Epilogue
Epilogue
夕ご飯は何がいいか尋ねると、雫莉は可愛らしく微笑んで「カレーがいいです。舞さんのつくるカレーは絶品ですから」と言った。だから舞はチェック柄のエプロンを借りて、雫莉のために美味しいカレーをつくることにした。
キッチンに立ち、冷蔵庫に入っている人参、じゃがいも、豚肉、玉ねぎを取り出す。そうして浅く深呼吸をしてから、ゆっくりと戸棚に入っている出刃包丁を持った。
……出刃包丁を見ると、未だに思い出してしまう。
五年前に起きた、悪夢のような七日間のことを。
でもそれは、本当に「悪夢」という言葉に相応しい出来事だった。
何故なら、死んでしまったはずの安住美乃も、龍ヶ世墨人も、夏野理聖も、龍ヶ世透も、龍ヶ世咲も――何事もなかったかのように、生きていたから。
どうしてかは、わからないけれど。
全てが、なかったことになっていた。
そして、舞の中にずっと巣食っていた殺害衝動も、綺麗さっぱりなくなっていた。
……だから舞は、自分は「悪夢」を見ていたのだと、そう思うことにしている。
野菜を水で洗い流して皮剥きを終える。それから、とんとんとん、と舞は慣れた手付きで人参を切っていく。ちらりと開いた扉の向こうに広がるリビングを見ると、雫莉が布団に寝転がりながら楽しそうに携帯をいじっていた。恋人のそんな姿に、舞は気付けば頬が緩んでしまう。
高校の卒業式の日に、二人は付き合い始めた。最初舞が告白したときは、恋愛感情がまだ余りわからないという理由で断られてしまったけれど、やがて雫莉の方から告白されたのだ。そのとき雫莉が浮かべていた可愛らしい表情を、舞はずっと忘れることができない。
同じ大学の同じ学部に進学した二人は、沢山の時間を一緒に過ごしてきた。一緒に授業を受けたり、お菓子づくりのサークルに入ったり、長期休みはバイトで貯めたお金で旅行に出掛けたり。舞の携帯は、気付けば幸せな写真でいっぱいになっていた。
時折舞は、自分がこんなに幸福であることに罪悪感を覚えた。
「悪夢」はきっと、現実だったから。
でも、舞の元気がないときは、雫莉も引き摺られるように元気を失ってしまう。
それに気付いた舞は、苦しくてもできる限り前向きに生きていくことを決めた。
人参を切り終えた舞は、じゃがいもを手に取る。
それを切る前に、もう一度雫莉の方を見た。舞はやっぱり、どうしようもなく雫莉のことが好きだった。雫莉の喜ぶ顔を想像しながら、舞はじゃがいもを切り始める。
そのとき、出刃包丁を握る舞の手が、ぴたりと動かなくなった。
え、と思う。手を動かそうとした、腕を動かそうとした、身体を動かそうとした。
でも――少しも、動かない。
理解が追い付かないでいる舞に、さらに不思議なことが起こった。
――――身体が勝手に、動き出したのだ。
舞は出刃包丁を持って歩く。
雫莉のいる、リビングへと。
――――壁に背を預けるようにして、雪蝶が笑っていた。
「……お久しぶりです、舞」
叫ぼうとするも、声すら出すことができない。
雪蝶は、雪のように温度の低い微笑みを零す。
ようやく、舞は理解する。
――――この世界に〈階層試練〉の舞台である〈裏側の並行世界〉が存在していたように、
この世界もまた、別のある世界における〈裏側の並行世界〉だったのだと――――
「しっかりと舞うことのできる蝶を、連れて来ましたから…………」
雪蝶の言葉を聞きながら、舞は雫莉の前に立つ。
雫莉の綺麗な瞳は、舞と出刃包丁を映し出していた。
雫莉は不思議そうに、愛おしげに微笑う。
「舞さん、どうかしましたか?」
逃げて、と舞は思う。
その祈りが雫莉に届くことはないであろうことに、すぐに気付く。
もしも自分の祈りを知ることができる存在がいるとしたら、それは恐らく雪蝶だ。
だから舞は必死に、許してと祈る。
許して、
許して、
許して、
許して、
許して、
…………どうか、許して、
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