振袖火事の怪異
浅草諏訪町の大増屋十右兵衛の一人娘であるお菊は、上野の花見へ行った帰りに、寺小姓の美少年に一目惚れをしてしまった。寺小姓に想いを募らせるお菊はせめてもの慰めにと、かの美少年が着ていたのと同じ模様の振袖を作ることにした。それでも想いはつのるばかりで、ついには病に臥せ、恋しい相手に会うこともできず、明暦元年1月16日、16歳の若さでこの世を去ってしまった。娘の気持ちを憐れんだ両親は、お菊の棺に振袖をかけて、本郷丸山の本妙寺に葬った。35日の法事が済むと、住職はお菊の振袖をこっそり奪い、古着屋に売ってしまった。こうして転売された振袖は、持ち主を変えながら次々と不幸を運んでいくことになる。
死んだお菊の振袖を最初に手に入れたのは、本郷元町の麹屋吉兵衛の娘、お花だった。お花は、古着屋で見つけたこの振袖に心を引かれて両親に買ってもらったのだ。しかし翌年、突如病死する。お花の葬式は本妙寺で執り行われ、これまた振袖が寺に納められた。法事が終わり、振袖は再び古着屋の手を経て、今度は中橋の質屋伊勢谷五兵衛の娘にわたるのだが、彼女も2人の娘と同じく突如病死してしまった。
どうもこの振袖はおかしい。
振袖によってもたらされる不思議な因縁に恐ろしくなった住職は、供養をして振袖を焼き払うことにした。
明暦3(1657)年1月18日、和尚が読経しながら振袖を火に投じると、突如として一陣の強風が吹き荒れた。すると、火のついた振袖は火の粉を散らしながら舞い上がり、本堂はあっというまに火柱になってしまったという。火はどんどん広がっていき、江戸の市内をも燃やし尽くしたという。
「片想い、持ち主への不幸、火事、これって、イースターエッグに宿る怪異が起こした現象と共通してる。でも、その振袖は一応ちゃんとお焚き上げされたんだから、お菊さんの幽霊はもう成仏されたんじゃないの?」
「恐らくだけど、振袖に憑いたお菊さんの幽霊はすでに振袖から離れて怪異に変質していて、呪いへと昇華しているというのが私の私見ね。振袖そのものではなく、恋が叶わなかった者の大事な所有物を掠め取って我が物とする新しい所有者へ、不幸をもたらすという現象。本来の所有者に戻らない限り、呪いは新たな所有者に不幸をもたらし続ける。振袖そのものがなくなっても、怪異のみが現象として残り続けているということ。そして不幸にもその怪異が今回宿ってしまったのが、このイースターエッグということかしらね」
「ちょっと待って。それだと、このエッグを仮にお焚き上げしても、怪異はなくならないじゃない!」
夕闇さんは、過去の実際に起こった事件と現在起こっている事件の共通項を見つけ出し、分析し、淡々と語る。それは探偵のように至って冷静に。それは自分が当事者ではありませんという顔をしているようで無性に腹が立った。いや、確かに彼女は当事者ではないのだ。わざわざ危険を冒してまでウチに来る必要もなかったのだから。
「お焚き上げしても怪異自体はなくならないけど、少なくともこのエッグからは去っていくわ。この不幸のバケツリレーもとりあえずは終止符を打てるはずよ」
「大体、こんな理不尽な目に遭ってさ、不幸の一言で終わらせられたらたまったもんじゃないよ。何世紀にも渡って残り続けた怪異か何か知らないけどさ。たまたま運悪くバッタリ出くわすなんて天災に遭うのと同じようなもんじゃん。届かぬ恋なんて星の数ほどあるのになんで私なの!雲雀だって別に大して好きでもなかったしさ!友達ともわだかまりができたりでもう疲れた!」
こんなの八つ当たりに等しい。
それは分かっている。
でも言葉が溢れて止まらなかった。
溢れ出る涙と鼻水を拭うことすら忘れてとにかく捲し立てる。
「振袖の話だって、シンプルな話、片想いが叶わなかったって話でしょ?そんな――――」
「理不尽って、一体どちらが?」
両目から流れ続ける滝を一刀両断するように彼女の言葉は堰き止めた。私は、刀を突きつけられたのかと錯覚するほどの冷たさを彼女から感じ、喉に言葉を詰まらせる。質問の意図が分からず返答に困り、沈黙が流れる。
