夕闇さんは放課後の教室で1人佇む。

 カフェの一件から、和室以外の外出先でも呼び声を頻繁に聞くようになってしまった。深夜の和室での呼び声が母さんのものなのかを疑うようになり、今はもう応答できなくなってしまった。いつまでも俺が扉を開けてくれるのを待っている母さんを無視する行為は俺の良心を徐々に蝕んでいき、摩耗する精神が限界に近づきつつあったとある日。


「新しい部活動を立ち上げたいんです。よろしくお願いします」


 1人の女子生徒が新規の新規部活動申請書を携えて生徒会室にやってきた。


「どれどれ……。夕闇鴉さん、1年生だね。占い部、具体的な活動内容は?」


 申請書を読みながら投げかけられる副生徒会長からの質問にハキハキと彼女は答えていく。しかし、彼女の作ろうとしている占い部の活動内容を聞いて副生徒会長は渋い顔をする。


「うーん、生徒たちの相談を聞いて占い、学校生活を支援するっていうのは、学校の部として行うには少し足りないかもねぇ。人数は?」


「まだ私1人です」


「部活動の立上げには最低でも部員5人が必要だ。本人の同意を得た上で人数分の部員を獲得するように。申請書の部員記入欄があるでしょう」


「もしかしたら多少多めに見てもらえるかなと思っちゃいました。部員集めてから出直します」


「あなたの占いは1年生の間で話題になってるようだけどね、決まりは決まりなのよ。頑張ってね」


 ありがとうございますと言って、血色の良い健康的な肌に浮かべた柔和な笑みは、表向きは天真爛漫のように見えてどこか妖しさを秘めており、長い黒髪と切れ長の綺麗な黒い目の彼女は、過去から現代に転移してきた占い師のように見えた。


 席を立ちあがって立ち去ろうとする前に彼女は俺の目をじっと見つめた。無表情でただじっと俺を見つめる彼女は、俺の目を通して奥の何かを覗き込むように目を凝らしている。美人相手に緊張も意識もしないが、目がしばらく合うとどうにも座りが悪く、視線を軽く横にそらした。


「あなた、女難の相が顔に浮き出ているわね。気を付けたほうがいいわよ」


 ニヤッとした笑みを浮かべながら生徒会室を出て行った。


 女難という言葉にビクッと肩を震わせる。彼女には何か見えているのだろうか。そういえば鳥海が面白い情報があると話してきた占いの女かと思い出した。思考を深く沈めようとする前に再び扉がガラッと開き、


「いつでも占ってあげるわ。いつでもいらっしゃいね」


 快活に溌溂に、俺の心に黒い足跡を残していった。


----------


 毎日俺を呼ぶ女の声。

 それは母さんのものか、はたまた得体のしれないナニカか。

 場所を問わず問いかけてくるその呼び声に俺の心は日に日にやつれていく。


 部屋の扉を。

 教室の扉を。

 トイレの扉を。

 塾の扉を。


 空間を隔てているあらゆる扉に手をかけるたびに手が震える。あっちにもこっちにも。どこからか見られているような錯覚さえ覚える。そもそもこれらは全て俺の中の頭が創り出した幻聴妄想なのか。それとも、この世の者ではないナニカなのか。もうおかしくなる一歩手前だった。いや、とうに狂ってしまっているのか。


 そんな俺が悩んだ末に叩いた扉は、心療内科ではなく、ましてや和室の襖でもない。夕闇鴉ののクラスだった。放課後の教室はがらんとしていて、時折ボールを叩くバットの金属音が開いた開け放たれた窓を通って聞こえてくる。


