二章 始まり
06
幼い舞は蟻を殺していた。
幼稚園の園庭で、遠くの餌を巣へと運ぼうとする蟻の行列から一匹ずつ手で捕まえて、親指と人さし指で挟み込むようにして潰す。
「まいちゃん、なにしてるのー?」
背後から声を掛けられて振り向くと、そこには三人のクラスメイトが立っている。
舞は笑いながら、ばらばらになった蟻の
「ありさん、つぶしてるの! みんなも、いっしょに、つぶそうよ!」
返ってきた反応は、舞の予想とは百八十度異なるものだった。
「え……ひどい! ありさん、かわいそうだよ……!」
「そういうことしちゃ、いけないんだよ!」
「せんせいに、いっちゃおー」
三人のクラスメイトは舞に背中を向けて、逃げるように走り去っていく。
舞は呆然と、瞬きを繰り返していた。
「…………舞さんは、そういう人だったんですね」
また後ろから声がして、舞はばっと振り返る。
そこには雫莉が立っていた。舞は驚いて、尻餅をついてしまう。
「見損ないました。わたし、舞さんは尊い人だと思っていたのに」
園庭は薄暗い世界へと変貌し、幼かったはずの舞は高校一年生の舞になっていた。
舞は立ち上がって、「ちが……違うの……!」と叫ぶ。
「何が違うんですか?」
「違くて、私はただ……こうしないと生きることができない人間で……」
ふうん、と雫莉は綺麗な目を細めた。
「……だとしたら、気持ち悪いです」
「ま、待って、雫莉っ……!」
舞は雫莉を追い掛けようとするが、何かに足を取られて転んでしまう。
まるで、引っ張られているような――――
恐る恐る、舞は自分の足を見た。
数え切れないほどの虫の死骸が、舞の足に付着している。
舞は言葉にならない悲鳴を上げる。
数多の虫の死骸に混ざるように、一羽の烏の死骸がそこにあった。
濁った黒い瞳が恨めしげに舞のことを見つめていて、
…………舞の意識は、掠れていった。
◇
舞は飛び起きた。
はあ、はあと荒い呼吸を繰り返す。冬だというのに身体中が汗ばんでいて不快だった。
取り敢えずカーテンを開くと、朝の光が部屋の中に差し込んだ。時計を見れば午前八時八分を示している。舞は表情を歪めながら、右手を顔の辺りに添えた。
「嫌な夢…………」
溜め息をついた瞬間、枕元に置いていた携帯が軽やかな音楽を流して、舞はびくりと身を震わせる。
携帯を充電器から引っこ抜いて画面を見ると、「
夢の中で向けられた雫莉からの眼差しを思い出し、苦しい気持ちになる。それを振り払うように首を横に振ってから、舞は雫莉からの電話に出た。
「……もしもし、雫莉?」
『もしもし、舞さん。おはようございます』
携帯越しに聞こえた雫莉の声は、いつものように優しく澄んでいた。
その事実に密やかに安堵を覚えながら、舞は「おはよう。何かあったの?」と尋ねる。
『明日の集合時刻を決めていなかったなと思いまして。午前十時でどうですか?』
「ああ、全然構わないけれど……それなら、メッセージでもよかったのに」
『舞さんの声が聞きたくなってしまったんです』
そう告げられて、舞はどきりと心が跳ねたような感覚を覚える。
雫莉の言葉はいつだって真っ直ぐだ。どうしてかその直球さに、舞は自分が
こんな気持ちを覚えるのは雫莉に対してだけだ。
きっと衝動の副作用だろうと、舞はそう考えている。雫莉は恐ろしく混じり気のない綺麗な人間だから、そのように感じてしまうのだろうと……
『…………舞さん?』
雫莉に名前を呼ばれ、舞ははっとなる。
「ああ、ごめんね、何でもない……ありがとう。私も、貴女の声が聞けて嬉しい」
『本当ですか? 両想いですね』
「もう……一々、
呆れたように笑いながらも、舞は確かな充足感に包まれていた。
『それでは、また明日。とても楽しみです』
「うん、また明日ね。私も楽しみよ」
『また、両想いですね』
その言葉を最後に、電話は切れる。
音声を発しなくなった携帯を、舞は少しの間名残惜しそうに見つめていた。
「舞」
聞き覚えのある声がして、舞はばっと顔を上げる。
目と鼻の先に雪蝶がいた。
余りにも顔が近いものだから、舞は驚きの声を漏らしてしまう。
「おはようございます、舞」
「おは、よう……雪蝶さん」
「さん、など不要ですよ。どうか雪蝶とお呼びください」
雪蝶の微笑みにはどこか強要の影が滲んでいた。その圧に押され、舞は雪蝶から目を逸らしながら「…………雪蝶」と口にする。
雪蝶は嬉しそうに、真っ赤な唇をつり上げた。
「うふふ、どうもありがとうございます……それで、舞。〈階層試練〉への心の準備は、よろしいですか?」
そう尋ねられ、舞は微かに目を見開いた。
昨日提案されて受け入れたこととはいえ、まだ確かな実感が湧いてはいない。非現実的な概念だからか、まるで夢のように
冷静な自分がささやく。
別の世界だとはいえ、人を殺すことを受け入れていいの……?
…………でも、七人殺せば、
救われる…………
舞は雪蝶を見据えて、ゆっくりと頷いた。
雪蝶は胸の前で両手を合わせ、「……それは何よりです」と微笑んだ。
ぶわりと、雪蝶の身体から一瞬にして生まれたかのように、赤黒い蝶が舞い踊る。
数多の蝶に包まれる舞の意識は、すっと消えていった。
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