「怪異とあなた達生者の、どちらが理不尽に遭っているということなのかしら?」
怒っているわけではなく、ただ疑問を口にしただけのような様子だった。
虫が背中を這いまわるような気持ち悪さと得体のしれないものを前にした不気味さを感じる。
「怪異が悪さをしているのではなく、怪異の領域にあなた達が自ら誘われてしまった。踏み込んでしまった。そう捉えるなら、理不尽を感じているあなたの判断力は、思慮に欠けているといわざるをえないわね」
目の前の彼女は何者なのだろうか。私はどうして急にそんな心境に陥ったのかと自問して、すぐに理解した。
彼女は、生者にも死者にも平等なのだ。両者に対する境界線が非常に薄い。
怪異と人間に対して平等な視線で俯瞰し、等しい距離間で歩いている。
普通の人間は、怪異の存在を仮に認知しても尊重はしない。それは人間ではなく、厄災をもたらす危険物に他ならないから。でも、彼女は、人間も怪異も等しく存在しているものと定義しているのだろう。
私はそんな考え方は理解できないし、する必要もない。でもまっすぐに私を見つめる彼女の紅い瞳と目を合わせることができずに逸らしてしまう。
「…………亡くなった人間が生きてる人間の足を引っ張ってるってことでしょ」
負け惜しみのようにぼそっと呟いて夕闇さんから目を背けたその時、不意に焦げ臭さが鼻を突いた。まさか、と向き直ると、目の前の夕闇さんの右の袖口がいつの間にか燃え始めていた事にギョッとする。
「ゆ、夕闇さんッ!腕!右の腕に!火がッ!!」
気づいていないというか、熱さを感じていないのか、夕闇さんは私のただならぬ様子に困惑しながら右の袖口を見るが……
「……………………。右腕が、なんですって?」
夕闇さんは首を傾げるだけで右袖についた火を払う様子は全くない。台所行って急いで水汲んで消化しないと!
台所に行こうと立ち上がる私の腕を、夕闇さんが左手で掴む。
「何をそんな焦っているのかしら?落ち着いて話を聞かせてちょうだいな」
冷静というよりはのんびりという表現が似つかわしい彼女の左手を私は思い切り振り払う。話をしている暇なんてあるか!そう撥ねつける時間さえ惜しいわ!
彼女の右腕の炎は肩まで浸食し、肌や髪の毛をチリチリと焦がす。顔の右半分も徐々に黒く炭化していき、まだ燃え移っていない左半分の美しい白肌と合わさって不気味なコントラストを作り出している。その対照的な造形は人体模型を彷彿とさせ、喉の奥からヒッと声が出る。
彼女は夕闇さんではなかった。夕闇さんに化けた怪異だった。そう思わざるをえないほど、炎が彼女を浸食し、燃え上がる炎の熱は私の身体も撫でる。白黒の人体模型となった彼女が私の肩を掴むが、私は恐怖で振り払うことができない。終わったと思った。目の前の光景を直視しないようにと目を瞑ったその時、右の頬に強い衝撃が走る。
パチッと、頬を手で強く叩かれたのだ。
軽くよろけたがすぐに体勢を戻し、恐る恐る白黒の人体模型に視線を這わせると、そこに白黒の人体模型はいなかった。病的なほどに真っ白な美しい肌と綺麗に手入れされた黒髪、鮮やかな紅い目を持つ夕闇さんが、怪訝な顔で私を見つめていた。
「幻覚を視たのね」
幻覚……、そうか、あの時と同じ。本物の火ではなかったのか。
ホッと胸を撫でおろす。
「一緒に外に出てもらってもいいかしら。すぐ済むわ」
夕闇さんからの唐突の提案に返事を一瞬ためらったが、家の中も外ももう危険度は変わらないだろうと思い、コートを着て自宅前の路上に出ていく。
これを飲みなさいと、夕闇さんから小さな紙の包みを渡され、深く考えずに中の粉?状の何かを飲み込んだ。
「…………、しょっぱっ!何これ?」
「お清めの塩よ。あとこの塩を使って足元に盛り塩をしなさい」
夕闇さんはポケットから塩の入ったプチ袋を取り出し、私はそれを手にして足元に盛り塩を作った。夕闇さんはポケットから新たに取り出したプチ袋の塩を私にかける。
「その盛り塩を両足で交互に踏みつけて崩してちょうだい」
両足で交互に踏みつける。
「少し離れて、自分が立っていた場所に塩を巻いて」
彼女は再び塩の入ったプチ袋をポケットから取り出し、渡してくれた。塩の行商人か。私は言われた通り塩を巻くと、彼女とともに自室に戻った。
