六章 始まり

14

 目を覚ますと、雪の隣には蝶がいる。

 一人で眠るのが怖いと言われ、雪は蝶が穏やかな眠りにつくまで、ベッドの中でそっと彼女の背中をさすり続けたのだ。

 蝶はすう、すうと寝息を立てていた。


 起こさないようにそっと、雪は蝶の頬にくちづけを落とした。


 永遠に忘れることができないであろう感触だった。

 ベッドから出て、雪は蝶の部屋の扉を開く。



 ――――そこには、悪食が立っている。



 彼はカップケーキを齧りながら、笑った。


「準備はいい? 雪」


 そう問われて、雪はそっと振り返った。

 眠っている蝶を少しの間眺めてから、もう一度悪食の方へと視線を移す。

 どこか寂しそうな、溶けかけの雪のような微笑みを零した。


「…………はい」


 悪食も、微笑った。

 雪の意識が、掠れてゆく。


 ◇


 ――――濃い潮の香りがした。



 雪は目を閉じながら、思う。



 もうすぐ、自分は人間ではなくなって、〈高位の存在〉となるのだと。



 青色の殺意を携えながら、雪はそっと目を開く。




 ――――が、雪の目の前で呆然と瞬きを繰り返している。


 ◇


 打ち寄せる波の音が、随分と大きく感じられた。

 どうして、と雪は思う。

 だって悪食が見せてくれた〈階層試練〉の参加者に、「龍ヶ世蝶」なんて名前は存在していなかった。自分以外の十五人は、全員、知らない人間だった…………

 雪の脳は、一つの可能性に思い至る。



 ――――最初から、悪食が嘘をついていたとしたら?



 雪は、目を見開く。

 油断していた。


『ちなみに、十六人のうちその死に方をしたのは結島つむぎただ一人だから、次回以降はそういうラッキーなことは起こらないよ』


 悪食の言葉を思い出す。「結島つむぎ」という名前は、紙の上にはっきりと存在していた。それもあって、信頼してしまっていた。


 ――――あのとき悪食に見せられた紙には、真実と虚偽が混ざり合っていたのだ。


 雪はみるみるうちに表情を歪めて、口を開いた。



「……ふざけるなっ! ふざけるなよ! 悪食! いるんだろ、出てこいよ!」



 普段なら使わない口汚い言葉で、叫ぶ。

 悪食は姿を現さない。雪は諦めたように視線を落として、「本当に……ふざけないでくださいよ……」と自嘲するかのように歪に笑った。

 雪は持っていた片手剣を砂浜に叩き付ける。

 それからへたりこんで、ぎゅっと目を閉じると、呟いた。


「はあ…………困ったな…………」


 ふと蝶の方を見ると、彼女も砂浜に腰を下ろしていた。

 蝶が海を見つめているようだったから、雪もそれに倣うことにした。


 ◇


「…………びっくりした」


 数分ほど二人の間に会話はなくて、先に口を開いたのは蝶だった。

 蝶は足を伸ばしながら座っていて、雪は体育座りの姿勢をしていた。

 蝶の両腕には痛々しい傷跡が残っていて、二人の視線の先には綺麗な青色の海があった。


「……何が、ですか?」

「雪が、〈高位の存在〉になりたいって思っていたこと」

「……そうですか」

「うん」


 蝶は大きく伸びをしながら、微笑んだ。


「私から見て、雪ってさ。すごい、大人びていて。余り、色々なものに興味がなさそうな感じがして。だから、〈高位の存在〉になろうって悪食くんから持ち掛けられたとしても、すぐに『どうでもいいです』って言って断るような気がしたの」


