18

「龍ヶ世さん、何を見ているの……?」


 気付けば舞の隣に理聖が立っている。


「あ…………」

「ああ、もしかして夕焼けかしら? 本当に綺麗よね。わたし、ここから見る夕焼けが大好きなの」


 理聖は舞に微笑みかけてから、愛おしげに窓の外を眺める。

 舞には、理聖が赤黒い世界を瞳に映しているようにしか見えない。赤黒い蝶の群れは、理聖には透明な蝶の群れなのだろうか……?

 舞は少し逡巡しゅんじゅんしてから、理聖と同じように窓の向こうと目を合わせる。

 逃避すればいいと思った。

 夏野先生を殺すくらいなら、この場所でずっと、夏野先生と…………

 そう考えていた舞は、を目にして目を見張る。



 一羽の赤黒い蝶が群れから抜け出して、窓ガラスをすり抜けて舞の元へ羽ばたいてくる。



 赤色と黒色の鱗粉りんぷんを溢れさせながら、蝶は驚きの表情を浮かべた舞の顔へと近付く。

 そうして、赤黒い蝶が舞の右頬に触れると。


 その頬に、途轍とてつもない激痛が走った。


「い゛っ……」


 舞は右頬を手で押さえ、鈍い悲鳴を漏らした。

 皮膚がただれたような痛みだった。炎で皮膚を直接焼かれているかのように思った。余りにも痛くて、舞の瞳に大粒の涙が浮かぶ。

 そうしているうちにも、二羽目、三羽目の赤黒い蝶が舞目掛けて飛んでくる。それぞれが舞の脇腹、左の太腿ふとももに触れると、また酷い痛みが舞を襲った。


「あ゛ぁ、……う゛あぁ…………!」

「どうしたの、龍ヶ世さん……!?」


 理聖が心配そうな面持ちを浮かべて舞に歩み寄ってくる。舞が理聖の方を見ると、彼女の後ろで何羽もの赤黒い蝶が舞っていた。舞はさっと青ざめる。


「や…………やだ…………」


 舞はがたがたと震えながら、ぎゅっと目を閉じた。

 痛みを覚悟したつもりだった。


 ……でも、結局舞を包んだのは、遠い昔にも感じたことのある柔らかな温もりで。


 目を開いた舞は、自分が理聖に抱きしめられていることを知る。

 そして、今もなお、幾つもの赤黒い蝶が舞を監視するように羽ばたいているのを見る。

 耳元で、理聖の優しいささやきが聞こえた。


「大丈夫よ……怖いものなんて、何にもないわ。大丈夫だから、どうか落ち着いて……」

「違、くて……怖いもの、あるんです、いるんです、」

「そうなの? そっか。わたしには見えないけれど、龍ヶ世さんには何か見えているのね。どうすれば、見えなくなるかしら? こうしてぎゅっとしていれば、消えるもの?」


 答えようとした舞は、自分の右手に出刃包丁が握られていることに気付く。


 ――――それが答えを示しているのだと、舞は理解した。


 赤黒い蝶が、少しずつ舞の視界で大きさを増していく。

 狂おしいほどの痛みが恐ろしくて、舞は縋るように理聖へと言葉を紡いだ。


「消えないんです、それだと、」

「そうなのね。どうしたら消えるのか、わかる?」

「……言えない、言えないです、」

「大丈夫よ。何て言われたとしても、わたしはそれを受け入れるわ。だから……信じて」


 舞は、つうと瞳から涙を流す。

 二度目の「信じて」は、一度目の「信じて」と同じくらい、綺麗な響きだった。

 気付けば舞は、口を開いてしまう。


「夏野先生を……ころせば、消えます」

「わたしを殺せば、消えるの……?」

「はい……そうなんです……ごめんなさい、ごめんなさい……」


 謝罪を繰り返す舞の頭を、理聖はゆっくりと撫でた。

 ふふ、という理聖の微かな笑い声が耳元で響く。



「――――そうしたら、わたしを殺していいわ」



 理聖の言葉に、舞は深く目を見張った。


