09

「次は滑り台を沢山滑ります」


 どこかうきうきした様子を見せる雫莉と再び手を繋ぎながら、舞はそっと微笑む。

 そのとき、雫莉の足がぴたりと止まった。

 彼女の綺麗な瞳に何かが映り込んで、そこから離れようとしないのだった。舞は不思議に思って、雫莉の視線の先を確認する。


 つやを失った黒い翼、

 閉じられた瞳、

 ぴくりとも動かない体、

 烏の死骸、

 だった


「……珍しいですね」


 目を細めながらそう言った雫莉の隣で、舞はくずおれた。


「え、舞さん、どうしたんですか?」


 雫莉の言葉をただ音の集合として聞くことしかできないまま、舞は両手に顔を埋めて呼吸を荒くする。冬だというのに、全身に汗が滲んでいく。

 雫莉はばっと屈んで、舞へと言葉を掛ける。


「体調が悪いんですか? あそこにベンチがありますから、そこまで移動できますか?」


 何とか意味を把握することができた舞は、か細い声で、「…………うん」と告げた。




 それは、舞が中学二年生だった頃。

 放課後、いつものように虫を殺そうと思って歩いていたときだった。


 ――――通り掛かったごみ捨て場に、一羽の烏がいた。


 ごみを漁っているというのに、夕陽に照らされる黒い翼の輝きが綺麗だった。美しい生命いのちだった。舞は少しの間、そんな烏を眺めていた。

 舞の周囲には人がいなかった。舞の足元には大きな石があった。舞の衝動は満ちていた。

 気付けば舞は、烏に向けて石を投げていた。


 余程ごみ漁りに夢中だったのだろう、烏は石を避けることができなかった。体がぐらりと傾いた。舞は走り出して、烏の近くに落ちていた石を拾い上げて、殴る。烏が叫ぶ。殴る。羽が飛ぶ。殴る。血が付着する。殴る。肉がえぐれる。殴る。烏が動かなくなる。


 そうしてようやく、舞は手を止めた。

 ぐちゃぐちゃになった烏の死骸がそこにある。


「あ…………あ、」


 言葉にならない声を漏らした。

 初めて虫以外の生物を殺した彼女に生まれた最も大きな感情は、……罪悪感だった。

 舞は血のついた石を放り投げて、だっと駆け出す。

 後には、殺された烏が残された。




 ベンチに座りながら舞は顔を下に向けて、長い黒髪をだらりと垂らしていた。

 そうしていると少しずつ落ち着いてくる。冷静さを取り戻してきた頭で、雫莉に心配を掛けてしまったことへの申し訳なさを思った。


「舞さん」


 名前を呼ばれて、舞は顔を上げる。

 目の前に雫莉が立っていた。彼女はそっと、舞へと何かを差し出す。



 ――――真っ赤な液体が入ったペットボトルだった。



 え、と舞は思う。

 一度瞬きした。

 するとそこには、透明な液体が入ったペットボトルがあった。

 赤色なんて欠片もなかった。清らかな透明だった。ラベルにも水と書かれていた。

 見間違い……?

 怪訝けげんそうな顔付きを浮かべる舞へ、雫莉は微笑う。


「お水を買ってきました。よければ飲んでください」

「あり、がとう…………」


 舞はペットボトルを受け取って、ゆっくりとキャップを開いた。少しだけ逡巡しゅんじゅんしてから、飲み口に口を付ける。喉に流し込まれた液体は、普通の水の味だった。


「体調、大丈夫そうですか?」

「うん……だいじょう、ぶ」

「よかったです。でも、少し休んでいきましょうか」


 雫莉はそう言って、舞の隣に腰を下ろす。

 それから、舞の肩に頭を預けた。

 茶色の髪から、シャンプーの優しい香りがした。


 ◇


 雫莉と別れた舞が自宅に帰ってくる頃には、日が傾いていた。


「ただいま」

「おかえりなさい」


 目と鼻の先に雪蝶がいて、舞は小さな悲鳴を上げる。


「ゆ、雪蝶……驚かさないで」

「ああ、失礼しました……驚かせるつもりは全くなかったのですが」


 雪蝶はそう言って、ふふっと微笑う。

 舞はふうと息をついてから、「……もしかして」と口にする。


「二回目の〈階層試練〉……?」

「うふふ、その通りです。流石舞、察しがよくて大変助かります」


 胸の前で両手を合わせながらにこやかに言う雪蝶に、舞は沈黙する。

 違う世界とはいえ人の生命いのちを奪っている罪悪感、雪蝶は知っていて自分は知らない情報が確実に存在する恐怖感、また衝動を満たせる時間への安心感、これを続けていれば〈高位の存在〉になれるという期待感――数多の感情が、心の中でミキサーにかけられているかのようだった。


 けれど、こうして俯いていても何も進まない……舞は自分を奮い立たせて、ゆっくりと頷いた。


「わかった……手を洗ってくるから、私の部屋で少し待っていてくれる?」

「わかりました」


 舞は靴を脱ぐと揃え、それから洗面所へと向かう。石鹸を使って手を洗い、うがいを済ませて自室へと戻る。

 そうして舞は、雪蝶が立ち尽くしている姿を見た。


 雪蝶の視線の先には写真立てがある。そこに飾られているのは、幼い頃、両親と舞でチューリップの花畑に行ったときの写真だ。色とりどりの綺麗なチューリップに囲まれながら、右手を父親の透、左手を母親の咲と繋いだ舞が、満面の笑顔で写っている。


 舞はこの写真が好きだった。幸福という概念を形にしたような一枚だから。歪み切った自分でも、昔はこんなに純粋に笑えていたという事実に救われるように思うから。

 じっと写真立てを見ている雪蝶へ、舞は微笑みかけた。


「……その写真、気に入ってくれたの?」


 雪蝶は視線を舞の方へと動かす。


「そうですね……」


 雪蝶はそう言って、微笑った。その微笑みはどこか切なげだった。

 理由を舞が問い掛ける前に、雪蝶は白い腕をそっと伸ばす。

 伸ばされた人さし指の先には、いつの間にか赤黒い蝶が留まっている。


 飛び立った赤黒い蝶は、重なりを解くかのように数多の赤黒い蝶となった――――

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