五章 デート
11
窓から差し込む朝陽を浴びながら、雪はベッドの上に座って足を伸ばしていた。
身体には少しの傷もなく、名前のように白い肌が広がっている。
「…………悪食、」
名前を呼ぶと、ふわふわの綿飴を齧っている悪食が現れる。
悪食は嬉しそうに笑った。
「雪、僕の名前を呼んでくれたの初めてだね」
「……そうでしたっけ」
「そうだよ? いつも貴方とか、そればっかり。まあ、それはそれで雪らしいけどさ」
「はあ。というか、何で綿飴?」
「だって雪、今日は蝶とお祭りに行く日でしょう? 羨ましくってさ、つい」
悪食はそう言って、雪へと欠けた綿飴を見せる。雪はどうでもよさそうにそれを眺めた。
「それで、僕に何か用?」
首を傾げた悪食に、雪は少し掠れた声で問う。
「…………私が、〈高位の存在〉になったら」
「うん」
「…………蝶は、私のことを、全て忘れてしまうんですか?」
心のどこかでそんな予感を抱きながらも、雪は今まで悪食にそれを確認できずにいた。大方、答えは予想できるから。
「そうだよ」
……ほら、やっぱりそうだった。
雪は足を折り曲げて、腕で抱きかかえる。彼女の浮かべる表情は儚さを帯びていた。
悪食は綿飴をふわりと齧って、微笑んだ。
「再構成されるんだ」
「再構成……?」
「うん。今、雪は数多の〈並行世界〉に人間として存在している。その人間の雪を全て
「そっか……まあ、そうですよね……」
身体と膝の間に顔を埋めた雪に、悪食は「でも」と付け加える。
「再構成だって、完璧ではない」
雪は顔を上げる。悪食の闇のように黒い瞳に、雪の姿が映し出された。
「数え切れないほど存在する〈並行世界〉から、一人とはいえ人間の存在を完全に削除することは、言ってしまえばかなり面倒臭い。〈神々〉の力をもってしても、多少のボロが生じることだってある。つまりさ、君は多分、完全には消失できないんだよ。……だから、そんなに嘆かなくたっていいんじゃない?」
悪食の言葉に、雪はほんの少しだけ、微笑った。
「……よかった」
そう零した彼女を、悪食は愛おしそうに見つめる。
黒い瞳と白色の綿飴が、どこか対照的だった。
◇
雪は一人で、夏空の下を歩いていた。
時折手に持っている携帯の画面を灯して、今朝蝶と交わしたメッセージを開く。
〈今日、
〈はい。大丈夫ですよ〉
〈よかった。楽しみにしているから〉
〈私もです〉
そんな短いやり取りを見つめることが、雪にとっては確かな幸福だった。
雪はふと顔を上げる。少し遠くを、巨大な
麒麟のような何かが視界から消える頃に、雪は目的地に辿り着いた。
商店街の中で、視線を
雪がこの場所に訪れたのはとても単純な理由で、蝶に贈り物をしたいからだった。
雪は明日の〈階層試練〉を終えれば、〈高位の存在〉もしくはただの肉塊になる。いずれにせよ、人間として蝶との時間を過ごすことができるのは今日が最後だった。
悪食の言葉から考えるに、きっと今日贈り物をしたところで、それは「削除」されてしまうのだろう。それでも雪は、蝶に何かを贈りたかった。今まで自分の側にいてくれたことへの感謝や、蝶という存在への崇拝や、終わりのない穴のように深い蝶への愛情を、僅かでもいいから伝えてくれるような、そんな贈り物を。
雪の視線は流れるように移ろっていく。雑貨屋、スイーツ店、洋服屋、靴屋、時計屋――中々ピンと来るものがなかった。そもそも蝶は何が好きだっただろうか、と雪は考える。すぐに思い付いたのは映画だったけれど、DVDを贈るのは違うような気がした。映画を余り知らない雪には、その映画が何を表現しようと描かれたものかわからないから。
好きなものにこだわらなくてもいいのかもしれないな、と雪は思考を巡らせる。蝶の映画への執着を考えると、本当に好きなものは既に自分で手に入れているような気がした。
ふと、雪の視線がアクセサリー店に留まる。
いいかもしれない、と雪は感じた。蝶は美しい容姿をしているけれど、余り自身を着飾ることはしない。そんな蝶が贈ったアクセサリーを身に
白い照明に包まれた店内には、様々なアクセサリーが並べられていた。モチーフもチェーンの長さもばらばらなネックレス、随分と華やかなリング、少し重たそうなイヤリング。雪は目を細めながら、じっくりとアクセサリーを精査するように眺める。
……そうして雪は、一つのアクセサリーと目を合わせた。
蝶をモチーフにした、銀色の髪留めだった。
雪はこの髪留めを付けている蝶の姿を想像した。どうしようもなく麗しくて、雪はぞくりとする。これを買うしかないと思った。雪は髪留めに手を伸ばすと、レジの方まで持っていくことにする。
髪留めに意識を取られていたせいか、雪は何者かにぶつかりそうになってしまう。
すみませんという言葉が、危うく口をついて出そうになった。
首のない人間が、雪のことをじっと見つめている。
目も存在しないから、「見つめている」という表現は不適切かもしれない。けれど、身体の向きはしっかりと雪を捉えていた。
「かわいそうにね…………」
口などないのに、そのひとは平然と言葉を発してみせた。
「もうすぐね…………かわいそうにね…………もうすぐね…………かわいそうにね…………もうすぐね…………かわいそうにね…………もうすぐね…………かわいそうにね…………」
雪はそのひとに気付いていないふりをして、レジの方へと向かった。かれはずっと雪のいる方向へ身体を向けながら、「かわいそうにね」と「もうすぐね」を延々と繰り返している。寒気を覚えながら、雪はレジにいた若い女性の店員に髪留めを差し出した。女性にはちゃんと顔があったから、安心した。
◇
雪は自室のベッドの上に横たわっていた。
腰まで伸びた長い黒髪が、布団の上に広がっている。雪の視界の先には、勉強机の上に置かれた、ギフトラッピングされた蝶の髪留めがあった。
夏祭りから帰ってきたら蝶に渡そうと雪は考える。一日の締め括りにきっと相応しくなるだろうと思った。渡したとき、蝶はどんな反応をしてくれるだろうか? 驚く? 戸惑う? 喜ぶ?
どんな反応でもよかった。
極論、微妙な反応をされたって構わないのだ。最後に蝶の心に何かしらの跡を残すことができるならば、その跡がどんな形だっていい。その跡がすぐに消えてしまうものだとしても、自分が覚えていられるのであれば、それでいい……
雪のまぶたが段々と下がっていく。人間らしく過ごすことのできる日は今日で最後だというのに、生産的なことをする気に全くならなかった。まあいいか、と雪は思う。贈り物も選んだし、やるべきことはやった。それに、余計な記憶を増やすよりも、蝶との美しい思い出を鮮明に覚えておけるようにするのがきっといい――そんなことを考えているうちに、雪の意識は薄れていった。
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