八章 蝶
23
「どなた、ですか?」
不思議そうに首を傾げる雫莉は、舞が出刃包丁を持っていることに気が付いていないようだった。
綺麗な雫莉に凶器を見せたくなくて、舞は背中でそれを隠しながら、虚ろに微笑んだ。
「…………龍ヶ世、舞」
「へえ、素敵なお名前ですね。わたしは、瀬下雫莉といいます」
雫莉は優しく笑ってから、海の方を向く。
「あなたも、海を見るのが好きなんですか?」
「……雫莉は、海を見るのが好きだったの?」
「ええ、そうですよ。余り、誰かに話したことはないんですが」
「何で、話さないの……?」
雫莉は舞の方を見ると、自身の唇に人さし指を添えながら、「他の人には内緒ですよ」と微笑った。
「とても、歪な理由だからです」
「歪な理由……?」
「はい。海って、数多の
「……そうね」
舞は頷いた。
そう言われると、海は途方もなく美しいような気がした。
「つまり、海には沢山の中身があるんです。それが羨ましくて、つい、見に来てしまうんです」
雫莉はそう言って、
――――わたしが、空っぽな人間だからです。
かつて雫莉に告げられた言葉を思い出し、舞は目を見張った。
それから、「違う……」と口にする。
「雫莉は、空っぽな人間なんかじゃない」
「え」
「そんな訳がない! だって……だって貴女は、いつだって私のことを気に掛けてくれて、いつだって私のことを喜ばせようとしてくれて、いつだってすごく……綺麗、だった。誰かに優しくできる人が空っぽな訳がないの。貴女の中には、美しい色々なものが、眠っているの……」
雫莉は、不思議そうに瞬きを繰り返す。
それから舞へ、「わたしたち、どこかで会ったことがありましたか?」と尋ねた。
「うん……ある……」
「そう、だったんですか。ごめんなさい、わたしだけ覚えていなくて」
「いいの……全然、いいのよ……」
二人の間に静寂が訪れて、舞はふと海の方を見た。
赤黒い蝶の群れが、夕暮れの海の上で舞っている。蝶が憎いはずなのに、その情景は文句の付け所がないほどに美しくて、舞は一瞬だけ見惚れてしまった。それから雫莉を見て、ああ、やっぱり私はこの人のことが好きだと、そう心の底から思った。
――――舞は、背中に隠していた出刃包丁を、すっと胸の前に持つ。
ようやく雫莉は、舞が出刃包丁を持っていることに気が付いたようだった。
驚いたのか、雫莉は砂浜にとすんと尻餅をついてしまう。
舞はゆっくりと、彼女の方へと歩み寄った。
呆然としている雫莉の側に立つと、舞はすっと屈んで、
桜色の唇に、優しくくちづけをした。
波の音が一瞬、聞こえなくなったかのように舞は思う。
唇を離してから、舞は「ごめんね」と雫莉に言った。
幾つもの意味を含んだその四文字は、海に融解してしまうかのように消えていく。
そうして舞は、
出刃包丁の柄を、強く握って――――
――――自分の左胸に、深く、刺した。
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