15

 雪と蝶は、最初にこの海に訪れたときのように、向かい合って立っていた。

 雪の手には片手剣が、蝶の手には出刃包丁が握られている。


「スタートの合図は何がいい?」


 蝶に問われて、雪は視線を落としながら答える。


「……蝶が、合図の言葉をください。それを、始まりとします」

「それでいいの……? それって随分、私が有利になってしまうと思うんだけれど」

「構いませんよ。……私、負けないので」

「あら、強気ね」


 くすりと笑った蝶の方を、雪は見た。

 …………嘘をついた。



 雪は、蝶を殺す気なんてさらさらなかった。



〈高位の存在〉となれば、救済も、理解も、永遠も、全てを叶えることができる。

 でも、そのために愛する人を殺す勇気を、雪は持ち合わせていなかった。

 雪は、自分のことを異常な人間だと思っている。

 そんな自分の中に眠っていたちっぽけな「正常」を、雪は唇を噛みながら認識する。


 ……それに、先程はつい取り乱してしまったけれど。

 よく考えてみれば、〈高位の存在〉となった蝶は、世界から消失するだけではない。


 ――――彼女が生きていたいと思うことのできる新しい世界で、また最初からやり直すことができるのだ。


 雪の死によって、愛する人が幸福な新たな生を得ることができる。

 それは、甘美なように感じられた。


 雪は決める。

 蝶が合図の言葉を口にしたら、彼女を殺そうとするふりをして、彼女に殺されようと。

 それっていいな、と雪は思う。愛する人に殺してもらうなんて中々できない。そんな最期を迎えられるなんて私は幸せ者かもしれないな、と雪は淡く笑った。


 雪と蝶の目が合う。

 蝶の桜色の唇が、ゆっくりと開かれた。



「――――始め、」



 そう言うと蝶は、



 出刃包丁を、



 自身の左胸に、



 突き刺した――――


 ◇


 時間が止まってしまったかのように、雪は思う。

 蝶がくずおれる光景が、まるでスローモーションのように感じられた。

 雪の手から片手剣が滑り落ちる。

 ようやく走り出すことができたのは、蝶が砂浜に転がった頃だった。


「――――――ッ!」


 言葉にならない叫び声を上げながら、雪は蝶の元へと駆けた。

 砂浜に足を取られて雪は転ぶ。痛みなど忘れながら、立ち上がって走る。

 蝶は虚ろな目をしながら、微笑んでいた。


「ちょ、う…………蝶、何で、そんな、何でっ…………!」


 震える声で叫ぶ雪を、蝶は愛おしげに見つめる。

 口からつうと血液を溢れさせながら、蝶は言葉をも溢れさせた。



「決まっているじゃない……大好きな妹の望む未来を……応援したかったの」



 雪の瞳にじんわりと涙が浮かぶ。


「だって、蝶、殺し合おうって言っていたじゃないですか、なのに、何で」

「ごめんね……嘘、だったの」


 言ったときからこうするつもりだったの、と蝶は微笑いながら告げる。

 雪は両手を顔で覆った。

 双子だからって、そういうところまで、似なくていいのに。

 ただ、殺してくれるだけでよかったのに。


「雪、泣かないで……〈高位の存在〉になれば、また、どこかの世界で……私と、会えるよ……」


 蝶の言葉を聞きながら、雪は嗚咽おえつを漏らす。

 蝶の瞳が、より虚ろになっていく。


「花畑だ…………すごく、綺麗…………」


 蝶の口角が、ほのかに上がる。


「やっぱり、あったのね…………死後の、世界の、はな、ばたけ…………」


 そう言って、蝶はゆっくりと目を閉じる。

 雪は必死に蝶の身体を揺すった。


「待って! 行かないでえっ……蝶……!」


 ふと雪は、出刃包丁の存在を思い出す。


 蝶の側に転がっているそれを、雪は躊躇ちゅうちょなく自分に刺した。腹に! 腹に! 腹に! 左胸に! 左胸に! 右胸に! 首に! 首に! 右足に! 左足に! 余りの痛みに思こうがまとまらなくなっていく、それでも、あかくなっていくからだをみつめながら、まだあかくなっていないしろいぶぶんに、なんどもなんども、つきさした! つきさした! つきさした! つきさした! つきさした! いたい、いたいけれど、ちょうよりさきにしぬことができたら、ちょうはこういのそんざいに、なれるのです、だから、つきささなくては、いけないのでした! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ! つきさせ!


 ああ……いしきが、だんだんと……きえて、いきそうで…………



 …………ちょうより…………さきに…………しねた、かな…………?

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