22

 ――――靴も履かずに、舞は玄関を飛び出した。


 部屋着のままだから、冷たい空気に柔い肌を刺されるかのようだった。でもそれを気にすることなどせず、通路を走り抜けて、階段を駆け降りて、エントランスの自動ドアから外へと出た。

 逃避したかった。この辛く、残酷で、惨い現実を一瞬でいいから忘れたかった。白い息を何度も吐き出して、目的地を定めることもなくただ足を動かし続けた。


 だからそれは、本当に偶然だったのだろう。

 偶然のベールを被った、必然だったのかもしれないけれど。


 真っ赤な液体を吐き出している自動販売機の側で、白いマフラーを首に巻いた雫莉が缶のココアを飲んでいた。


「舞、さん」


 彼女は舞に気付くと驚きの表情を浮かべて、それから歩み寄ってくる。


「どうしたんですか、そんな泣き腫らした顔で。靴も、履かないで」

「雫莉、」

「何ですか?」


 首を傾げた雫莉に、舞はささやくような小さな声で言った。



「そばに、いて…………」



 雫莉はきょとんとした顔をしてから、

 ……可笑おかしそうに微笑んだ。


「わたしでよければ、喜んで」


 ◇


 舞と雫莉は、手を繋いで歩きながら色々な話をした。

 内容は取り留めのない雑談ばかりだった。舞が休んでいる間にクラスであったことだとか、雫莉が今度ホールケーキづくりに挑戦してみたいと思っているだとか、お互いがSNSで見掛けた面白い話題だとか、そういう話。

 世界は壊れかけだった。時折肉塊が散らばっていて、時折真っ赤な水溜りがあって、時折目が沢山あったり口が沢山あったりする人が歩いていた。



 壊れかけの世界で語る取り留めのない雑談は、真っ暗な夜空に浮かぶ美しい星々のように、どうしようもなく綺麗な輝きを放っていた。



 やがて、雪が降り出す。舞にもそれは小さな白い粒に見えた。嬉しかった。

 日が暮れて、それでも二人は歩き続ける。

 暫くして、会話が途切れるときがあった。


 あのね、と舞は言った。何ですか、と雫莉は答えた。


 舞が立ち止まると、つられるようにして雫莉も歩くのをやめる。

 二人だけの時間は、雪の香りに包まれていた。

 舞は、切なげに微笑んだ。

 伝えることは間違っているのかもしれないけれど、もう、伝えずにはいられなかった。




「…………私ね、雫莉のことが、」




 ――――気付けば、夕暮れの海が広がっていた。



 舞の目の前には、変わらず雫莉が立っている。



 出刃包丁の刃は、橙色と青色を反射して寂しげに輝いていた。



 舞はくしゃりと表情を歪めながら、忌々しげにぼそりと言う。



「…………ほんとに、性格悪い…………」





 ――――さあ、最後の〈階層試練〉が始まる。

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