五章 あなたからの愛
15
舞は墨人の通夜に参列していた。
僧侶の
焼香の順番が近付いてきて、舞はゆっくりと椅子から立ち上がる。
俯きながら列に並び、浅い呼吸を繰り返した。
順番が訪れ、舞は遺影を余り見ないようにしながら、焼香を行う。
早く自分の椅子へと戻ろうと、舞は祭壇に背を向けた。
参列者は皆、真っ赤な涙を流していた。
ぼたぼたと、喪服に赤色の雫が落ちてゆく。地面には幾つもの赤い水溜まりができている。その赤はとても、……墨人が流した血の色に似ていて。
舞は小さく首を横に振って、靴を赤色で汚しながら自席へと歩き出した。
◇
「……舞。美味しくないのか?」
目の前に座る父親の透にそう尋ねられて、舞ははっと目を見開いた。
通夜振る舞いの時間だった。
舞の目にはその食事が人の臓物のようにしか映らなかった。脳味噌、心臓、胃、肝臓、腎臓、腸――何度瞬きしても、臓物は臓物のままだった。
舞は苦しそうな表情を浮かべて、口を開いた。
「ごめん……ちょっと、体調が悪いみたいで。全然、食欲がなくて……」
舞の言葉に、隣に座っていた母親の咲が心配そうな面持ちを浮かべる。
「そうだったの? 気付かなくてごめんね、早く言ってくれればよかったのに。最後までいられそう?」
「いられる、けれど……ごめん、少し、外の風を浴びてくる」
「一人で大丈夫か?」
透の優しい言葉に、舞は思わず泣き出してしまいそうになる。
それを微笑みで繕いながら、「うん、大丈夫」と口にして席を立った。
◇
夜空は分厚い曇り空に覆われていて、星は少しも見えなかった。
葬儀場の前には大きな広場があって、そこに一つのベンチが設けられている。舞はそこに腰掛けると、深く息を吐いた。
ふと、大きな蝿が自分の右手に留まっていることに気付く。
容赦なく殺した。蝿の残骸を左手で払って、それでも僅かしか満たされない衝動を強く憎んだ。
「ようやく折り返し地点まで来ましたね、舞」
気付けば、舞の隣に雪蝶が座っている。
浴衣姿で脚を組むものだから、酷く白い脚の肌が空気に晒されていた。
雪蝶は舞の顔を覗き込むようにしながら、柔らかく微笑んだ。
「後三度の〈階層試練〉を乗り越えれば、貴女は晴れて〈高位の存在〉となれるのです……うふふ、そうすれば、貴女とわた」
「説明して」
雪蝶の言葉を遮るように、舞はそう告げた。
雪蝶はほのかに目を見開いてから、「……何を?」と笑って首を傾げる。
舞は険しい目付きで雪蝶を見た。
「……聞き方を変える。今から私が尋ねることに、答えて」
「……以前、お伝えしたでしょう? 舞、貴女は知りすぎない方がいいのですよ……」
「それでも!」
舞は両手を握りしめて、大きな声を出す。
表情を歪めながら、舞は再び口を開いた。
「それでも……耐えられそうにないの。貴女の言う通り、知りすぎない方がいいのかもしれないけれど……限界よ。説明できないのだとしたら……これからのこと、少し、考えさせて」
少しの間、雪蝶は沈黙していた。
それから、いつものように微笑みを浮かべる。
「わかりました……そこまで仰るのであれば、お答えしますよ」
舞は頷いて、雪蝶と目を合わせる。
「私が、あの世界で殺した人は……この世界でも、死んでしまうの?」
「ええ……〈階層試練〉中はこの世界と〈裏側の並行世界〉を結んでおり、結ばれている際に〈裏側の並行世界〉で失われた
首肯する雪蝶に、舞は歯を噛み締める。
「どうして、最初に教えてくれなかったの……」
「言えば、貴女は〈階層試練〉を受けることを
「それは、そうだけれど……でも……別にそれでもいいじゃない」
「何もよくありませんよ」
「何で!」
声を荒げる舞に、雪蝶は綺麗に微笑んだ。
「では……〈階層試練〉を受けずに人間のままでいた舞は、幸福になれるのですか?」
その言葉に、舞は虚ろな眼差しをする。
雪蝶は表情から微笑みを消して、淡々と話し始める。
「正解を教えてさしあげましょう……幸福にはなれません。私がこの世界の貴女に干渉しなかった場合、貴女は二十歳のときに衝動を堪え切れなくなり、深夜に一軒家へ忍び込むと、五人家族を一人残らず殺してしまいます。満たされた衝動に
雪蝶の問いに、舞の瞳に涙がじわりと滲んでいく。
「…………嫌……そんな風に終わるなんて、嫌よ……」
「そうでしょう? 私も同意見です」
それに比べればずっといいと思いませんか、と雪蝶は微笑んだ。
「たった七人殺すだけで、貴女は救われるのです。〈高位の存在〉となってしまえば、もう、直しさえすれば殺すことを許容されるのですから……舞、もう少しなのですよ。もう少し頑張るだけで、貴女はもう、頑張らなくてよくなるのですよ……」
舞は透明な涙を流しながら、そっと頷く。
「さて……他に何か、聞いておきたいことはありますか?」
雪蝶に問われるも、舞は最早何も質問したいとは思えなかった。
首を横に振った舞に、雪蝶はベンチから腰を上げる。
「私としても、貴女に長い間辛い思いをさせるのは心苦しいのです……ですから、残り三度の〈階層試練〉は、明日のうちに全て終わらせてしまいましょう……」
そこまで口にして、雪蝶はくるりと振り返ると、ベンチに座って泣いている舞に歩み寄り、優しく抱きしめた。濃い血のような香りに、どこか懐かしい香りがほんの少しだけ混ざり合っているような気がした。
「舞。私は貴女の、絶対的な味方ですよ……」
そんな言葉を残して、雪蝶は夜に溶けていくように姿を消す。
一羽の赤黒い蝶が、両手で涙を拭う舞の肩に留まった。
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