 蝶は昨晩のことなど嘘だったかのように、いつもの蝶だった。


「そうですか……まあ、そう思うのもわかります」

「そっか。……たとえ双子でも、見抜けないことってあるんだな。私、まだまだ雪のこと、知らないことだらけなのかもしれないね」


 そう言って、蝶はどこか寂しそうな横顔で海を見つめる。

 雪はそっと、口を開いた。


「…………蝶は、」

「何?」

「どうして、〈高位の存在〉になりたいと思っているんですか?」

「ああ、そのこと」


 蝶は困ったように微笑んだ。

 この際いっか、と口にしてから、蝶はまた言葉を紡ぐ。



「――――私ね、昔からずっと、死にたかったんだ」



 そう告げた蝶の表情は、どこか清々としているようだった。


「変だったの。家族にも、友人にも、先生にも恵まれていて、何一つ不自由なんてないはずだったのに、死にたい気持ちがずっと付きまとっていたの。しかもね、年齢を重ねるにつれて、どんどんその気持ちが増していったんだ。訳がわからなかった。理由もなくずっと、死にたいって思っていたの」


 呆然としている雪に、蝶は「私、意外と隠すの上手いんだ。……昨晩は失敗しちゃったけれどね」と悪戯いたずらっぽく微笑む。


「……だからね、悪食くんが教えてくれたとき、納得した。私は〈神々〉に愛されていたから、ずっと死にたい気持ちが拭えなかったんだって。パズルのピースが嵌まったみたいで、すっきりしたな」


 蝶は目を細めながら、どこか懐かしそうに言う。


「話を質問の答えに戻すね。死にたかったけれど、わかってもいたの。私が死んだら、沢山の人を悲しませることになるって。……特に、貴女のことが心配だった」


 蝶はそう言って、雪の方を見る。

 雪もまた、蝶の方を見た。

 二人の視線が、絡み合う。


「雪が、私のことをとても大事に思ってくれていること、ちゃんとわかっているよ。、大切にしてくれているのよね」


 蝶の言葉に、雪の瞳が揺らいだ。

 でもその揺らぎはすぐに隠されて、雪は「……そうですね」と切なげに微笑った。

「悲しませたくなかったんだ」と蝶は微笑んだ。


「でもそれと同じくらい、死にたかったんだ。苦しかった。そんなときにね、悪食くんが教えてくれたの。〈高位の存在〉になれば、この世界から消失できるって」


 雪は、目を見開いた。

 まさか、蝶は、そういう理由で――――


「消えてしまえば、初めからいなかったのと同じになる。そうすれば皆悲しまないし、〈高位の存在〉になれば〈神々〉からの愛の証である死にたい気持ちもなくなって、私も楽になれる。……だから私は、〈高位の存在〉になりたかったの」


 表情に儚さを滲ませながら、蝶は呟くように言う。

 気付けば、雪は立ち上がっていた。

 砂浜に置き去りにされた片手剣が、打ち寄せた波に濡れる。

 不思議そうに瞬きを繰り返している蝶の前に立って、雪は腰を落とす。そのまま、蝶の両肩を掴んで叫んだ。


「何でっ……何でそんなこと、しようとするんですかっ……!」


 叫びながら、雪は自分の言葉がちっとも理路整然としていないことに気が付いていた。

 理由なら全部、蝶が説明してくれているのに。

 それでも雪は、愚かに感情を表出せずにはいられなかった。


「嫌ですよ! 蝶がいない世界なんて意味がない! ぜんっぜん、意味がない! そんな世界こそが消えてしまうべきなんです! だから、」


 雪は表情を歪めながら、吐露する。



「そんなに悲しいこと、言わないでくださいよ…………」



 蝶は呆然と、雪の言葉を聞いていた。

 それから、柔らかく微笑う。


「……そっか。雪は、そういう風に思ってくれているのね。嬉しい」


 でもね、と蝶は言葉を続けた。


「私はやっぱり、〈高位の存在〉になりたいの。……雪も、〈高位の存在〉になりたいのよね?」


 蝶の問いに、雪は俯きながら頷いた。


「そうよね。……ちなみに、どうして?」

「…………言えません」

「そっか、残念。……それで、さ。〈高位の存在〉になりたい人間が二人、〈階層試練〉においてやることは、ただ一つだと思わない?」


 顔を上げた雪の瞳には、いつものように微笑んでいる蝶がいる。

 変わらぬ微笑みで、蝶は雑談でもするかのように、告げた。



「――――雪。私と、殺し合おう?」



 陽光を受けて、砂浜に置かれた片手剣と出刃包丁が美しくきらめく。

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