14

 広大な夜空に包まれたベランダの柵にもたれかかりながら、舞はマカロンの入った透明な袋へと手を入れた。

 ピンクのマカロンを出して、目を合わせる。

 どれだけ見つめていても、マカロンが人間の指に変貌へんぼうすることはなかった。


 ふと、衝動が強く疼いていることに気付く。

 雫莉と別れてから、自然公園で大量のてんとう虫を踏み潰したというのに。

 舞はマカロンを抉るように齧って、表情を歪める。


「どうしちゃったの、私……」

「気にすることはありませんよ、舞」


 目の前にいきなり雪蝶が現れるものだから、舞は危うくマカロンを地面に落としてしまうところだった。


「驚かさないでって言ってるじゃない、雪蝶……!」

「あら、別に驚かせたつもりは……」


 雪蝶は、ぴたりと言葉を紡ぐのをやめる。

 それから酷く苦々しげな表情を浮かべた。雪蝶がそんな顔をしているのを見たのは初めてで、舞は思わずどきりとしてしまう。


「どうかしたの……?」


 舞がそう問い掛けると、雪蝶ははっとしたようになり、すぐにいつものように微笑んだ。


「ああ、すみません……お菓子が気になってしまって」

「このマカロンのこと? 嫌いなの?」

「ええ……」


 雪蝶はそれだけ言って、にこりと笑う。

 何だか申し訳なくなって、舞は持っていた食べかけのマカロンを口の中に押し込むと、マカロンの入った袋を雪蝶から見えないであろう位置で持った。


「……さっき、『気にすることはない』って言っていた?」

「ええ、そうですよ……何故なら、認知の歪みや衝動の肥大化が生じているのは、〈高位の存在〉へと近付いている証拠だからです」

「……そうなの?」

「ええ。貴女の意識は、現実である〈表側の並行世界〉と別世界である〈裏側の並行世界〉を行き来している――それによって、精神に強い負荷が掛かっているのです。また、〈高位の存在〉に近付いている者には、それ相応の印が与えられるもの。そういった理由で現在生じているだけであり、〈高位の存在〉となってしまえばそうした事象は解消されます」

「そう、なのね……」


 頷いた舞に、雪蝶は「それに」と微笑んだ。



「――――貴女は歪んで見える世界を、心の底では美しいと思っているではありませんか」



 舞は、目を見開いた。

 雪蝶はゆっくりと、舞に顔を近付ける。


「血液のような水も、人の指のようなマカロンも、肉片のような花弁も、溶けかけの顔も、臓物のようなケーキも……貴女は唐突に現れたから驚いているだけで、本当のところは愛おしいのでしょう? うふふ、私は全て存じ上げていますよ……」


