終幕

 目を覚ますと、病室の一室のベッドに横たわっていた。

 どれくらい寝ていただろうか。ぼやけた視界と眠気を取り除くように両目を擦ると、ベッド脇の椅子に女性が座り、本を読んでいた。


 長い黒髪に夕焼けのような鮮やかな紅色の瞳、病的なほどに白い肌をしたその女性は、夕闇鴉さんだった。彼女が手にしている本は江戸怪異物語というタイトルで、ホラー系が趣味なのかなとぼんやり考えていると、夕闇さんは俺が目覚めたことに気づいた。


「目が覚めたみたいね。怪我は骨折と打撲、擦り傷程度らしいわ。よかったわね」


 夕闇さんは読んでいた本を閉じて静かに笑った。


 果たして不幸中の幸いといえるだろうか。黒い木に引き裂かれて殺されるよりも、むしろ車に轢かれてあのまま死んでしまったほうが楽だったなのではないか。

淡い絶望の機会を逸してしまったように思えて落胆しかけたが、轢かれた時の記憶がフラッシュバックする。


 車に轢かれた俺に群がる人間達とカメラのシャッター音。

 そして、遠のいていく黒い木。

 黒のマウンテンパーカーを羽織った紅色の瞳の女性。紅色の瞳を持つ女性なんてそうそういない。


「あの時背中を突き飛ばしたの、夕闇さんですよね。どうしてそんなことを?」


 怒りはない。どうせ死んでしまう命だったから。純粋な疑問だった。

 何故彼女はいずれ死ぬ自分に追い打ちをかけるような危険な行為をに及んだのか、疑問を投げかける。


「あれが私の考えた救済手段だったのよ。賭けだったし高いリスクではあったけどね」


 夕闇さんは疲れたと言わんばかりにため息をついた。


「俺は助かったんでしょうか」


「丸2日も寝ていても現在進行形で問題なく生きているんだから、助かったといえるでしょう。」


「丸2日!?」


 予想外の返答にぎょっとする。


「そうよ。本来ならばあなたは車に轢かれて意識を失った時点で、黒い木に切り裂かれて殺されているわ。まぁ正確に言うと、”覗き穴の向こう側のモノ”にね」


「それが怪異ですか?」


「そうよ。それは生前、無実の罪で捕まり、刑場で打ち首にされ、その首は庶民への見せしめとして3日間獄門台の上で晒されたそうよ。街道を行き交う人々の好奇の目に晒され続けた彼らは怨霊となり、長い時間とともに霊体が消失した後も、怪異という現象のみが残った。生物の死体を好奇に眺める人間を、時間をかけて斬り殺すという現象がね」


「どうして俺は助かったんでしょうか」


「車に轢かれたあなたに興味を引かれた人々、彼らの内の誰かに対象が移ったおかげであなたは助かったのよ」


「……なる、ほど」


 受け止める現実としてやや話が重すぎて、所在なさげに目を窓辺に逸らした。自分じゃない誰かの目の前には今頃、黒い木が現れ、寝ている最中に身体を引き裂かれているという代理の犠牲の上に自分の生が成り立っている現実に。


 そして、俺が酷く罵った彼女は、かなりのリスクを冒して自分を助けてくれたという現実に。


 窓辺には雲一つない青空と、中庭を囲む枯れた木々が佇んでいた。軋むような痛みを気にせず身体を起こし、俺は夕闇さんに向き直り、頭を下げた。


「ご迷惑をおかけしてすいませんでした。それと、俺を助けてくれて本当にありがとうございました」


 すっきりした顔で感謝の意を示す俺に、夕闇さんは眉一つ動かさず、けろりとした顔で手を差し出す。


 握手を求めているのだろうと俺も一瞬右手を動かすが、思い出したようにハッとして、口の端をニヤリと曲げる。


「これ、ですね」


 ポケットにしまっていたくしゃくしゃの茶封筒を、夕闇さんに差し出した。


「毎度ありがとうございました」

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