 吹き抜ける風に長い髪を揺らしながら夕闇鴉は目を瞑って椅子に座っていた。彼女の席の前の椅子に座ると彼女は待っていたように瞼を上げる。


「俺を待っていたのか」


 挨拶もなしに放つ俺の不躾な言葉に彼女は噴き出した。


「あなた自意識過剰って言われない?」


「福原一郎だ。同じく1年のな」


「はいはい福原君ね、よろしく。私はいつも放課後しばらくは教室に残っているのよ。相談者が現れるかもしれないからね」


 どうやら占いを行っているというのは本当のようだった。それに相談者もコンスタントに訪れるような口ぶり。


「あんたが生徒会室を出ていくとき、俺に女難の相だとか言っていたが、あれはどういうことなんだ?」


 彼女は思い出すように視線を宙に浮かせながら、あーー、んーーと唸った後、


「言ってた……かもねぇ?」


 歯切れが悪そうに言った。


「あんたにはなにかそういうのが視えているんじゃないのか?」


「いや、私は霊感がないから何も見えないわ。……って、そっちの相談?」


「そっちがどっちなんだか分からないが、知り合いからそういうのにあんたは詳しいって聞いた。ただの眉唾か」


「あなたが周囲でなんて聞いているのかは知らないけれど、心霊関係に多少の見識があるのは本当よ。あの時はあなたが疲労困憊で疲れていた顔をしていたから、当てずっぽうでそう言っただけ」


「当てずっぽうだと?」


 怒りを通り越して呆れた。吸い取られるように身体から力が抜けていく。


「人間の悩みの大半は人間関係よ。特に思春期の学生の悩みの種と言ったら異性関係がほとんど。当たってたでしょう?」


 涼しげに述べられるご高説に溜息をついて席を立つ。


「そのまま帰ってもあなたの悩みは解決しないわよ」


 後ろ髪を引く彼女の言葉はやけに挑発的に聞こえた。俺は思わず感情的な言葉が口をついて出る。


「じゃあ俺の悩みは何なのか当ててみろよ」


 怒気を含む俺の発言に怯んだ様子もなく、うーんと言いながら足を組んで暫し黙った。顎をさすりながら小さく俯く。切り揃えられた前髪から時折覗く大きな黒い瞳は、正体を見定めるように細く鋭く形を変え、やがてそれはこちらに向きを変えた。


「質の悪い何かに付きまとわれている……とか?」


 俺の僅かな反応に確信を得たのか、口の端を愉快に歪める。


「真面目そうだものね。執着心や自己愛が強いものに好かれやすそうなタイプなのだわ。でももしそれが人間ではないのなら、これは普通の相談でもなければ占いでもないわね」


 体温が一気に下がるほどの冷たさを彼女から感じて一瞬ビクッとする。


「俺は……、どうすればいいんだ」


 超自然的存在を認めてしまったことにいたたまれなさを感じて視線を外にそらす。校庭では自分達の日常を謳歌するように野球部員達がバッティング練習を、陸上部が走り込みをしていた。


「とりあえず、どんな事が起きているのか話してみなさい。どうするかなんて話はそれからよ。ただその前に」


そこで一旦言葉を切って、片手を前に差し出してきた。


「相談料三千円になります」


「金を取るのか!?学生だぞ。しかも生徒会役員相手にお前……」


 きっぱりと言い放つ彼女は微動だにせず、試すようにこちらを見据える。胡散臭い占い女子に心霊系の話を晒した挙句、その上金まで取られるなんてまっぴらだった。テレビでたまに取り沙汰される霊感商法と同じじゃないか。


 テレビを観ながら、こんなものに騙される人間の気が知れないと鼻で笑っていた自分が彼らと同じような立場に立たされる今の状況自体にも羞恥心を感じているというのに。たかが三千円。だが高い安いという話ではない。怪しいものに金を投じて騙されるという過程と結果が問題なのだ。


「……………………帰る」


 鞄を引っ掴んで教室をさっさと出ていく。


「いつでも相談をお待ちしております」


 教室の扉を閉めた先から聞こえる彼女の淡々とした挨拶。別段引き留めるでもなく、かといって来るもの拒まずともいった様子。俺は閉めた扉を背にして冷静に考える。


 このまま帰ったとしても何も変わらない。他にこんな話を気軽に相談できる相手もいない。


 なるほどなと、一つの事実に気づいて俺は納得する。霊感商法やその他詐欺に騙される人間は総じて孤独なのだと。そして俺は今まさに孤独に陥っているのだと。


――一郎ちゃん、ここを開けてくれないかい?


