深淵を覗く者

 夢のような1日を終えた次の日、目を覚ますと、そこが自室ではなく、病室だったことを理解するのに時間を要した。大部屋なのだろうか、白いカーテンで周囲を仕切られていたが、カーテンの向こう側で同室の人間の話し声が聞こえてくる。カーテンを開けて窓越しから外の景色を眺めると、どんよりと厚い雲に空は覆われ、全体的に薄暗い。


 身体を起こした際、今まで感じたことのないくらいの鋭い痛みが上半身に走り、腕と胸が包帯で覆われているところから、今の自分の状況をなんとなく察した。


 つまり、ダメだったのだ。魔除けの花の効果はなく、腕のかすり傷どころではないレベルの深さにまで傷が達していたということだった。起きた直後なのに視界が眩む。


 絶望は刻一刻と進行してすぐ目の前まで来ているのだ。


 間もなく、採血やら検温のために巡回に来た看護師が目覚めた俺に気づいて担当の医師を呼び、今までの経緯と傷の具合について説明された。今朝、母さんが、目覚めの遅い俺を呼びに部屋に入り、ベッド中を血まみれにして寝ている俺に気づいて、救急車を呼んだこと、腕から胸にかけて大きな切り傷を負っているが、何針か縫った程度で大事には至っていないこと、傷口が塞がり次第、数日で退院できるということだった。


 その後、1時間ほどして病室に駆けつけてくれた母さんは、俺が自殺をしようとしたと勘違いしているのか、学校には無理に行かなくていい、勉強も嫌ならやらなくていい、心と身体が落ち着くまで家でのんびりしてていいなど、熱心に説得してくれた。


 自殺するつもりはないから安心してと、泣きながら話す母さんをなだめたが、今まで言わずに黙って耐えてきた恐怖感を抑えきれなくなった分の反動がきたのか、説明する俺の声が嗚咽を伴うものに変わっていき、とうとう崩れてしまった。


 夜道に後ろから何かがついてくる、説明に困った俺は、簡潔にそう話した。怪異にまつわる事を話したら、今度は精神病院に搬送されてしまうだろうことは、危機的状況に陥って冷静じゃない今の俺にも容易に想像できる。


 病院の面会時間が近づいてきたため、母さんは果物や飲み物、着替えやスマホなどの荷物を置いていき、病室を後にした。入れ替わるように警察が事情聴取に来て、俺は母さんに話したことと同様の説明をした。


 切り傷のつき方から、自傷ではなく他者による傷害と推定できること、家の鍵は施錠されているところや窃盗されているものがないことから、家族内部の犯行の可能性を視野に入れていたことを男性の警察官が真顔で話していたので、俺は思わず吹き出しそうになった。


 いや、今の俺の状況の方こそ、警察からしたら笑っちゃうようなおかしな出来事だろう。   

 黒い木は、次はこれよりももっと深く切り裂いてくるのだろう。背筋が凍り付く。次こそ命の危険に関わる程のものだということに、呼吸が止まりそうになる。


顔面蒼白になる俺の様子に何かを感じ取ったのか、警察官は俺の背中を優しく撫でながら、自宅周辺のパトロールを強化しますだの自室にも鍵をかけろだの怪我の具合は大丈夫だの病院内は安全だのなんの気休めにも効果にもならないどうでもいいことを長々と話す念仏以下の内容は、右から左に流れていき、目の前の視界は溶けたラテアートのように滲みぼやけてあやふやになっていく。


 いつの間にか警察がいなくなったことにも気づかず、俺は放心していた。


 病室の時計の針が指し示すは夜の8時。そうか、俺はあと数時間で死ぬのか。


 どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。


 空っぽになった俺の頭は、”どうしよう”という恐怖のこだまで渋滞して思考が止まる。

錯乱しかけている俺は、毎日の沁みついた習慣でスマホの画面をなんとなく開くと、1件の着信が入っていたことに気づいた。


 "夕闇鴉 1件の不在着信”


あっ――――――――


 彼女の魔除け対策が失敗に終わってしまったが、縋れるのは夕闇鴉さんただ1人。

 震える指が勝手に動く。

 スマホに出てきた着信中の画面は、蜘蛛の糸を思わせるような、今にも切れそうな程にか細い希望の糸口。画面の向こう側の人間の気まぐれですっぱりと切れてしまう蜘蛛の糸を縋るように手繰った。


『―――もしもし、鷹野君?』


「……夕闇、さん?」


 夕闇さんの声を聞いた瞬間、決壊したように涙がぼろぼろとこぼれてきた。流れ落ちる涙と鼻水を腕で拭うが、拭っても拭いきれず、諦めてそのまま電話を続ける。


「今、病院にいます。魔除けの花はダメだったみたいで、酷い傷を受けて入院しています。たぶん……次は殺されるかもしれません。あの、俺はこれから、どうすればいいですか?」