「そんな……何で、そんなこと、言えるんですか……」


 舞が問うと、「簡単なことよ」と理聖は微笑う。



「……わたしね、ずっと、酷い希死念慮に悩まされて生きているの」



 理聖の声は、少しだけ掠れていた。


「ちょっとだけ、昔話をさせて。幼い頃、お母さんとお父さんが離婚してね……それから、わたし、お母さんと暮らしていたの。わたしはだめな子だったから、お母さんに沢山怒鳴られて、沢山殴られて、沢山否定されて育ったの。そうしたら……子どもの頃も、大人になっても、自分の価値をほんの少しも見つけられなくって。だからわたしね、ずっと、死にたいの」

「そんな……嘘、ですよね……?」

「嘘じゃないわ」


 そう言って、理聖は舞を抱きしめていた腕をそっと離す。

 それから、白衣の袖をまくった。



 ――――晒された左腕には、数え切れないほどの真っ白な細い傷跡が刻まれていた。



 舞は呆然と、理聖の左腕を見つめる。

 思い返せば理聖は、春も、夏も、秋も、冬も――、長袖の白衣を身に纏っていた。

 深く考えていなかったその事実に隠されていた意味を知り、舞はただ呼吸を繰り返すことしかできない。

 ね、と理聖は寂しそうに笑った。


「だからね、わたしの生命いのちで誰かの生命が救われるなら、わたしの生命をあげたいの。それが、わたしがずっと望んでいた、一番幸せな死に方なのよ」

「そん、な…………」


 口角を歪めた舞へ、静止していた赤黒い蝶が何羽も、何羽も迫り来る。

 蝶たちは容赦なく舞を焼く。保健室に舞の悲鳴がとどろく。


「あ゛あ゛あ……あ゛ぁあぁ…………!」


 蝶の猛攻が終わり、舞は泣きながら荒い呼吸を繰り返す。


「痛い…………よお…………」


 涙で歪んだ視界の先で、理聖が舞へ手を差し伸べていた。

 聖母のように優しい微笑みを浮かべながら、「龍ヶ世さん」と告げる。



「――――もう、頑張らなくていいのよ」



 ぼろぼろの舞は、気付けば理聖の方へ一歩踏み出していた。


「…………本当に、」

「うん」

「本当に……私に殺されるのが、一番幸せな死に方、なんですか……?」

「そうよ。だから、お願い」



 わたしを、殺して。



 そう告げた理聖の瞳を真っ直ぐに見つめながら、

 唇を引き結んで静止していた舞の元に、

 また赤黒い蝶たちが羽ばたいてきて、

 おぞましい痛みを思い出した舞は、

 理聖の優しさに引き寄せられるように、

 叫びながら出刃包丁を振りかざして、

 ああ、視界が、




 ――――あかく、そまった。




 左胸から血を流して倒れる理聖を、舞は強く抱きしめている。


「ごめんなさい…………夏野先生…………ごめんなさい…………」


 理聖は可笑おかしそうに淡く首を横に振った。


「謝る必要なんてないわ……むしろ、お礼を言わせて……殺してくれて、ありがとう」


 舞の瞳から零れた涙が、理聖の目元から頬へと滑り落ちる。


「…………一つだけ、聞いても、いいですか?」

「いいわよ……何、かしら」

「……私とずっと仲良くしてくださっていたのも、私に殺されたかったからですか?」

「……それは、いつの、話? 夢の中、とかかしら……?」

「そんな、感じです……」


 理聖は少しの間、考える素振りを見せる。

 それから、美しく微笑んだ。


「それも、あったのかも、しれないけれど……そうじゃない、理由も、絶対にあったはずよ……」


 そう口にして、理聖は事切れる。

 舞は理聖の亡骸なきがらを、慈しむように抱きしめていた。

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