四章 歪み

11

 舞は朝の通学路を一人で歩いていた。

 彼女の呼吸は少しばかり乱れている。

 それもそのはずだった。普段は午後から夜に掛けて酷くなる衝動が、今日は既に大きなものとなっていたから。


「何で…………」


 表情を歪めながら、舞はそうやってひとりごちる。

 昨日も、一昨日も別の世界とはいえ人を殺したというのに、衝動は満ちるどころか肥大化している。制御できない欲望に苛立って、舞はローファーで道に転がっている石を蹴った。

 冷静になろうと、舞は立ち止まって胸に手を当てながら深呼吸する。


「大丈夫…………もうすぐ、全部が大丈夫になるから…………大丈夫…………」


 自分に言い聞かせるようにして、そう呟いた。

 そのとき、コートのポケットに入れておいた携帯から通知音が鳴る。

 何だろうかと思い、舞は携帯を取り出して画面を点ける。

 どうやら、理聖からメッセージが届いているようだった。メッセージアプリを開き、内容を確認する。


〈おはよう。調子はどうかしら?〉


 短い文面だったけれど、気に掛けてくれたという優しさが舞の傷んだ心にじわりと沁みた。

 歩くのを再開しながら、舞は片手でメッセージを打つ。


〈夏野先生、おはようございます〉

〈心配してくださってありがとうございます〉

〈実は今、結構しんどくて〉


 すぐに、理聖からの返信が届く。


〈そうなのね。それは大変だわ〉

〈今、時間があったりするかしら〉

〈通話でよければ、話を聞かせてほしいの〉


 余りの優しさに、それだけで舞は救われたような気がした。

〈いいんですか?〉と送ると、〈勿論もちろんよ〉という言葉が返ってきて、それから画面に理聖からの着信が来た旨が表示される。舞はそっと電話に出た。


『……もしもし、龍ヶ世さん?』

「はい、龍ヶ世です……ありがとうございます、夏野先生」


 思わず、声が掠れた。


『お礼なんてとんでもないわ。明確な理由があった訳ではないけれど、少し心配になったの……わたし、こういう勘はよく当たるのよね。それで、何かあったりしたのかしら?』


 理聖の言葉に、舞はいつものように真実を語ろうとする。

 そうして、今はそれができないことに気が付いた。

〈高位の存在〉とか〈並行世界〉とか〈階層試練〉とか、そういう話をしても荒唐無稽こうとうむけいだと思われてしまうだろう。自分が理聖の立場なら、簡単に信じられるとは考えられない。

 それに――違う世界とはいえ、本当に人を殺してしまったと、知られたら……


『龍ヶ世さん?』


 理聖の声が耳元で響く。何か言わなければ、そう思って舞は何とか口を開く。


「私……夏野先生に、嫌われたくないんです……」


 紡げた言葉は子どもの我儘わがままのような幼稚さだった。それでも、舞はそう言わずにはいられなかった。それは彼女の心からの願望だったから。

 ふふ、という優しい笑い声が携帯から聞こえた。舞は驚いて、淡く目を見張る。


『嫌わないわ。わたしが龍ヶ世さんを嫌いになるなんて、有り得ない』

「…………何で、ですか」

『もうすぐ四年の付き合いになるのよ? それだけの時間言葉を交わしていれば、相手がどんな人間かって見えてくると思うの。龍ヶ世さんはね、とても生き辛そうで、それでも頑張って生きようとしている、美しい人よ』


 舞は唇を噛んだ。

 舞にはもう、自分が「頑張って生きようとしている」とは思えない。

 だって、人間であることをやめようとしているのだ。


「ごめんなさい、夏野先生…………私、もう、夏野先生の思うような人間じゃないんです…………」

『そうなの? そっか、それでも、わたしはあなたを嫌いになったりしないわ』

「そんなことないです……全部知ったら、絶対、嫌いになる……」

『龍ヶ世さんはそんなに、わたしからの愛が信頼できない?』


 理聖の言葉に、視界がぼやける。


『いいのよ、話したくなければ何も話さなくていいわ。でも……わたしの愛を信じることだけは、してほしいの。わたしはね、龍ヶ世さんを大事に思う気持ちを、龍ヶ世さんに疑われてしまうと寂しいわ。もしかすると、難しいのかもしれないけれど……どうか、信じて』


 気付けば涙がぼろぼろと溢れ出す。

 舞は涙を左手で拭いながら、口を開いた。


「信じ、ます……私も、夏野先生のことが、すごく大事です……本当に、大事で……」

『よかったわ。わたしも、龍ヶ世さんがとっても大事。かけがえのない人よ』


 舞は泣きながら微笑った。

 それから、寒い世界を歩きながら、温かな理聖と他愛もない雑談をした。

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