『残念だけど、打つ手はもうないわ』


「……………………は、い?」


 夕闇さんははっきりと、冷たく言い放った。

 その言葉は、まるで死刑宣告のように無感情で、事務的で、冷徹で。

 スマホ越しに話す相手方は、果たして夕闇鴉本人なのかと疑うほどの声色だった。


『あなたの見た黒い木というのは、おそらく現世と幽世を結ぶ小さな”覗き穴”なのだわ』


「……の、ぞき、あな?……そんなの、本当に、あるんですか?」


『陰悪の気が集まり、百鬼が出入りすると言われる鬼門に近い存在なのだけど、鬼門よりもずっと小さい穴で、鬼が通り抜けるだけの大きさはないみたいね』


 鬼門というのは聞いたことがある。不吉とされる方角で、住宅でいう台所やトイレといった水回り、玄関を配置していると、家の中に悪いことが起きるとされている。ただ、あくまで古来からの思想的なもので、本当に鬼が出入りするなんて聞いたことがないし、ましてや”覗き穴”なるものはもっとない。


『私も見たことはないわ。そもそも現世と幽世を通じる境目なんて本来見ることができるはずないのよ。…………自分から何度も覗こうとしない限りはね』


「俺が、あの世を覗く……?そんなこと、できるわけないじゃないですか。ただ普通に平凡な学校生活を過ごしてるだけなのに。あの世を覗き見るなんて霊媒師じみたことできるわけないですよ」


『…………、果たしてそれは本当かしら?』


――――――――え?


『覗き穴を覗くというのは、幽世を覗くということ。幽世を覗くというのは、生物の死を覗き見るということ。死に対して旺盛な好奇心を持って覗き見るという行為は、”向こう側のモノ”にも見られているの。深淵を覗く者はなんとやらってね。深夜の散歩中、車に轢かれて死んでしまったネズミを覗いたあなたは、運悪く、"覗き穴の向こう側のモノ”に魅入られ、出遭ってしまった』


「そんなことって……。それ、本当なんですか?そんなことで殺されるんだったら、あちこちで死人だらけになるじゃないですか。話としておかしくないですか?」


『出遭いさえしなければ何事も起きなかったでしょうね。それに、生物の死に対して”好奇心”を持って観察するなんてことさえしなければ』


「別に好奇心なんて持ってません」


『怪異というのは、無作為に相手を殺戮していくシリアルキラーではないのよ。怪異も元は幽霊、そして元は人間。現世に強い未練を残した幽霊が時間とともに形をなくし、最期の最期に現象のみが残った想いの残滓。それは想いに即した原理や原則に従って対象を捉え、幽世に誘うものなのよ。あなた、普段からああいう一面があるでしょう。きっと自覚がないだけでこれまで何度もそういう行為をしてきたんじゃないかしら。怪異からしてみれば、覗き穴を通して悪戯に幽世を覗き見るあなたこそ醜悪な存在と捉えているでしょうね』


 まるで犯罪者呼ばわりされているようだった。あろうことか相談者の俺ではなく、怪異の味方になって他人事のように俺を揶揄する彼女の言葉に脳が沸騰する。


「な、なにを言って…………。ふざけるなよ。あんたなんかに頼むんじゃなかった。心配するフリして本当は他人の不幸を間近で確認してほくそ笑みたかっただけでしょう。他人の不幸は蜜の味だもんな。詐欺師のあんたに渡した三千円を返してほしいくらいだ――」


『そう言われると思って、病室のベッド脇に置いといたわ。逆恨みされるのは御免だしね』


 夕闇さんの発言の真偽を確かめるため、通話を切らずにベッドに戻ると、確かに茶封筒がベッド脇の小さなテーブルに置かれていた。中に三千円が入っていた。


 俺は、封筒をくしゃくしゃに握りしめ、びりびりに破き捨てようとして、でも、手が止まり、ポケットに突っ込んだ。胸につかえた罵詈雑言の言葉の数々は涙まじりの嗚咽に溶けて、ベッドに突っ伏して動けなくなった。


『その三千円で、もう何ができるというわけではないと思うけれど。それじゃあね』


 通話はそこで途絶えた。


 夜、病院内は静まり返っていた。

 

 命を刈り取る死神は、足音一つ残さないのだろうか、降りしきる雨音と、時計の針が進む音だけが静謐な空間で響き渡っている。深夜0時を回ったが、俺の心臓はまだ鼓動を刻み、死神が近づいてくる様子はない。


