12
雪は電車に揺られていた。
紺色の半袖のTシャツと七分丈のデニムパンツに身を包んで、座席に腰掛けている。車内には浴衣姿の人も多く、雪と同じように
雪が携帯で時間を確認すると、十七時四十五分を示している。
『まもなく霞兎、霞兎…………』
そんなアナウンスが聞こえてきて、五十分頃には着きそうだなと雪は思った。待ち合わせの十分前ではあるけれど、雪が家を出るとき既に蝶の姿はなかったから、恐らく蝶の方が先に着いているだろう。惰眠を貪るのではなく蝶と一緒に出発すればよかったと、雪は心の中に後悔を滲ませる。
そんなことを考えているうちに、電車が霞兎駅に到着した。雪は座席から立ち上がり、人の波に乗るようにしてホームへと出る。車内は随分と涼しかったから、触れた夏の空気を些か不快に思った。早く蝶と合流しようと思いながら、雪は階段を足早に昇る。
雪が人混みの中の蝶を見つけるのは、一瞬だった。
それほどまでに、今日の蝶は美しかった。
――――赤色の地に真っ白の花が幾つも描かれた浴衣を、蝶は身に
普段は下されている黒の長髪は、今日は編み込まれて
蝶は雪に気が付くと、可憐な微笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「お疲れ様、雪。……どうかした?」
「……ああ、いえ、何でもありません……」
雪は蝶から視線を逸らす。
言える訳がないと思った。余りの美しさに、思わず見惚れてしまっていただなんて。
蝶は不思議そうに首を傾げながら、「それならいいんだけれど」と微笑う。
「その……浴衣、なんですね」
「ああ、うん、そうなの! ……折角だから、着てみたいと思ったんだ」
蝶はそう言ってはにかんだ。
「どうかなあ……似合っているかな?」
「似合っているに決まっているじゃないですか」
食い気味に主張した雪に、蝶は少し驚いたように瞬きを繰り返した。しまった、と雪は思う。つい、本音が……
「……よかった」
そう言って、蝶は心の底から嬉しそうに微笑う。
また見惚れてしまって、それから、まあいいかと思った。
人間として蝶と過ごすことのできる最後の日だ。自分の恋心が多少溢れてしまうことくらい、いいじゃないか。今までずっと、ずっと、窮屈な瓶に必死に蓋をしながら隠してきたのだから――――
「それじゃ、行こうか?」
「そうですね」
雪は頷いて、蝶の隣を歩き始めた。
◇
陽は段々と沈んでいて、空には藍色と橙色が混ざり合っていた。
道の両脇には屋台が立ち並んでいて、沢山の人で賑わっている。きょろきょろと視線を彷徨わせる蝶を、雪は愛おしげにちらりと見た。
「屋台、いっぱいね……雪は何が食べたい?」
「蝶の食べたいもの」
「……本当に、いつもそればっかり」
蝶は
「じゃあ、私、りんご飴食べたいな」
「いいですね」
「そうしたら、決まりね。あそこ、一緒に並ぼう!」
蝶は少し遠くにあるりんご飴の屋台を指さしてから、雪の手をすっと握って走り出す。
「え、ちょ、わっ」
情けない声を出した雪の手を引きながら、蝶はふふっと笑う。雪もつられたように微笑んだ。赤色の浴衣の袖がふわりと舞う。
二人は列の最後尾に並んだ。自然と手が離れて、雪は名残惜しさをそっと包み隠す。早く食べたいのか、蝶はどこかそわそわとした様子を見せていた。そんな彼女が可愛らしくて、雪は「順番ならすぐに来ますよ」と微笑う。蝶は少し恥ずかしそうに、「わ、わかってる……」と俯いた。やっぱり可愛かった。
雪の言葉通り、すぐに二人の順番がやってきた。一つずつりんご飴を注文して、合わせて千円を払う。雪と蝶の手には、それぞれ真っ赤なりんご飴が握られた。
「いただきます!」
「いただきます」
雪がりんご飴を齧ろうとすると、意外と硬くてするりと歯が滑った。こういう食べ物だったっけと思いながら蝶の方を見ると、彼女は食べるのに成功したようだった。ただ、唇の周りに赤色の飴の欠片が付いてしまっている。くすりと雪が笑うと、蝶は不思議そうに首を傾げてから、もう一度りんご飴を
「……美味しい」
「それはよかったです」
「雪は食べないの?」
「思ったより硬くて、失敗しました」
「あはは、確かに結構硬いよね」
蝶は唇の辺りに手を添えて笑う。赤色の欠片が祭りの灯りを受けてきらきらと輝いている。一瞬、血液を連想させた。雪は幼い頃の蝶の記憶を思い出す。トラックに轢かれそうになっていた自分を救ってくれた蝶、擦りむいてしまった彼女の赤黒い傷跡。
――――あの赤黒い蝶が、雪の長い恋の始まりだった。
懐かしく思いながら、雪は歯に力を込めてりんご飴を齧った。
◇
熱々のたこ焼きを買って、二人で冷ましながら分け合って。
食後のデザート扱いの綿飴を食べて、ふわふわだねって笑い合って。
スーパーボールすくいで童心に返って、どちらが多く取れるかで勝負したり。
射的で大きなぬいぐるみを二人で狙って、全然上手くいかなくて溜め息をついたり。
楽しい時間は、あっという間に過ぎていって。
…………夜は段々と、更けてゆく。
◇
「……屋台、大体見尽くしましたね」
「そうね」
真っ黒になった夜空の下を、雪と蝶は歩いている。
もうすぐこの時間は終わってしまうのだろうか、と雪は思った。寂しくて、その寂しさを紛らすように少しだけ唇を噛む。柔い皮膚に歯が軽く食い込んで、ほのかに痛んだ。
雪の隣で、蝶は腕時計を確認する。
「そろそろ、始まるみたいね」
「…………? 何がですか?」
「あれ、知らないの?」
「知らないです」
雪の返答に、蝶はくすりと笑って、「そうしたら、空を見ていて」と口にする。
不思議に思いながら、雪は空を見上げた。
――――星空に、満開の花が咲いた。
雪は驚いて目を見張る。そうしている間にも、ぱあんと音を鳴らしながら美しい火の花が開く。色鮮やかで、綺麗だった。
「ふふっ、タイミングばっちりだった!」
蝶は嬉しそうに微笑う。雪が彼女の方を見れば、黒い瞳に花火が優しく映り込んでいた。目が離せなくなってしまう。蝶が一番綺麗だと思う。
二人は立ち止まりながら、花火を眺める。
雪は時折、気付かれないように蝶の方を見る。
蝶の瞳は淡く透明に濡れていた。
唇が、開かれる。
「…………やっぱり、花畑が、あるんだ…………」
蝶の呟きは人々の
雪は蝶の手を取った。蝶が驚いたように雪の方を見て、それから可愛らしく微笑う。
最後の日くらい自分から手を取っても許されるような気がした。
――――許してくれ。
応えるかのように、沢山の花火がいっぺんに咲く。
二人は最後の花火が打ち上がる頃も、手を繋ぎ続けていた。
◇
帰りの電車で、蝶は「楽しかったね」と微笑む。
雪はその言葉に、「楽しかったですね」と返す。
思いを共有できたことを、雪は幸福だと思う。
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