夕闇さんと深夜散歩

 待ち合わせちょうどの時間にインターホンが鳴り、外に出ると紺色のトレンチコートを羽織った夕闇さんが家の前に立っていた。


「こんばんわ。さぁ、行きましょう」


 以前の夜の散歩の時を思い出しながら、俺は夕闇さんと夜の街を歩く。駅に向かって大通り並んで歩く夕闇さんの肌の白さは、夜の闇と対照的で際立っていて、彼女だけがこの世界から切り離されているとすら感じる。むしろ、彼女が幽霊なのでは?とすら思うほどだった。


 特に会話はなく、夜の静けさとは別の沈黙が2人の間に流れている中で、そういえば、学校以外で女の子と2人で外を出歩くなんて初めてだったことに変な緊張感がこみ上げてくる。夕闇さんはというと、こちらの視線など気づいてすらなく、切れ長の目はただ突き進む前だけを見ていた。


 ふと夕闇さんは口を開く。


「鷹野君は夜の散歩が好きって言ってたけど、どんなところが好きなの?」


「なんででしょうね。なんか人が周りにいなくて落ち着くから、でしょうか」


「ふーん、なるほどね。夜の散歩をしている間に妙なものを見た事は他にないの?」


「特に、ないですね。あの時が初めてでした」


「……ってことは、その時初めて見たその木らしきものに魅入られたってことかしら」


「はい、これから行くところがその黒い木がある場所です」


 目的の駅で降りると、駅前はほとんど人おらず、駅から離れ、駅前の明かりが蛍の光ほどに小さくなっていく所まで来ると、ガクガクと膝が震えてきていることに気づいた。


 夕闇さんは優し気に俺の肩をさすり、語りかける。


「大丈夫。君はまだ大丈夫」


「正直、怖いです」


 震える俺に、肩をさする夕闇さんの手の暖かさがほんのりと伝わる。


「今朝の傷の程度なら、君の命が今すぐに取られることはないわ。だから安心して」


 安心させる彼女の優しい発現が心に染みたが、死ぬ可能性が0ではないを暗に言われているような気がして素直に喜べない。ただ、こんな怪奇な出来事に遭遇して、誰にも相談できない孤独の中で、今は夕闇さんだけが便りなのだろうと、安直に、縋るように、俺は思った。


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 住宅街を抜け、田んぼ広がる景色、等間隔で並ぶ街灯と街灯の間の距離は長く、必然、周囲の光量も少なくなり、夜の帳が辺りの物を全て黒色に変色させる。この激しい身体の震えは、秋の肌寒さだけが原因ではないのは明白だ。


 歩くたびに、後ろに何かいるのではないかと振り返り、そしてまた歩く。振り返る、歩く。隣の夕闇さんがふっと、いつの間にかいなくなっているのではないか、勝手に不安になり、俺は情けなくも夕闇さんのコートの裾を軽くつまんだ。


 しばらく歩き、そろそろ黒い木があったところに着いたと思ったが、それらしいものはまだ見当たらない。


「本当にここに黒い木があったのかしら」


 夕闇さんはつまらなさそうに呟いた。ここにあの木が立っていたはずなのだが……ない。

 辺りを見回すが、どこにもなかった。

 葉が一本も生えていない、そして目の前の俺を飲み込むように両手を広げて佇んでいたあの黒い木はどこにもなかった。


「そもそもここに木なんて初めから立っていなかったということになるわね。ということは、何かがきっかけで、黒い木は鷹野君自身に憑いてきているということになるわ。それは、恐らく常にあなたの後ろにいる。常にあなたを見ている。ここで黒い木を見る以前に何か変なものを視たり聞いたりはしてない?心霊スポットに行ったとか、死に触れるような何かを」


「うーん、……いや、特別恐ろしい何かを視た覚えはないですね」


 記憶を辿ってみたが、これまで幽霊の類を視た経験はないし、心霊スポットのような場所に行ったこともない。年に一度のお墓参りくらいだろうが、これは人間みな行っていることだ。これが原因というなら世間は怪奇現象祭りだ。他に憑かれる原因になるようなことはしていないはず――。


 過去へ思考を巡らせていたそのとき。


――パキッと、音がした。


 瞬間、背筋が凍り付く。

 あの音がした。しかも近い。

 黒い木が現れるときに鳴るあの音は、今、目の前から聞こえた。


 でもそれは、細くて固いものが折れた時に鳴る乾いた音というよりも、少しくぐもっていて、どこか生々しさを感じさせる音――――あっ。


 そうだ、思い出した。


 俺は、ここに来る前に、通りで車に踏み潰されるネズミを見た。車に踏み潰された後もなお生きようと向こうまでなんとか歩き、途中で力尽きたネズミを。


 生物の持つ生々しい命の灯火が消えゆく様を。

 車に牽かれた瞬間にそれは鳴った。

 パキッと、あの音がしたのだ。


 そのことを急いで伝えようと夕闇さんに向き直ると――――


 いつの間にか


 彼女の真後ろに


 あの黒い木が佇んでいた。


 遭遇した獲物を逃さない、蜘蛛の巣のように細い枯れ枝を幾重にも大きく広げて。


 生気が感じられないどころか、こちらの生気を吸い込むような漆黒の身体で、それは物言わず、ただ佇んでいた。夜の闇よりもずっと黒いそれは、幽霊のように真っ白な肌を持つ目の前の夕闇さんを今にも丸飲みしそうで。


 それに気づかない夕闇さんは、顔面蒼白な俺に対し首を傾げるが、何かに気づいたようにハッとして後ろを振り向いた。


 しかし、夕闇さんは、その黒い木を視認することはできなかったようだった。

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