幽世からの死者の呼び声
音楽は必要ないと言ったが、全ての音楽が必要ないわけではない。身体をリラックスさせたり逆に集中力を高めてくれるヒーリングミュージックは、動画配信サイト上で探し、好んで聴いている。これは自身の体調やメンタルをコントロールする上で必要なことといえる。
母さんは、ロックやJ-POP、パンクといった趣味の範囲に該当する音楽は禁止していたが、ヒーリングミュージックやクラシックといった勉強が捗る助けになる、または教養として認められる範囲の音楽は許可を出してくれた。クラシックは特に琴線に触れなかったので聴いていないが、ヒーリングミュージックは、勉強で煮詰まった頭に安らぎを与えてくれるので、勉強の合間や部屋でくつろいでいる時なんかもよく聴いている。
駅ビル内のカフェ。アイスコーヒーを口の中で転がしながら、雨音とピアノ音が調和する作業用BGMをイヤホンで聴いているが大変に心地良かった。それに、帰宅途中に寄り道する学生のほとんどはファーストフードかファミレスに寄るので、ここのカフェは学生がほとんどいない。
目を閉じてコーヒーと音楽に意識を預けていると、イヤホンの外から雑音が聞こえてくる。耳をすますと、俺を呼びかける声のようだった。
――――俺を呼ぶ声?
まさか、と身体が硬直して動かなくなる。現在の時刻は午後の17時頃。しかも人が行き交う駅ビルのカフェなのに。閉じた瞼を開けることができず、音楽に集中する。だが、優しいピアノ音と弾ける雨音の奥で誘うような声が微かに響いてきた。
――――い、……ーい、おーーい!月牙天翔!
謎の技名とともにおでこに軽い衝撃を受けて反射で目を開けると、鳥海がアイスカフェオレを片手にチョップを繰り出してきたようだった。
「女の子とカフェーで茶をしばいているというのに音楽を聴きながら1人の世界に浸るってどういう了見じゃ」
体格の幼い鳥海は短い腕を無理に伸ばし、月牙天翔!月牙天翔!と連呼しながら何度もチョップを繰り出す。ホッと一息を吐きつつ、4初目のチョップを腕で受け止めた。
「逆に聞きたいんだが、この前の御礼でカフェ代を奢ってもらったのに何故俺がお前の接待をしなければならないんだ?」
「歪んでるわぁこの人……。女性をもてなすという意識が欠如しているんだろねぇ。そんなんじゃ顔が良くても女の子にモテないぞ」
口に手を当て大げさに身体を仰け反らせる彼女に軽く鼻を鳴らす。何か問題でもあるのかと。彼女の追及を避けるように視線を外すと、カフェのすぐ隣にCDショップと楽器屋が目に入った。大抵の音楽は動画配信サイト上で聴ける。それにロックのような普通の音楽は聴いていない。必要ではないから。
それでも何の気なしにショップを見渡すと、最近流行りのバンドや店長おすすめ曲ベスト10などあらゆるポップに目が移る。友人同士やカップルが棚に並ぶCDを眺めてはあれがいいこれがいいと遠巻きに声が届いてくる。
楽器屋には入口の目立つところに高級感のある大きなグランドピアノが置かれている。
あの鍵盤から先ほどまで聞いていたような美しい音色が奏でられるところを思わず想起する。店内には、色んなデザインが施されたエレキギターやベース、周辺機器が並んでいる。ギターやベースを走る銀色の弦は店内の照明が反射して輝きを放っていた。ひとりでに右の指先が動く。何かを弾くように。
「CDショップ行く?」
鳥海の誘いに逡巡する。普段聴くようなヒーリング系は動画配信サイトで充分、ショップに寄る必要などない。無駄にCDに金をかけるくらいなら参考書を買った方が自己投資に繋がるではないか。
「あー、私チェックしたいCDがあったんだ。カフェオレ飲んだら、イケイケどんどん」
「…………。それなら俺も付き合う。このまま1人で帰るのは女性に対する立ち振る舞いとしてよろしくないだろうしな」
「ウチはフクロウの彼氏かよ」
めんどくせー二重にめんどくせーと愚痴を吐く彼女に俺はなんのことやらと首を傾げた。
