幽世の国のアリス

ポッポさん

 目が眩むほどに視界いっぱいに広がる光の海。

 洪水のように絶え間なく流れるパチパチという拍手のような音。

 ここはステージの上だろうか。スポットライトと観客のファンファーレを浴びているのか。

 光の海で何も見えない僕に、それを確かめる術はない。


 そんな夢を毎晩のように見ているが、俺がステージ上に上がったことなど、小さい頃に習い事でやっていたピアノの演奏会くらいで、観客からファンファーレを浴びるほどの結果を出した記憶はない。


 30年以上経った今、軽やかなピアノの旋律を奏でていたかつての細い指先と綺麗に切り揃えられた爪はすでに様変わりした。ソーセージのように肉肉しい指。品出し仕事で汚れた爪。さながら豚の蹄とでもいえよう。そんな太い腕と指を重たげに動かしながら、バックヤードの在庫の飲料を冷ケースに補充していく。駅前にある、縦横約30平米のこの小さな箱で週5日勤務するというのが僕の変わらぬ日常だ。


 そんな冴えない日常の中で1つだけ楽しみがある。

 ポッポさんだ。

 

 ポッポさんは毎晩21時くらいの時間帯に会社帰りに買い物に来る若いOLさんだ。新卒入社したてくらい若々しく来ているタイトなスーツも新品のような真新しさを感じる。小柄ではあったけど、その小さな身体で日々頑張っているんだろうなと想像すると、不思議とパワーがもらえ、彼女の姿を見るのが楽しみになった。


 彼女の本名は知らないが、電子マネー決済の時に掲げるスマホに、パチットモンスター略してパチモンのポッポという鳩のキャラのキーホルダーを付けているのを発見したので、ポッポさんとあだ名をつけた。僕の心の中で。


 何もない灰色な僕の日常に差された一滴のピンクが、僅かばかりの彩りを与えてくれたのだ。そんな彼女は毎晩21時以降に来店するところから、毎日残業をしているであろうことが伺えた。


 春先に初めて会ってから数か月、疲労やストレスで、ポッポさんの表情は少しずつ陰りが差していく様子に、何かできることはないかと日々悶々としていた。


 その日もポッポさんは夜の21時半頃に来店され、総菜コーナーをうろうろしていた。そして買い物を終えたのかレジに向かってきた。夕方勤務のレジは2名体制で、もう1人のグエン君というベトナム人留学生は別のお客さんのレジ対応で忙しそうだ。


 レジにやってきたポッポさんの表情はやっぱり疲れ切ったような顔をしていた。レジをしようと持ってきたカゴに視線を落とし、一点ずつスキャンしていく。カゴに入っていたのは、カップラーメンとおにぎり2つ、そして発泡酒1缶。


 バランスの悪い手軽な夕食な所から、恐らく実家通いではない。就職を機にこちらに単身で引っ越してきたのだろうということが推察できた。実家住まいの僕には彼女の苦労は想像できない。だから、知った風なアドバイスやら励ましは返って逆効果だ。第一、レジをしている最中に長話などできる時間もない。


 だからと、僕はレジ下に置いておいた、紙パックの野菜ジュースを震える手で取り出す。


「あ、あの……。いつも、買い物ありがとうございます」


「え?あの、これはどういう……?」


 当然の反応だった。僕は事前準備していた想定問答をテンパりながらも思い出しながら口にする。


「ウチのバイトが発注ミスで大量に注文してしまった商品です。責任取って、発注した子が買い取って社内に無料で配ってくれました。いつも買い物に来ているお客さんにもサービスで配ってます。よければどうぞ」


 暗記文を間違えずに発声することのみに意識が囚われていたせいで、どこか機械じみたセリフになってしまった。野菜ジュース以上に僕の機械音声に驚いたのか、ポッポさんは口を半開きにしたまま止まり、やがて、我慢できずに吹き出した。


 彼女の急変ぶりに今度は僕が口をぽかんと開けて立ち尽くした。


「野菜ジュース、お嫌いでしたか?」


 なんとかひねり出した言葉に、ポッポさんは目じりに溜めた涙を拭いつつ答える。


「いえ、野菜ジュース大好きです。ありがとうございます」


 僕の言い方や挙動のおかしさにウケたのは少々恥ずかしかったが、喜んでくれた彼女の笑顔は陽光のように眩しかった。渡せてよかったと思う。


 浮かれて舞い上がる気分に水を差すように、舌打ちする音がレジ待ちの列から聞こえた。ハッとしたポッポさんは、慌ててスマホをレジにかざして電子マネー決済をしようとしたが不幸なことに残高不足を告げるアラームが鳴った。


「……す、すいません。現金にします」


 ポッポさんはスマホをレジに一旦置いて、バックから急いで財布を取り出す。

 

 舌打ちを続けるレジ待ちの爺さんを僕はけん制するように睨みつけながら、


「あ、あわてなくて、大丈夫です。ゆっくり。お、落ち着いて」


 励ます僕の言葉はたどたどしかったが、ポッポさんは感謝の意を小さな笑みで返してくれた。これまでで初めて彼女と目が合って話せた幸せな時間だった。


 1つの細い糸が繋がったような感覚に心臓がざわめく。

 しかし、それはいつ切れてもおかしくないくらいの細い糸。


 会計を終えたポッポさんは慌ててお店を出て行ってしまった。レジから立ち去る直前にこちらに向けてくれた軽い会釈に、僕は手を軽く振ってしまった。年下の女の子でもお客さんはお客さん。会釈を返そうと佇まいを直すころには、お店からすでに立ち去っていた。


 はぁ、と大きくため息をついた。

 年上としてかけるべき言葉や立ち振舞いが反射的にできないのはあらゆる経験不足なのだろうなと実感する。ただ、その不器用さを認めてくれたような気がして、また彼女の笑顔が見たいと思ってしまった。


 劣等感と興奮が入り混じる感情の高ぶりを落ち着かせようとレジ前に向き直ると、レジにスマホが置きっぱなしになっていた。鳩パチモンのキーホルダーをつけたスマホ。ポッポさんのスマホだ。


 ポッポさんには申し訳ないがラッキーと思ってしまった。


「お客さんが忘れ物しちゃったから!急いで渡しに行くから!一旦ここ空けるから!」


 同じくレジ業務につきっきりになっているグエン君に要件を伝えた。


 ベトナム人留学生の彼はまだ日本語が拙いところがあるので、文節ごとに区切って端的に伝えたつもりだったが、彼は分かっているのかいないのか、ただポカンと口を開けている。

店から出る直前、グエン君が発した叫び声を背中に浴びながら逃げるように店を出て行った。


「チョットマテヨ!ニゲテンジヤネエヨ!!フザケンナヨ!!」

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