闇に引きずり込んでいってしまった。俺は目の前の光景に理性が追い付かず呆然とする。喉がカラカラに乾く。声が出ない。目の前で起こったことが現実なのか悪夢なのか、その境界線に立っているようで現実感が喪失していた。
しばらくして身体の硬直が収まってきたので恐る恐る襖の奥を覗き込むがそこには何もなかった。
今俺は悪夢か幻を見ているだけではないのか。
襖の奥から聞こえる呼び声や長く伸びた黒い腕、引きずり込まれる夕闇鴉。
これら全て現実でたった今起きたというのか。
いや、ストレスで妄想に苛まれているだけではないのか。
否、玄関に彼女の靴はあったことから彼女自体は実在する。当たり前のことなのだが、そんな当たり前の事すら疑わしく思えてしまうほど、現実感という均衡が崩壊していた。しかし、彼女の試みがたまたま功を奏したのかどうかは分からないが、あれから襖の声はぴたりと止んだ。夕闇鴉が餌となったおかげで俺は悪霊達から見逃されたのか。まぁ、問題が解決したのだからそのへんの細かい内容はどうでもいいだろう。もう、全て終わったのだ。
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