10
舞は見知らぬ部屋のクッションに座っていた。
白色と水色を基調とした部屋だった。二つのマグカップとチョコレートの入った箱が置かれたローテーブル、少しシュールな絵柄の犬のぬいぐるみが乗っているふかふかのベッド、舞の現実と同じ二月を示している壁掛けカレンダー――そんな風景が、舞の目に飛び込んでくる。透明なレースカーテンから差し込む陽の光は、あの図書館と同じように橙色だった。
「舞ちゃん? どうかしたの」
声を掛けられて、ようやく舞は自分の左隣に一人の人間が座っていることに気が付いた。
肩の辺りでセミロングの髪をぱつんと切り揃えた少女だった。前髪のサイドを留めている空色のバレッタは、どこか
何も言わないでいる舞に、少女は
「静かな舞ちゃんも、可愛い」
この人も、自分のことを知っている……
けれど、不思議なことに。
かつての少年とは違って、舞はこの少女に微かな見覚えを感じていた。
どこかで会ったことがあるのだろうか? それともただ、雫莉に雰囲気が似ているから、そのように感じるだけなのだろうか?
ぐるぐると思考する舞に、少女は優しく笑う。
「本当に静かになっちゃった」
そう言って、少女は舞の左腕に絡み付いた。柔らかな肉の感触に、舞の衝動が強く疼く。
……そんな衝動を正当化するかのように、目の前にあるローテーブルにいつの間にか出刃包丁が置かれていた。
舞は目を見開いた。鈍く輝く出刃包丁と数秒間目を合わせて、それから恐る恐る横の少女を見る。彼女は綺麗な瞳をまぶたの奥に隠していて、突如として生まれた凶器に気付いた様子はなかった。
舞は
舞が動いたことに気付いた少女が、そっと目を開いた。舞は彼女に見えないように出刃包丁を隠しながら、少女の澄んだ瞳を見つめた。
「舞ちゃん、どうかした? 何だかすごく、怖い顔をしてる……」
とん、と舞は少女の肩を強い力で押した。少女の身体が後ろへと倒れていく。舞は彼女に覆い被さるようにして、左胸に出刃包丁を突き立てた。少女の顔が苦痛に歪む。一瞬覚えた「ごめんなさい」の気持ちは、すぐに赤黒い衝動に流されていった。出刃包丁を抜くと、少女の着ていたニットワンピースに真っ赤な染みがどんどん広がっていく。舞は虚ろな目で、少女のことを見つめていた。
すると……少女が、弱々しい力で舞の背中に両腕を回した。
残された僅かな力を振り絞っているようだった。少女は瞳に涙をいっぱいに浮かべながら、舞へと顔を近付ける。澄んだ夜の瞳が鮮やかに舞を映し出していた。
――――舞と少女の唇が、一瞬だけ触れ合った。
呆然としている舞に、少女は心の底から愛おしそうに微笑んだ。
「…………舞、ちゃん…………大好き」
◇
自室にも夕陽が差し込んでいたから、舞は一瞬現実と別世界の区別が付かなかった。
雪蝶は壁に背を預けながら、にこやかに舞のことを見つめている。
真っ赤な唇が、開かれた。
「今回も非常に美しかったです、舞……」
雪蝶の賛辞の言葉など欠片も響いた様子もなく、舞は口角を歪めた。
「ねえ、雪蝶…………」
「どうかしたのですか、舞?」
雪蝶は真っ直ぐに舞を見ている。底の見えない穴のように黒い瞳だった。
舞は右手を顔の辺りに添えながら、掠れた声で言う。
「もしかしたら、私……殺してはいけない人を殺しているんじゃないかって……ああ、いや
雪蝶は「では」と告げて右手の人さし指を立てた。
「貴女は角井廉斗のことを知っているのですか?」
最初の少年の名前を口にした雪蝶に、舞はゆっくりと首を横に振る。
雪蝶は人さし指をそのままにしながら、中指も立てる。
「それでは、
舞はもう一度、首を横に振った。
雪蝶は手を下ろして、ふふっと微笑う。
「それならば……どうでもいいでしょう?」
強い語気で言い切った雪蝶に、最早舞は頷くことしかできなかった。
雪蝶は舞へと顔を近付けて、そっと目を細める。
「いいですか、舞……どうでもいいことはどうでもいいと思い、そして、どうでもよくないこともどうでもいいと思うのです……後五人殺すだけで、貴女は〈高位の存在〉となることができるのですから…………」
そこまで言って、雪蝶は舞の唇に人さし指を添えた。
「…………だからもう二度と、あんなことはしないでくださいね」
雪蝶の声は珍しく、ほのかに震えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます