幻覚ゾンビ
遭難
大学の山登りサークルで登山中、それは突然の出来事だった。
急な吹雪に見舞われ、俺達4人は山道の細い道を揃って踏み外して斜面を滑落した。比較的なだらかな斜面であったこととまばらに生える草木がクッションになってくれたことから3人は軽い擦り傷程度の軽症で済んだ。しかし、宇和木が右足を骨折してしまったらしく、膝が紫色に変色し、内出血を起こしていた。
宇和木は同じ大学2年で、1年の頃から山登りサークルに入っている俺の同期だ。登山初心者でもないこいつが大けがをしたことに内心苛つきつつも、添え木を足に、彼の登山靴の靴ひもを使って縛り付けてやった。
吹雪の中で落ちてきた斜面を登るのはほぼ不可能、現在地も不明で、電波も届かない。
大雪で急激に体温を奪われていく差し迫った状況の中、なんとか登山道に戻ろうと必死に俺達は練り歩いた。
2年である俺と宇和木2人、新入生の1年が2人、計4人。女の子である美水さんを除き、俺と1年の隼人が準繰りでケガ人の宇和木の肩を貸しながらひたすら獣道を歩き続ける。滑落直後はみなが漏らしていた不安の声も、体力の限界とともに口数は減っていく。嫌な沈黙に追い打ちをかけるように吹雪の風切り音だけが強くなっていき、絶望感の淵から死が顔を覗き始めた時、幸運にも小さな小屋を見つけた。
大分寂れている、今はもう使われていないであろう廃れた小屋だったが、大雪の今、屋根のある場所というだけで九死に一生を得るものだった。登山道から大きく外れた、おおよそ一般の登山者が来ない山中にひっそりと佇む小さな廃屋同然の小屋。いささか不気味ではあったものの、4人とも安堵の息をついたのがはっきりと聞こえた。
「いやー死ぬかと思いました。とりあえず一夜は越せそうですね、かまきり先輩」
隼人は倒れるように小屋の床に腰を下ろして第一声の愚痴を放った。かまきりはやめろっちゅーに、と毎度のお約束のように諫める。鎌田切斗(かまたきりと)という俺の名前をモジって付けられたかまきりというあだ名は、まだ登山サークル入部当初、新歓飲み会で酔った宇和木につけられたものだった。それが定着して今ではこうして1年にまで気軽に呼ばれてしまっている。肩にかつぐ宇和木を床に投げ捨てたい衝動に駆られるが、それを抑えて床にゆっくりと下ろしてやった。
「美水ちゃんの方は大丈夫か?」
「1.3.5.7.11.13.17.19.23.25……………………」
美水灰利(みみずはいり)は素数を数えるのに集中していて俺の声は届かなかったようだ。
「あうあうあああああああああ!!25、素数違う。やり直し。1.3.5.7.11.13…………」
パニックに陥る自分を落ち着かせるために素数を数えるという彼女の独特の習慣。マニュアルや規則、パターンというものに異常なまでに執着する彼女の気質が言動となって現れているらしく、彼女が入部してからたびたび耳にするこの素数カウントは何度聞いても気持ちの悪さを感じてしまう。サークル内ではマニュアル依存症なんて呼ばれているが、遭難なんてイレギュラー事故でパニックに陥ることは当然のことだ。まだ登山初心者である彼女ならなおさらだった。
俺はバッグの中のビスケットを取り出し、美水ちゃんに食べさせてやった。小動物のような小さい口でムシャムシャと食べた後、小さくありがとうと言った。素数カウントは一旦落ち着き、体育座りをしながら俯いた。
「これからどうするよ。いつまでもこんな埃臭い小屋にいるわけにもいかねぇだろ。おい隼人、小屋の中に備蓄がないか探しに行けよ」
宇和木は苛ついた口調で指示を出し、隼人は遠慮がちに返事をして小屋の物色を始める。美水も彼に続いて小屋の中を探り始めた。10畳ほどの狭い山小屋。埃の被った長机に蜘蛛の巣が張った小さなキッチン、使い物にならないストーブに薄汚れたソファ。2人は隅々まで探してみたが収穫はないようだった。
「すいません、なかったみたいです」
「隼人が謝ることじゃないよ。気にすんな。とりあえず落ち着いて、みんなでどうするか考えよう」
肩をすくめて謝る隼人をフォローする。そもそも遭難した落ち度は、先輩であり登山経験者でもある俺と宇和木にあるはずだ。隼人が気にすることではないのだ。
「落ち着いてって、こんな状況で落ち着けるわけねぇだろ。雪がいつ止むかも分からねんだぞ!」
宇和木の罵声に美水ちゃんは耳を塞いで肩を震わせていた。