 舞は雪蝶から目を逸らしながら、掠れた声で言う。


「……何で、わかるの……」

「それくらいわかりますよ……何故なら私は、貴女の一番の理解者ですから」


 気付けば舞と雪蝶の周りで、数多の赤黒い蝶が舞っている。



 三回目の〈階層試練〉が始まろうとしている。



 それを察した舞は、「ま……待って……!」と口にした。


「聞きたいことがあるの……! その、安住琴」


 雪蝶は自身の唇に立てた人さし指を沿わせる。

 お静かに――まるで、そう告げているかのように。

 その言葉に強制されるかのごとく、舞の意識は薄れてゆく。


 ◇


 舞は夕暮れの世界の中に立ち尽くしていた。

 それは、一回目と二回目の〈階層試練〉も同じだったけれど。

 違ったのは、舞が建物の中ではなく外にいることと、


 ――――舞はこの場所を知っているということ。


 祖父である龍ヶ世墨人すみひとの家の庭に、舞は立っていた。




 舞は墨人のことが苦手だった。

 幼い頃、墨人の妻である桜子さくらこが亡くなってから、舞は母親の咲に連れられてよく墨人の家を訪れた。

 墨人はいつも仏頂面を崩さず、幼い舞の行いをよく注意した。挨拶の声が小さいとか、食事のマナーがなっていないとか、そういう些細な振る舞いを。

 帰り道、墨人への不満を零す舞に、咲は困ったように微笑んだ。


「おじいちゃんはね、不器用な人なの。厳しいけれど、本当は優しいのよ」


 だから嫌いにならないであげて、と咲は舞の頭を撫でながら言った。

 舞としてもそうしたかったけれど、中々苦手意識は拭えなかった。

 舞が歳を重ねていくにつれ、墨人とはお正月やお盆といった行事で顔を合わせるくらいの関係性となり、心のどこかで舞はそのことに安堵していた。




 自身の右手に握られている出刃包丁と目を合わせながら、舞はぼんやりと墨人との苦い記憶に浸る。


「舞……来ていたのかい?」


 後ろから声を掛けられて、舞は反射的に出刃包丁を隠しながら振り向いた。

 墨人が、立っている。

 真っ白な髪に、曲がった腰。間違いなく、墨人だった。

 けれど舞は、どうしようもない違和感を覚える。


 ――――何故なら、彼がとても柔らかい微笑みを浮かべていたから。


 記憶の中の墨人ならば、絶対にしないであろう表情だった。


「連絡をくれればよかったのに……そうしたら、舞のために美味しいお菓子を買っておいたよ」


 墨人は微笑みながら、ゆっくりと舞の方へ歩み寄ってくる。

 橙色の光の粒が、白い髪の上で淡くきらめいていた。

 やがて墨人は立ち止まり、舞の頭へとそっと手を伸ばす。

 反射的に舞は後ずさった。その反応に、墨人は寂しそうに目を細める。


「もう、儂に撫でられるのは嫌な年頃だったかな。ごめんよ、舞」


 そんな温かい言葉に、舞は心をざらりと撫でられたように思う。

 出刃包丁を握りしめながら、(早くおじいちゃんを殺さなければ)と考えた。そうしなければ、舞は〈高位の存在〉になることができないから。

 ……けれど。

 舞は安住琴乃と安住美乃のことを思い出す。

 嫌な予感がした。


 


 正確には、わからないけれど。

 大方、予想はつく。

 何も言わないでいる舞に、墨人はにこりと笑いかけた。


「舞、どうかしたのかい? 悩みがあるのなら、遠慮なく儂に教えておくれ」


 墨人の優しい眼差しに、気付けば舞の手からぽとりと出刃包丁が落ちていた。

 芝生に落ちた銀色のそれに、墨人は気付いた様子はない。

 舞は俯いて、きゅっと唇を噛む。

 殺したい。〈高位の存在〉となるためにも、うごめく赤黒い衝動を満たすためにも。

 でも、それと同じくらい……いや、それをほんの少し上回るくらい、殺すのが怖かった。

 長い静寂の後で、また墨人が口を開く。


「顔を上げておくれよ、舞」


 そう告げられて、舞はゆっくりと顔を上げた。



 墨人に何度も殴られた記憶を思い出した。



 舞は目を見開いた。

 祖母の桜子の形見である綺麗なお皿を幼い舞はうっかり割ってしまって、激情した墨人は舞の頭を何度も殴る。舞が泣き出しても、ごめんなさいと謝罪の言葉を口にしても、墨人は暴力を振るうのをやめようとしなかった。お手洗いに行っていた咲が戻ってくるまで、その地獄のような時間は続いた。


 舞は自分の血液がすっと冷えていくような感覚に包まれる。どうして今まで、この記憶を思い出さなかったのだろうか。そうだった。この男は、「本当は優し」くなんてない。理由があるといえど、子どもを躊躇ちゅうちょなく殴る屑だったじゃないか――――



 舞は、墨人に微笑みかける。



 それは偽りの微笑みだ。獲物に警戒されないようにする甘い飴のような微笑み。

 墨人は安堵したように微笑み返してくれた。舞はそんな彼に一度背を向けて、落ちている出刃包丁を拾うと、振り返って墨人の腹を、右目を、首を、右胸を、左脚を、右脚を、右脚を、左脚を、刺した。


「おじいちゃん、私ね、あのとき、すごく痛かったの……」


 くらい目をしながら、舞は苦悶の表情を浮かべる墨人へ伝える。その間にも、まだ刺していない箇所に出刃包丁を突き立てながら。


「痛かったんだよ……」


 そう告げる頃には、墨人はもうぴくりとも動かなくなっていた。

 夕焼けが、返り血を浴びた舞の姿を綺麗に照らしていた。


 ◇


 目を覚ました舞は、ベランダの柵に座っている雪蝶の姿を見た。

 満月の明かりを浴びて、雪蝶の長い黒髪は淡くきらめいている。


「大変ご苦労様でした、舞…………」


 微笑んだ雪蝶の前で舞は視線を落として、ぼんやりと先程までの〈階層試練〉のことを思い出した。

 この世界の墨人は、やはり死んでしまうのだろうか……?

 別に、それでもいいような気がした。だって墨人は、幼い舞を何度も殴――――



 ――――殴られたことなんて、ない。



「…………え」


 舞は、言葉にならない声を零す。

 殴られたことなんてない。

 殴られたことなんてない。

 殴られたことなんてない。

 殴られたことなんてないのに、

 どうして。


「ゆき、ちょ…………」


 表情を歪めた舞が、名前を呼ぶ頃には。

 雪蝶はにっと赤い唇をつり上げて、体重を後ろに掛けて落ちていく。

 舞は目を見張って、ベランダの柵に駆け寄るとその下を見た。


 遠くの地面には雪蝶の死体など存在しなくて、幾つもの赤黒い蝶が舞を嘲笑うかのようにゆらゆらと踊っていた。

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