「変なこと聞くけど、この塩って市販の食塩?」
「ネットで購入した粗塩よ。お清めで使う塩はなるべく天然に近い塩が良いと言われているの。食塩は精製塩といってある程度加工が施されたナトリウムの固まりだけど、粗塩は精製塩と違って天然により近いものよ。ミネラルも豊富、今ので多少身体が丈夫になったんじゃないかしら?」
なるわけないわ!と突っ込む程度には落ち着きを取り戻してきた。
「相手は怪異だからあまり効果はないかもしれないけど、気休めくらいにはなるでしょう」
彼女が言った通り、一時の気休め程度で効果はなかったらしく、あれからまた何度も怪異が幻覚として現れ、そのたびに彼女の強烈な平手打ちで目が覚めるというのを繰り返した。気づいたらいつの間にか私は寝ていたが、彼女はずっと起きて朝まで私を見守ってくれていたようで、目の周りにクマが出来ていた。白い肌と相まって幽霊と見間違えるほどにホラー的なビジュアルになっていたことは口には出さなかった。
起きた直後、何度も殴られた左頬に痛みが残っていたが、その痛みの反復が彼女の助けと優しさでできていると思うと心が温かくなる。そしてこの痛みはそもそも私の邪念が引き起こした事態。夕闇さん達はその尻拭いをしているようなものだ。
――――私はこのままでいいのか。
彼女達に守ってもらい、お焚き上げしてもらい、最後の最後まで彼女達に解決してもらう。私は自分のした行いに対して何もケジメをつけないまま、他人に面倒事を押し付けて何食わぬ顔をする。雲雀が私に向けた顔と今の私の顔は全く同じ顔をしているのだろう。
――――私はこのままでいいのか。
「今日は午前中にエッグを神社に持って行ってお焚き上げしてもらう。これにて一件落着。なんだかあっさり終わっちゃうわね。まぁこれはこれでってことで――――」
「私、やっぱり違うと思う」
気が付いたら、夕闇さんの言葉を遮るように呟いていた。
「違うって?」
考えるより先に言葉が先行する。大人しく夕闇さんの言われた通りに事を済ませれば、今日で全てが終わるというのに、自分の中のモヤモヤをそのままにせず、白黒はっきりさせたいというこの気持ちは道徳的な義務感からなのか、それとも私なりの矜持なのか。
「このままお焚き上げ供養して終わらせるのは、なんだかすっきりしないってこと。私の行いが原因で起こした事件だから、ちゃんと向き合わないといけないと思う」
「鷹野君に言われたことを気にしているのかしら?心意気は立派だと思うけれど、このまま呪いのエッグは燃やしてしまった方が早く片付くし、あなたにとってもベストな選択よ。それに、他に何かいい解決策があるの?」
夕闇さんに問われた私は、咄嗟に考えた1つのアイディアを口にした。それはとても不器用で合理的とはいえない解決方法。
それは――――――――。
「なるほどね。分かった。それなら神社でのお焚き上げはキャンセルしておくわね。あと、その策を実行に移すには1人役者となる男の子が必要ね。こちらで用意しておくわ」
「ありがとう。面倒な仕事を増やしてごめんなさい」
「気にしないで。あなたのそのはっきりした性格、合理性に欠けるところはあるけれど、私はけっこう好きよ。筋を通すことはいいことだけれど、それが裏目に出ないことを祈っているわ」
「不条理が連続したまま強制的に終わらせるのって、怪異、いやお菊さんとしても不愉快だろうし、綺麗にさっぱり終わらせることが彼女にとっても気持ちの良いことだと私は思う」
他人の盗んだものでこういうことを言うのも変な話だが、雲雀に渡したエッグが転売された時に感じた屈辱感の何倍もの感情がその怪異の中で幾度も渦巻き、それが終わらず延々と繰り返されてきたことにゾッとしたのだ。せめて私が発端となって起きた今回の事件は、正しく終わらせようと思った。
私の考えを聞いた夕闇さんは、急にハッとして数秒間静止する。かと思うと、表情を崩して優しげな笑みで頷いた。
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