「宇和木、怒鳴ったって解決しねぇよ。無駄に体力を浪費するだけだし隼人と美水ちゃんだって怯えちゃうだろ。先輩ならその辺考えてあげろよ」
「生死がかかってんだよ!冷静でいられるわけねぇだろ!おい、お前ら全員リュックの中の食料全部出せ。全員に公平に配分すんだよ。特に俺はケガ人だ。他の奴より消耗が激しいんだから多めにもらうぜ」
ケガ人のお前をおぶってきた俺と隼人の方が消耗してるだろうがと突っ込もうとしたが
ここまでの道のりで積み重なった疲労から言い返す気力も出なかった。隼人も同様でぐったりとした表情で、時折誰もいない虚空を見ては、ぶつぶつと独り言を呟いている。
美水ちゃんに比べて冷静かと一見思ってはいたが、彼も正気じゃなくなりかけているのかもしれない。俺はリュックに入っていたチョコクッキーを取り出して隼人に渡した。
「甘い物食べれば少しは頭がまわるはずだ。頼むからうっかり寝落ちだけはやめてくれよ」
外は大雪で隙間風が通る廃屋同然のこの小屋の室温はかなり低い。ここでうっかり寝てしまったらそのまま凍死に直結してしまうかもしれない。ぼーっとした意識でクッキーを貪る彼を起こしてやろうと、彼の頬を引っぱたいてやった。
子気味のよい音が響くと同時に、ひっと小さな悲鳴が上がる。美水ちゃんの怯えた声だった。叩かれた隼人も驚きと同時に警戒の色を表に出し始める。軽く叩いて目を覚まさせてやろうと思っただけじゃないか。大袈裟だな。
宇和木に従い各自リュックの中の荷物を床に広げていく。4人の中で最もリュックが大きく膨らんでいるのは意外にも美水ちゃんのもので、俺を含めた男3人は期待ありげに彼女に視線を集中させた。しかし、彼女がリュックから取り出した食料は、チロルチョコといくつかの飴玉のみだった。
「お前そんだけリュック膨らませといて出し惜しみしてんじゃねえよ。貸せ」
宇和木は強引に美水ちゃんのリュックを逆さまにする。正直俺も疑わしいリュックの中を知りたかったことから、宇和木を止めることができなかったのだが、中から転がってきた重厚な物達を見て納得と絶句が同時に喉を詰まらせた。
それは、科学大辞典と数学公式解説集という理数系専攻の辞書的タイトルが付けられた大きな2冊の書籍だった。
「科学の知識、数学の公式が載ってる本。持ち歩くと、気が、落ち着く」
気まずそうに俯く彼女は途切れがちに言葉を紡いだ。
垂れる長い前髪の隙間からは、彼女の動揺して泳ぐ目が垣間見える。
「確か美水って法学部だったよね。理数系好きだったの?」
「……う、うん。文系先行して今の大学に進学したんだけど、科学と数学、好き。法則とか定義に基づいた答えが必ずあるから」
「んなこたどうでもいんだよ。科学と数学で腹は膨れねぇんだからさ。ったく役に立たねぇなぁ畜生!」
隼人と美水ちゃんの間の抜けた会話に宇和木は再び声を荒げて本を地面に叩きつける。床に積もっていた埃が舞い上がり、朽ちかけた床の板張りがミシミシと軋む。俺も彼女に続いてリュックの中の食料を探してみるが、クッキーやビスケットの残り、カロリーメイトくらいしか入っていなかった。
標高1000メートルにも届かない比較的低山な部類の山登りだったので、軽装備できたことが災いした。それは宇和木も同様だったようで、床に広がる僅かな食料を見て気まずい沈黙がしばらく流れる。吹き荒ぶ吹雪の勢いは落ち着く様子はなく、沈黙と共に満ちていく閉塞感に皆の顔色は悪くなる一方だった。
かける言葉が見つからず、俺は黙って目の前に小さく広がる食料を4等分に分けようと手を伸ばした時だった。俺の手を宇和木が強く弾く。
「怪我人の俺が最優先だっつってんだろ。俺が先だ」
宇和木は血走った目で目の前の食料のほとんど、とはいえ成人男性1食分にも満たない量だったが、半ば奪うようにして両手で囲っていこうとする。それは飢えた獣のような殺気を孕んでおり、隼人と美水ちゃんは何も言えずに口をつぐんでいた。俺は宇和木の両手首を強く掴み上げた。
「いい加減その自己中な態度を改めろ。俺たちは2年なんだから、1年を優先させてあげるのが先輩としての務めだろ。怪我までして俺たちにここまで迷惑をかけた挙句、まだ足を引っ張ろうっていうのかお前は」
これまで堰き止めていた不満が怒りと共に漏れ出していく。俺の反抗に宇和木はみるみるうちに顔を紅潮させていく。
