死体が徘徊する廃屋

「いやー死ぬかと思いました。とりあえず一夜は越せそうですね、かまきり先輩」


 一向に正常に戻る様子を見せない先輩に、なるべく気軽さを装って声をかけてみると、先輩からはいつも通りのトーンで返事が返ってきた。一見正常そうに見える立ち振る舞いが輪をかけて不気味に映る。


「美水ちゃんの方は大丈夫か?」


 先輩の問いかけに合わせて美水の様子を伺うと、彼女はひたすら素数を数えていた。パニックに陥った彼女がいつも行う対処法。彼女の素数カウントを目にするのは初めてではなく、それは先輩も同様だった。先輩はリュックからビスケットを取り出し彼女に渡して落ち着かせようと試みている。


 現実逃避に意識が向いているとはいえ、かまきり先輩はいつも通り優しい先輩だったことに安堵しかけたのだが、突如、人が変わったような強い口調で、小屋の中の備蓄を探せと俺に指示を出した。


 何かが彼にとり憑いているのかと目を凝らしたが、霊視できるものは何もない。月乃の方を伺うも、彼女は黙って首を真横に振った。俺は黙って小屋の中を探し回るが、廃屋同然の小屋に何かがあるわけもない。びくつきながら何もなかったと報告した。


 すると、先輩は穏やかな表情で、隼人のせいではないとなだめるも、数秒後には悪鬼の表情で宇和木先輩の死体を睨みながら怒鳴り声をあげる。死体と喧嘩をしているようだったが、先輩が1人2役となって口論しているせいで段々とワケがわからなくなってくる。今度はリュックの中の食料を全部出せと怒鳴りつけてきた。先輩の中に宇和木先輩の人格が入り込んでいて、人格同士が争っているような。多重人格者が犯人のサイコサスペンス系映画を観たことがあるが、まさにあれを目の前で鑑賞させられているような狂気。しかもそれは己自身の複数人格ではなく、すでに亡くなっている他人の人格。それが秒単位で切り替わっていく。かまきり先輩と宇和木先輩のどちらセリフなのか。


 どちらにせよ、先輩の正常性は失ってしまっていることは確かだった。


「お前そんだけリュック膨らませといて出し惜しみしてんじゃねえよ。貸せ」


 先輩は美水のリュックを奪って中身を床にぶちまける。大量の食料が入っていると期待していたようだったが、期待の色は失望に変わった。俺も多少期待していたが、出てきたものがものだっただけに落胆の色を隠せない。


 それは、科学大辞典と数学公式解説集という2冊の大判の書籍だった。


「科学の知識、数学の公式が載ってる本。持ち歩くと、気が、落ち着く」


 美水の言葉に先輩は声を荒げながら本を地面に叩きつける。そしてまた宇和木先輩の死体へ向き直り、一人芝居のような口論が始まる。口論の内容は食糧問題から先輩間で昔あったらしい女性関係の因縁へと発展し、激化していく。


 話の矛先が美水へと向きを変え、下卑た内容へと濁っていったとき、先輩は不意に電池が切れたように放心状態になって固まった。激しい一人口論の末、放心状態になって固まる先輩があまりにも不気味で、俺は美水へ腕を伸ばして下がらせる。いつ何をしでかすか分からない狂気の人間の前で俺と美水は身体を硬直させる。


 やがて、動き出す。先ほどまでとは打って変わり、落ち着いた足取りで小屋の奥へと歩いていく。


「2人ともー、しばらく目と耳閉じてろー」


 人形が喋っているように温度も抑揚も感じられない言葉が発せられる。

 僅かな音も出さないよう息を殺し、身じろぎひとつしない。

 小さな刺激1つで殺されるかもしれない狂気が今目の前を闊歩している。


「お前らー、俺がいいと言うまで両目両耳しっかり閉じてろよー」


 先輩の警告に従い、目も耳も塞ぐ。美水の足元には、両目から溢れる涙が滴り続けていた。心配するなと彼女にそっと耳打ちする俺の声も震えている。目を瞑った暗闇の世界から、鈍器で殴打する鈍い音が何度も小屋の中で反響した。


 時折、柔らかい物を刺して引き抜く金属と肉が擦れる不快な音、大量の液体がボタボタと床に落ちる音が混ざりこみ、俺は閉じた瞼の向こう側で何が起きているのかを察した。殴打音が止み、また宇和木先輩への罵倒が始まったかと思うと、それを肩に担ぎながらショベルを持って小屋を出て行った。


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 それから30分ほど経った頃、かまきり先輩は血と土にまみれた宇和木先輩を担いで戻ってくる。たったいま泥の風呂に入っていたと思うくらいそれは土にまみれて汚れていた。30分以上も吹雪の中にいたというのに、先輩は寒がる様子もなく、感情のないゾンビのようにソファに向かったかと思うと、宇和木先輩の死体を横たえ、小屋の扉の前で立ったまま静止した。


