07

 舞は、知らない場所に立っていた。

 数多の本棚が並んでいて、窓からは橙色の夕陽が差し込んでいる。どこかの図書館のようだった。


 舞の視界の先には、一人の少年がいた。


 歳の頃は舞と同じくらいだろうか。眼鏡を掛けた、柔和そうな雰囲気の人だった。

 彼は椅子に腰掛け、分厚い本のページをゆっくりと捲っている。はらり、はらり――少年がページを捲る優しい音が、静謐せいひつに響いている。

 ふと、舞は自分が右手に何かを持っていることに気付いた。



 ――――出刃包丁だった。



 銀色の刃に夕焼けの光が届いて、きらきらと輝いている。

 舞は少しの間、魅入られたかのように出刃包丁を見つめていた。

 それから再び、少年の方を見る。

 辺りを見渡しても、彼以外の人間は見受けられなかった。だから舞は、(自分はあの人を殺せばいいのだろう)と確信する。


 一歩を踏み出した。舞は少しずつ、少しずつ彼の元へと近付いていく。

 動悸が荒くなっていくのを感じた。ずっと満たされることなどないと思っていた衝動が満たされる瞬間が、もうすぐやってくる。期待と緊張で心が千切れてしまいそうだった。ぎゅっと、背中の後ろに隠した出刃包丁の柄を強く握りしめた。

 やがて、舞が少年の側に立ったとき。



 少年の黒い瞳が、眼鏡越しに舞の姿を捉えた。



 しまった、と舞は思う。真っ直ぐに歩いてきてしまったことで、彼女が今いるのは少年の背後ではなく真横だった。明らかに初歩的なミスをしてしまい、舞の表情が焦りを帯びたと同時に、



 …………少年の表情は、温かな微笑みへと移ろった。



 それはどう見ても、ように感じられて。

 舞は戸惑う。

 少年は、薄い色合いの唇を開いた。


「舞……びっくりした」


 舞は目を見開く。

 名前を知られている?

 何故?

 私はこの人の名前はおろか、他の何一つさえ知らないのに?

 どうして?

 頭の中が疑問でいっぱいになっていく。


 でも、それを遮るかのように――衝動が、肥大化していった。

 考えてみるとどうでもいいような気がした。舞にとってこの少年はこれから肉塊と化すだけの存在なのだ。

 舞の口角が、上がる。


「どうしたの、舞…………」


 そこからは一瞬だった。舞は少年の左胸を出刃包丁でぶすりと刺した。柔らかな肉の感触が伝わってくる。真っ赤な血がとろとろと溢れ出す。少年は何が起きたかわからないようで何度も瞬きを繰り返していた。舞が出刃包丁を抜くと、鮮血がぶしゃあと舞った。少年はようやく何が起きたかを少し理解したようだった。少年は力が抜けたかのように床へと崩れ落ちる。黒い瞳は段々と輝きを失って、透明な涙が溢れ出していった。


「なん、で…………ま、い…………」


 口からも血液を零しながら少年は舞へと問い、そうして目を閉じた。

 動かなくなった少年を、舞は何も言わずに見つめていた。

 舞は、少年の姿がぼやけていくことに気付く。

 どうしてだろうと思っていると、頬に温かな液体が流れ落ちているような心地がした。不思議に思った舞は左手でそれを拭う。どうやら自分の目から出ているようだった。


 …………涙?


 舞はようやく、自分が泣いていることに気が付いた。理由がわからないのにぼろぼろと涙が溢れて止まらない。悲しむ資格なんてないはずなのに、むしろ自分は今充足しているはずなのに……嗚咽おえつを漏らしながら、舞は少年の亡骸なきがらの側で暫く立ち尽くしていた。


 ◇


 気付けば舞の視界に広がるのは、夕暮れの図書館ではなくて見慣れた自室だった。

 先程までの動きにつられるかのように左手が頬へと動いて、でもそこにあるのは少し乾燥した肌だけだった。舞はもう出刃包丁を持っていなかったし、浴びたはずの返り血も綺麗さっぱりなくなっていた。

