一章 恋

01

 うだるような暑さだった。

 蝉の声が響いている。みんみんみんみん、じーじーじーじー……声は重なり合って、雪の鼓膜を揺らし続けた。

 雪は夏が苦手だった。名前通りの冷ややかな性格をした彼女には、この季節はどうにも性に合わない。輝く太陽も、澄んだ大空も、華やぐ生命いのちも――全てが眩しすぎて、目を背けたくなってしまう。本物の雪のように、溶け出してしまいそうだった。


「それにしても、本当に暑いね」


 そう話し掛けられて、雪は隣を歩く蝶の横顔を見る。

 長い睫毛まつげ、すっと通った鼻筋、桜色の唇――いつも通りの美しさだった。


「そうですね……夏なんて、早く終わればいいのに」

「ふふ、雪は昔から夏が嫌いよね」

「蝶は違うんですか?」

「そうね……私はどちらかというと、好き。ほら、夏って日が長いじゃない? 私、日が短いとすぐに疲れちゃうんだ……」


 蝶はどこか儚げな微笑みを浮かべながら、そう告げる。

 雪は淡く目を細めながら、口を開いた。


「私はむしろ、日が長い方が疲れます。早く日が暮れてくれた方が、何となく心が楽なんです」

「そうなのね……ねえ、何だか面白くない?」

「何がですか?」

「私たちって双子なのに、考え方が結構違うじゃない」

「ああ、言われてみればそうですね」


 雪はこくりと頷いた。

 雪と蝶は一卵性の双子だった。それを裏付けるかのようによく似た顔立ちで、異なるのは泣きぼくろの位置と髪型くらい。二人とも黒の長髪なのだが、雪が普段から編み込みを伴ったハーフアップにしているのに対して、蝶は特別なとき以外はヘアアレンジをせずにすとんと下ろしていた。

 蝶は柔らかく微笑んで、雪の方を見る。


「考え方が違うから、話していると楽しいの。私、雪が妹でよかった」


 その言葉に、雪の瞳が一瞬だけ揺らいだ。

 でもすぐに、その感情は隠されてしまう。


「……私も、蝶と出会えてよかったです」


 雪がそう言うと、蝶はとても嬉しそうに笑った。

 雪は蝶から目を背ける。

 曲がり角が近付いてきた。電柱の側には真っ白なワンピースを着た女性が立っている。俯いていて、真っ黒な長髪がだらりと垂れ下がっている。手足は痩せ細っていて、不自然なまでに青白い。

 女性の側を通ると、ささやき声が聞こえる。


「たすけてください…………たすけてください…………たすけてください…………」


 雪は女性と目を合わせないようにする。

 今まで生きてきて、かれらと関わってもいいことなんてないと学んでいるから。


 ◇


 最寄り駅の改札の前で、蝶は雪へと「ありがとう」と言う。


「暑い中、駅までお見送りしてくれて」

「お礼なんて別にいいんです。私がやりたくてやっていることですから」

「ふふ、雪は相変わらず優しいね。夏期講習も今日で終わりだし、明日からは羽を伸ばさなきゃ」


 そう言って、蝶は大きく伸びをする。

 ノースリーブのワンピースから脇が見えて、雪はそっと目を背けた。


「それじゃあ、行ってくるね。ありがとう!」

「お気になさらず。行ってらっしゃい」


 蝶は雪へと手を振ると、改札の方へと歩いていく。

 蝶は一度も振り返ることなく、階段の方へと消えていった。

 そんな後ろ姿を、雪はただ見つめていた。


 ◇


 行きと同じ道を通っているはずなのに、雪の心は確かな寂しさに染まっていた。


 ワンピースを着た女性の側を通る。彼女はいつだって「たすけてください」を繰り返している。何からの救済を求めているのかはわからなかったけれど、自分もいつかこうなるのかもしれないなと雪は思った。ずっと同じ人の名前を繰り返しながら、ただ救いの手を求め続けるだけの存在……


 雪は額に浮かんだ汗を手で拭う。一人でいると、思考が壊れていく心地がする。早く家に帰って眠ろうと思った。睡眠は何にも変え難い逃避行動だから。



 ――――雪はふと、少し先の街路樹にもたれかかっている少年に目を留める。



 歳の頃は十八歳くらいに見えて、年齢と性別の割には背が低めだった。真っ黒な髪をショートカットにしていて、黒色のレースシャツとスラックスに身を包んでいる。齧られた痕のある、きつね色のクッキーを右手に持っていた。


 どっちだ? と雪は思う。


 


 混ざり合っているような気がした。十五年生きてきて、彼のような存在を雪は目にしたことがなかった。生きた人間とかれらには、覆すことのできない雰囲気の差があるはずなのに、雪には少年がどちらであるかを見分けることができなかった。

 興味は湧いたけれど、リスクを考えて雪は彼に関わらないという選択肢を取る。視線をどこか違う場所に持っていきながら、雪は少年の前を通り過ぎようとした。



「――――実の姉に恋をしているんだね」



 聞こえた言葉に、雪は目を見張る。

 ばっと声のした方を見ると、少年がさくりとクッキーを齧っていた。

 彼は満月のように丸い黒の瞳を、柔らかく細める。


「報われない恋心を抱え続けるのは辛いよね。ふふ、僕にはわかるよ?」


 ――――何で、それを知っているの。


 そう疑問に思うも、雪は言葉を紡ぐことができない。


「……そんな君に、とてもいい話があるんだ」


 呆然としながら、少年の言葉をただ聞いていた。

 少年はにこりと笑って、雪に左手を差し出す。



「僕は、悪食あくじき。さあ、君の名前を教えて?」



 少年――悪食は、救いの手を差し伸べるかのように微笑んでいた。

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