 背中に感じた狂気に身体が硬直したが、それがただの被害妄想だったことに頭を抱えた。確かめるように恐る恐る教室の扉を開けると、夕闇鴉が物憂げに外を眺めていた。


 それから彼女は大きく口を開けて、


「覗きはやめてほしいんですけどーー!!」


 教室どころか校庭にまで響き渡る彼女の声のせいで、冷や汗が滝のごとく流れ出た。


「……………………三千円だ」


 聞こえるか聞こえないかの際どい声量でそっと金を差し出した。


「この金は覗き魔してた口止め料かしら?」


「頼む、勘弁してくれ……」


 現行犯逮捕された犯罪者の心境を僅かばかり理解した自分が情けない。もちろん犯罪者ではない。断じて違う。


「まぁ真剣な相談みたいだし、かなり切羽詰まっているようだから覗きの件は流しましょう。その代わり、部員集めに協力しなさい。あと、占い部立上げに助力すること。いい?」


 分かったよボス……。

 力なく頷く俺に彼女は満足げに膝を叩いた。


「それじゃ、話してごらんなさいな。あなたの身に起こっている怪異物語を」


 暮れかけた薄暗い夕日に照らされて大きく伸びる影は教室を不気味に彩り、広がる夕闇は俺の心にも影を落としていく。俺は、襖の奥に住まう母について語り始めた。


----------


 母さんは凄い教育熱心な人だった。


 将来大人になったときにどれだけ立派な仕事について金を稼ぎ、高い地位について周囲から賞賛される立場となるか。これが人生における目標であり、学生時代はそこに至るまでの積み上げをしていくだけの期間である。


 母さんの絶対的な価値観であり、俺もそれが正しいと信じている。

 楽しいか楽しくないかではなく、自身の価値向上に対してプラスになるかならないか。

 欲しいか欲しくないかではなく、将来のために必要か不必要か。


 余分な贅肉は徹底的に削ぎ落とし、ストイックに物事に取り組んでいくという考えの元、中学受験を意識し始める小学校高学年の頃から教育が加熱し始め、その頃から学校や塾のテストで点数が芳しくなかった時は、罰としてお小遣いの減額や、家事手伝いなどをやらされた。たまの楽しみとして許可されていた友達との遊びや音楽鑑賞も禁止されることがあったが、熱心に勉強を教えるだけでなく、いい刺激はいい経験になると言って学校を休んで色んなところに連れ出してくれた。そもそも公立の小学校の勉強自体私立校受験生に向けたものではなく、それほど必要でもないと当時はよく言っていた。


 凛として強く厳しく、そして優しく。


 その甲斐あって、俺は志望校だった私立中学に合格した。私立中学に入学した後も勉強への手は休まらない。いやむしろ、母に言われなくても進んで勉強するようになり、疲労や苦痛を感じなくなっていた。


 少しずつ心は無機質になり、自動的に機械的に勉強へ取り組むようになっていった。自己を抑え、他者の期待に応えていく。これが大人になるということだと母は言い、そうなのだろうと俺も思った。だから友人、恋人などとはしゃぐ同年代をガキだと思っていたし、見下していた。


 繰り返す日常の中、それは唐突に起こった。母さんが倒れて救急車に運ばれたのだ。脳卒中と診断された。数か月入院してから戻ってきた母さんは右半身不随になっていて、食事を取るのも会話をするのも、何をするにも不便を感じる身体となった。以前のように勉強を教えたりすることはできなくなっていたが、学校、塾、自主学習の繰り返しである程度自己完結できるくらいに成長した今の自分には不必要になっていた。


 そこから先、今に至るまでの記憶が不鮮明なのだが、母さんの身体は良くなることなく、不注意で階段を落下する事故をきっかけに身体を余計悪化させ、そして――――


 なぜだか光を受けつけない身体になってしまった。


 押入れの中で生活をするようになった今では、顔を合わせることもなく、深夜、襖越しに会話をしている。特別な事を話すでもなく、普段の日常的な会話だ。ただ、毎度、必ず、母さんに頼まれることがある。


――ここを開けてくれないかい?