 ぴくりとも動かない。

 5分10分経ってもドアの前で突っ立ったまま反応なし。

 やはり彼は幽霊に憑かれているのではないかと月乃に目配せするが、彼女は首を横に振る。


「幽霊じゃなくて悪魔とか妖怪的な存在が憑依してるって線はないのか?」


 その問いにも、途切れがちながら否定の言葉が返ってくる。そもそも幽霊以外の非科学的存在は視たことがないとのこと。だとしたらやはり、先輩自身が狂って奇怪な行動に出ているという結論になるのか。その仮定を後押しするように、何の脈絡もなく突然ドア前に立つ先輩から投げかけられる。



「おい、なんで宇和木がこんな血だらけになってソファに寝てるんだ。さっき、俺と口論になってどっか行っちまったはずなのに、なんで小屋にいつの間にか戻ってきているんだよ。誰か説明してくれ」


 とにかく刺激を与えてはいけないと思い言葉を吟味していたが、美水が見たものをそのまま口に出そうとしたので俺は慌てて彼女の口を手で制する。しかし、これらのやりとりが、先輩の目には黒と映ってしまったようだ。疑念をぶつけてくる先輩に対し俺は、これからの事を話し合おうと話題を逸らすも先輩の疑念は強まるばかり。


 痺れを切らした先輩はショベルを床に突き立てて威嚇の姿勢を示す。あなたがやったんだ。その一言がどのような結果を招くかは容易に想像ができる。かといって、俺達がやりましたと嘘の自白をしても悲惨な最期を遂げてしまうのも自明の理。


 目の前に迫る狂気に思考が乱れ、結果として喉から出てきた言葉は、上手く説明できませんだった。だが先輩の精神的疲労もかなりのものなのか、諦めたように大きくため息をついた。先輩は宇和木先輩の死体を担ぎ、ショベルを持って小屋の入り口に立ち、扉を開けてくれと頼んできた。


 また死体を埋めに行く。そして宇和木先輩とは喧嘩別れして消えてしまった。そう口裏合わせをしろと暗に言ってきたが、なぜそんな面倒なことをするのかとは口が裂けても聞けず、首を縦に振った。先輩は小屋を出ていった。


 死体遺棄の罪に問われることを心配したのだろうか。ともかく、狂気が小屋からひとまず立ち去ったことに安堵する。緊張の糸が切れたことで、身体に重くのしかかっていた疲労が一気に襲ってくる。眠ってはいけない。この極寒の中で眠っては凍死してしまう。

美水に頬を引っぱたいてもらおうと彼女を見るが、正気を失いかけた彼女はまた素数カウントを始め、こちらの様子には一向に気づいていなかった。


 瞼が重力に耐えきれなくなり、意識が滑り落ちそうになる直後、後頭部に軽い衝撃を受けて目を醒ました。足元には空の水筒が転がっていて、ぼんやりした視界で周囲を見回すと、月乃が第2投目の水筒を俺の頭めがけて投げつけようと振りかぶっているところだった。

彼女の手からそれが放たれる前に俺は両手で制し、ありがとうと添えた。


 美水をちらっと見たが、彼女はひたすら素数を数えることに没頭していて俺と月乃の会話(まぁ彼女から見たら俺の一人会話になるだろうが)に不審がるどころか反応している様子すらない。俺は美水に構わず月乃に話しかける。


「状況はかなりひっ迫してる。なにか打開策はあるか?」


 俺の質問に、月乃は水筒を投げつけるモーションをする。物理攻撃で小屋を追い出す作戦と言いたいようだ。なるほど危険すぎる。


「物なんてぶつけたりなんてしたらそれこそビックリして暴れまわるかもしれない。もう少しちょうどよい方法ないか?」


 月乃は悩まし気に腕を組み、俺も彼女と向かい合い思考を巡らせる。


 眠気が津波のようになだれかかってくる。舟を漕ぎそうになるたびに月乃は水筒で殴りつけてきた。月乃との問答の最中、先輩はまた死体を連れて帰ってきてソファに置いたのち、扉の前でじっと静止する。


 俺も美水も驚くための体力は残っておらず、何の興味も反応も示さなかった。俺は月乃と相談を、美水は素数カウントを、先輩が我に返った後も素知らぬフリをして続けていたのだが、ギリギリで堰き止めていた堤防がとうとう決壊してしまったらしい。


 押し寄せる狂気に身を任せて、先輩は何度も狂ったように宇和木先輩の死体をザクザクとショベルで殴り斬り付けズタズタにしていく。


 浮気野郎、クズ、ゴミ、ゾンビ。罵倒のワードが吐き散らしながら、ショベルは何度も振り下ろされる。美水は素数カウントを止めて涙を流していた。このままだともうすぐ俺達は殺される。だが、たとえどんな言葉を先輩にかけようとそれはもう彼の耳には届かないだろうと冷静に達観する。


 狂気の世界の住人に正常な世界の住人の声は届かないのだから。


 それならば、狂気の世界の人間を演じてみてはどうか。先輩の映る世界を想像し、それに乗っかることで声が届くかもしれない。


 俺はその旨を月乃に告げ、舞台の演出をするよう頼むと、彼女は静かに頷いた。今ではもう人間モドキとなってしまった宇和木先輩の無残な死体を持ってかまきり先輩は再び外に出ていく。先輩を見送った後、俺は美水にキッチンの棚の中へ隠れるよう指示した。

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