「足を引っ張るだぁ?誰もここまで連れてってくれだなんて頼んでねぇよ!それに先輩を敬うのが後輩のこいつらの務めだろうが。何カッコつけてんだよ。こんな状況で平等もへったくれも…………はぁ~なるほど」
宇和木の顔が怒りから下卑た笑みへと変貌していく。それは嫌らしい企みや疑いをかけるときの悪人そのもので、俺は内心で引っかかっている恐れに身構える。そしてその恐れは的中した。
「お前、俺に彼女を寝取られたことまだ根に持ってんだろ?いい加減諦めろよ。恋愛なんて弱肉強食なんだからさ。お前は俺に負けたの。顔も男らしさも全て。そういや今彼女いないんだっけか?なーるほどねぇ。やっぱそういうことだよな」
宇和木は下卑た笑みを湛えたまま、美水ちゃんををねめつける。舌を這わせるように身体をじっとりと見て再び口を開く。美水ちゃんは自分を守るように両手で身体を抱きながら下を向く。
「美水ちゃん可愛いもんなぁ。コミュ障っぽくて守りたくなる感じつーの?ガイドブックばっか見てたり急に数字数えだしたり、なんか気味悪い所もあるけど、陰キャっぽくて逆にそれがいい的な?分かるわー。胸も大きいしそそられるよなぁ」
言葉と共にゆっくりと彼女へ伸ばされる薄汚い両手。俺は急激に込み上げる怒りと気持ち悪さで脳がフリーズしていたが、隣の隼人がそれを軽く弾いた。瞬間、彼の左頬に強烈な拳が叩き込まれる。殴り飛ばされて床を転がる衝撃音と痛みに悶える声で俺はハッと我に返る。
「お前この状況で気が狂ったのかよ!食料も大してない上に天候が良くなる兆しもないんだから余計な体力を使わせんじゃねえよ!」
喉がカラカラになるくらいに怒鳴り声をあげたが、宇和木は見下した目をこちらに向けながら鼻で笑う。
「気が狂ってんのはお前の方だろ?こんな死の瀬戸際の状況の中なのに発情して女に先輩アピールとか気持ち悪くて仕方ねぇ。俺みたいに堂々と自分に素直になれないからお前は女を寝取られるんだよ」
彼の吐き捨てた言葉を聞いて俺は唖然とした。先ほどまで怒りで熱く滾っていた身体が急激に冷えていく。普通の人間であれば学ばずとも持ち合わせている倫理が崩壊し、常識として堅く繋ぎ留められていた何かがぷっつりと切れてしまったような、半ば諦観に近い感覚。
俺は黙ったまま奥の小さなキッチンへと向かいながら、横に転がる隼人と彼に寄り添う美水ちゃんに声をかける。
「2人ともー、しばらく目と耳閉じてろー」
向かった先のキッチン横に立てかけてある大きなショベルを手に取った。雪山用の金属製スノーショベルで、トップの先は鋭利になっていて地面に突き刺さりやすい形状になっていた。スノーショベルを持つ俺を隼人と美水ちゃんが不可解な目で見ていたので、俺は至って冷静に2度目の注意を促した。
「お前らー、俺がいいと言うまで両目両耳しっかり閉じてろよー」
ショベルを持って床に座る宇和木に近づく。俺がショベルを目の前で振り上げる直後になってようやく自身に迫る危機に気づいたようだったが、ガードをする暇は与えなかった。躊躇せずにショベルを彼の頭に振り下ろす。
金属がぶつかる鈍い音がとともに、彼の頭が床に強く打ち付けられた。床に顎から叩きつけられたせいか、切れた口内からも血が垂れている。強烈な殴打に頭を抱えて悶えていたので、俺は頭部を狙わず、負傷した右足ふくらはぎにショベルの鋭利な先端を突き刺した。
血の混じった唾液を吐き散らしながら獣のように悶える彼の表情を見て俺はホッと息をついた。
「よかったよかった。これでちゃんと冷静に話し合えそうだ。だが今回は登山経験者である宇和木と俺の2人だけで話し合いたいからな。一旦席を外して外で話そうか。いいよな、宇和木?」
宇和木は血で真っ赤になった右足のふくらはぎを抑えて歯を食いしばっていた。俺の質問に返答をしてくれなかったので、彼の髪を掴み上げて無理やりこちらを向かせて再度問いかけた。
「2人で外で話したいことがある。今から行けるよな?」
口内中を血まみれにしながら、うん、うんと何度も頷いてくれた。隼人と美水は耳を塞ぎながら後ろを向いていて、こちらの様子には気づいていないようだ。宇和木も、隼人も美水ちゃんも、素直になってくれたようで安心した。危機的状況の中だからこそ、お互いを尊重し、そして時には自分に素直になる。そうして絆は深まり危機的状況を脱することができるといえよう。
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