 襖を開けることに何故か抵抗を感じる自分は毎回適当にはぐらかした。母さんはそんな自分を責めるわけでも急かすわけでもなく、今日もありがとうと会話を締めくくる、平和な家族間コミュニケーションだった…………ついこの間までは。


 外出先で突如現れるようになったナニカ。

 襖の奥にいる母さんと同様にそれは、扉を隔てた向こうに現れ、ここを開けてくれとお願い、時には懇願、激昂する。呼び声は日ごとに異なり、声色から察するに年齢も様々だった。そもそも、記憶の中の母さんの声質が朧気で、どれが母さんの声なのか判別ができない。どれもが母さんのように思えてしまう。


 ただ厄介なのは、友人知人の声を模倣する奴がいるということ。これは明らかに母さんではないと判断できる。だからこそ気持ち悪かった。最近、立ち寄ったカフェのトイレで、一緒だった鳥海の声を模して個室の扉を開けてくれと言われ、何度も執拗に壁を叩かれたように。


 それからも、学校、塾、クラスの付き合いで行ったカラオケやファミレスなど、場所を問わず突如現れる。それは必ず空間を隔てた扉の向こうから。そして、頼まれる。ここを開けてくれと。当然勉強も手につかず、先のような被害妄想からくる幻聴まで聞こえるようになってしまった。


 夕闇鴉はそんな俺の話を聞きながらバッグから取り出した革表紙の手帳にメモを取る。他のページをめくっては考え込むように顎をさする、その動作を何度も繰り返した。彼女の持つ革表紙の手帳はかなり使い込まれているのか所々汚れがあり、また女子高生が普段使いする文具とは思えない重厚感があった。


 こちらの視線に気づいたのか、顔を上げてこちらの疑問に答える。


「この手帳は父のものよ。ホラー作家だった父さんは、取材のために訪れた心霊スポットや怪奇現象に遭遇した人、あとは霊媒師さんなんかに話を聞いたり、民間伝承や書籍を読んで集めた情報をここにまとめているのよ」


 そう言って思い出に浸るように優しく背表紙を指でなぞった。そういえば鳥海が、夕闇鴉の父はホラー作家だと言っていたような。どうでもいいか。


「参考になりそうな情報や事例はあったのか」


「なんとも言えないわ。実際にあなたの家に行って確かめてみないことにはなんとも。そのお母さんは、押入れから出たところを見たことはあるのかしら」


「いや、ないな」


「色んな疑問と可能性があるわね」


「いろんな?」


「外で場所を問わず現れるソレが幽霊かはたまた怪異か、押入れの中にいる”母さんらしきモノ”、共通してお願いしてくる”開けてほしい”の意図。そして…………」


「らしきモノじゃない、母さんだ」


 人様の親を物扱いする言動に苛立ちを覚えて口を挟む。


「……もしくは、それ以外の何かが作用して、それらは魅せられているだけなのか」


「で、いつウチにくるつもりなんだ」


「今日よ」


「今日!?」


「泊まりでね」


「泊まり!?」


 今更何を言っているのか言わんばかりの表情を浮かべていたが、確かに母さんは深夜に、その他の怪奇現象的なものは突発的に出現するため、長い時間行動を共にしなければいけないという彼女の言い分は当然と言えば当然だった。


 そして一層驚いたのは、いや、気味が悪いと感じたのは、彼女の瞳は爛々とした輝きを放っていた。

 遊園地に行くような明るい輝きではなく、深淵を覗き込むようなくすんだ輝きに満ちて。

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