 ぱちぱちぱち、という音が聞こえる。舞が振り向くと、雪蝶はベッドの縁に脚を組みながら腰掛けていて、浴衣の袖から見える白い手で拍手をしていた。


「…………素晴らしかったです、舞」


 雪蝶はうっとりとした声音で、そう言う。彼女の表情は余りにも嬉しそうで、心の底から感動しているかのようだった。


「本当に素晴らしかったです……やはり貴女には血が恐ろしいほど似合う……本音を言えば鮮血がもっと濁りを帯びるまで、貴女を見ていたかったのですが……ふふふ、ふふ」


 雪蝶は堪えきれなくなったかのように笑い声を零す。何だか不気味だと舞は思った。ふふふふふふふふふふふふふ、という声が部屋の中に響いている。

 そんな雪蝶へ、舞は数秒逡巡しゅんじゅんしてから「……聞きたいことが、あるの」と告げた。

 雪蝶ははっとした様子で笑うのをやめて、微笑みながら首を傾げる。


「聞きたいことですか? 一体何でしょう、舞?」


 自分とそっくりな顔を見つめながら、舞は目を伏せて問う。



「…………あの男の子は、誰なの?」



 舞が確かに殺した、眼鏡を掛けた少年。

 記憶を辿っても、少しの欠片も思い出せない。出会ったことなどないはずだ。それなのに何故か胸騒ぎがした。あの少年は自分の名前を知っていた。殺されたときに「なんで」と口にした。どうして……?

 雪蝶は組んだ脚の上で頬杖をつきながら、柔らかく微笑んだ。


角井つのい廉斗れんと


 つのい、れんと。

 名前を聞いても舞には何の心当たりもない。その名前は舞の記憶の中に存在しない。


「誰、よ…………」


 顔の辺りに手を添えながら、弱々しい声音で言う舞に。

 雪蝶はすっと立ち上がると、にこやかに笑った。



「本当にそれを聞きたいのですか?」



 そう尋ねられ、舞は思わず何も言えなくなってしまう。

 雪蝶は真っ赤な蝶の髪留めを淡く揺らしながら、「勿論もちろんご説明は可能ですがお勧めしません」とうたうように口にする。


「……私はね、貴女に〈高位の存在〉となってほしいのですよ……それ踏まえた上で、貴女は知りすぎない方がいいと思っているのです……ちなみに、一つ申し上げるとするならば……彼は、です。ですから、より、どうでもいいのですよ」


 そう言って、雪蝶は赤い唇を引き結ぶ。

 舞は少しの間黙り込んでいた。

 知らないことを怖いと思った。でも、それと同時に、知ってしまうことも怖いとわかってしまった。だってそうでなければ、目の前の雪蝶はすらすらと教えてくれるはずだ。

 舞はぎゅっと唇を噛んで、そうして口を開く。


「わかった……説明しないで、いい……」


 その言葉に、雪蝶は舞へと顔を近付ける。

 雪蝶から漂う血のような香りが、少年の死の匂いを思い出させた。


「いいですか、舞……私は貴女を愛していて、貴女の絶対的な味方だということを、どうかお忘れなく……」


 言い終えると、雪蝶は赤黒い蝶を残像として残しながら姿を消した。

 舞は息を漏らすと、のろのろとベッドに潜り込む。


 布団を被りながら目を閉じていると、死んだ少年の姿がありありと思い出された。

 舞は目を開き、右手を顔の近くに持って行く。

 出刃包丁を胸に刺した感覚を覚えている。柔らかな肉体を壊したのはどうしようもなく甘美で、けれど自分が取り返しのつかない行動をしてしまった心地も強くあって、気分はぐちゃぐちゃだった。


 舞は自身の身体を掻き抱きながら、取り敢えず夢の中へと逃避することを選んだ。

 願わくばそれが、今朝のような恐ろしい夢ではなく、仮初めでも構わないからぬるい風呂のような幸福さを伴っている夢であってほしいと思いながら――――

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