尿意を催した俺は、鳥海に一言言って席を立ち、トイレに向かった。個室で便座に座りながら一人考える。
音楽を聴くのは好きだった。中学生のはじめ頃はロックやパンクのようなかっこいい曲ばかり聞いていたと思う。音楽に熱中したことが成績が落ちた原因ではないことは確かだと当時の俺は思ったが、両親いや、母さんが同様に考えるかといえば別の話だった。
何が原因で成績が落ちたかと問われれば首をかしげてしまうが、その頃から音楽は禁止された。それは中学2年生の頃だったと思う。
もう記憶は朧気だが、音楽を禁止されて以降、俺は頭の中が空っぽになり、空いた頭を埋めるように勉学の知識で埋めていった。そのおかげか成長期のような成績の伸びを取り戻したが、どれだけ点数が上がろうが、喜びは感じなくなっていき、ただの作業となった。
それでいい。感情の浮き沈みが成績に影響するのならば感情なんてないほうがいい。楽器屋のギターを見て何故か指先が動いたのも、きっと勉強のしすぎで指の筋肉が痙攣したせいなだけなのだから。
右の掌を広げてぼんやり眺めていると、ドアをノックする音が聞こえた。ずいぶんと便座で長いしていたのか、トイレ待ちが扉の前で待っているようだ。立ち上がって水を流そうとレバーに手をかけると、ありえない声が聞こえてきた。
――一郎ちゃん、ここを開けてくれないかい
鳥海の声だった。
何故彼女が男子トイレに。
女子トイレが故障していたのか。
「なんで男子トイレにいるんだお前。とりあえず出るから一旦ここから出ろ」
「一郎ちゃん。早くここを開けてほしいの。お願い」
何かおかしい。
確かに鳥海の声なのだが、あいつは俺を一郎ちゃんなんて呼び方はしない。
――ここは狭くて窮屈なの。だからお願い、早く開けて。
発言の内容にも違和感がある。
トイレに早く駆け込みたい人間の発言ではないし、そもそも狭いのは個室であるこっちの方だ。そう返そうとした矢先、先の発言に既視感を感じて悪寒を覚えた。
息が止まり、耐え難い沈黙が降りる。
しかし、扉の前で待つ何かは微動だにしないのか、呼吸音すら聞こえない。
呼吸が必要のない死者が佇んでいるのかと思うほどの不気味な無音。
地層のように重なる違和感。
沈黙に耐えかねて口先から疑問が零れ落ちた。
「明かりは大丈夫なのか?」
………………あ――――…………、ああー………。んぅ……、私は、だいじょ、うぶぅ?
違和感が恐怖に変貌する。
お前は誰だという言葉は喉から出てこない。かすれたように空気だけが漏れ出る。扉の前で立ちすくんでいると、痺れを切らしたように向こう側から激しく叩かれる。怒りというよりは嘆きのような悲痛な声で、開けろという言葉が繰り返され、次第に扉を叩く音も大きくなる。
扉が壊れるんじゃないかと頭を抱え込んだが、唐突に扉への殴打が止んだかと思うと男子トイレの扉が開き、話し声とともに二人の男性が入ってきた。
――あんだよ使用中かー。あとで入るべ。
――俺はしょんべん。
唐突に舞い戻ってきた日常に滑り込むように勢いよく扉を開けると、大学生らしき若い男性が2人、こちらへ振り返り固まっていた。
鳥海もいなければ彼女の声を借りた女もいない。
精神的な疲労のせいでこんな幻覚を視てしまったのだろうか。
一体いつからどこから幻覚なのか。
そもそも深夜に話している母さんは本物だろうか。
テーブルで待っていた鳥海は不機嫌そうな顔で戻ってきた俺を見据えて、
「おっせぇぞぉ。女子のトイレか。お花摘みに行ってたんか」
「変なこと聞くんだが、お前、さっき男子トイレに入ってきてなかったよな」
俺の問いかけに半ば引いたような顔を向けてくる彼女を見て俺はホッと一息をつき、なんでもないと手を軽く振った。レジに向かい、テイクアウト用にパウンドケーキを購入して待たせたお詫びにと鳥海に渡すと、
「旦那、あんたモテる男子の動きをしてまっせ。うひひひひっ」
意地汚そうに笑って喜んだ。
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