 1秒1秒がひどく長く感じる。1秒先にはカーテン越しに黒い木が姿を現しているんじゃないか、1秒先には身体から真っ赤な鮮血がしぶきを上げているんじゃないか。恐怖が少しずつ精神を摩耗していく中、これまでの自分の行いについて振り返ってみた。


 深夜の散歩中、ネズミが死んだ。リアルな生物の死に触れることが、確かに俺は面白いと感じた。でも自分が殺したわけじゃない。毎年、いや毎日、世界では絶え間なく殺人や殺傷が起こり、何千、何万という生物の命が失われていく中で、俺はただ遠巻きに観察していただけなのだ。


 夕闇さんは言っていた。”出遭ってしまった”と。


 覗き穴を覗こうとする幾千幾万もの人間達の中で、俺が、たまたま運悪く出遭ってしまった。宝くじが当たるよりも、落雷に直撃するよりも確率の低い出来事に見事的中してしまったわけか。


――――――――ハハッ。


 乾いた笑い声が聞こえた。それは俺の喉奥から自然に出てきたものだった。

 一生に一度巡り会うかどうかというレベルの不幸に見舞われたのだ。


 怪異というのは特定の原理原則に基づき、対象を捉えて、幽世に誘う。幽世というのはあの世のことだろうことは素人の俺でも察しがつく。覗き穴を覗いた俺に照準を合わせ、寝ている間に刑を執行する。


 悪戯に死を覗き見る罪深き人間を、断罪する。

 寝なければ、やり過ごすことができるのか。

 どうだろうか、ただ長続きする手段ではないだろう。

 でも、一日でも長く、生きたい。死にたくない。


――――――――ハハッ。


 再び笑い声が聞こえた。


 なんとか生きようと、惨めに足掻こうとする俺を嘲笑う声は、俺の喉奥から漏れ出るモノだった。それは不愉快で。気持ち悪くて。


 急に胃液が逆流し、胃から喉へこみ上げてくる。


 口を両手で塞ぎ、急いでトイレへ駆け込んで嘔吐した。トイレのドアを閉めて鍵をかけ、膝を抱えて小さくうずくまった。腕と胸を駆け巡る痛みが、眠気という死から俺を遠ざけ、覚醒させる。


 俺は、眠気が襲ってくるたびに、胸を何度も何度も叩き、痛みに悶え、苦しんだ。


 トイレの窓から明かりが差してきた。長い夜は明け、重力が重くのしかかる瞼をこすりながら、恐る恐るトイレのドアを開ける。死神が目の前で待ち構えている、ということはなく、俺は病室のドアをそっと開け、中を覗きこんだ。


 そこは確かに死神が通り、鎌を振るったのだろう。俺のいた個室のカーテンとベッドのシーツはびりびりに引き裂かれていた。そこに俺がいたら、挽き肉になっていただろう。もう一日やり過ごせるだろうか、それは、無理だ。


 精神をすり減らしながら一夜をやり過ごすには消耗が激しすぎた。瞼は重力に抵抗できず、今にも意識を失いそうだった。


 もういっそこのまま、深い眠りの中で、死んだほうが楽なのかもしれない。


 引き裂かれたベッドに腰をかけ、ゆっくりと身体の力を抜いた。身体がベッドに沈み込み、視界が暗転しかけたその時、ポケットにしまったスマホが振動し、再び俺の意識を浮上させた。


夕闇鴉さんからだった。


『…………生きていたのね』


 歓喜も落胆の色もない、淡々とした事務的な口調だった。こちらの生死にはなんの興味もなく、それを取り繕う様子もない。ロボットが喋っているように機械的で無機質だった。自室で一緒にいた時のような天真爛漫さの欠片もない。


「まぁ、なんとか。徹夜で起きてトイレに籠っていました」


『あら、そう。寝首を掻くのがその怪異の特性のようね。それに気づいて対応したなんて、あなたなかなか賢い子じゃない。ただ、長続きしなさそうな手段ね。もしかしたらなのだけれど、あなたが助かる可能性があるかもしれないわ』


「…………ほ、本当ですか?」


『えぇ、まだ私を信頼してくれるなら、試してみる価値はあると思うわ』


「どんな方法ですか?」


『とりあえず、今から言うところにきてくれる?』


「分かりました。そこで何をするんですか?」


『……………………。まぁ、その時説明するわ』


 今にも切れそうな細い光明だったが、真っ暗な空間ではそれが何よりの希望になる。やや沈黙があり不安は多分にあるが、意識が重く頭が回らない、妙案も思い浮かばない俺にとっては縋るしかない。


 夕闇さんの提案を受入れ、眠気に負けてしまわないようにと自らを奮い立たせ、指定された場所に向かうことにした。

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