05

 二人の間に訪れた静寂に、どこか遠くで鳴いている鳥の声が際立つ。

 やがて、舞が口を開いた。


「それって、つまり……まだ〈高位の存在〉ではなくて、人間でいるときに、殺せってことよね」

「ええ」

「そんな……無理、よ。だって、貴女の言う〈高位の存在〉になった後ならまだしも、人間のときに行うのは、色々と問題があるじゃない……」

「ああ、舞……貴女は勘違いをしていると思うのですが、何もよ?」


 雪蝶の言葉に、舞はいぶかしげな表情を浮かべる。


「この世界じゃない、って……だとしたら、どこの世界なの?」


 雪蝶は、美しく微笑った。


「〈裏側うらがわ並行世界へいこうせかい〉です」


 うらがわの、へいこうせかい。

 舞はその概念を、脳内で少しの間反芻はんすうする。

 そうして、困ったように眉をひそめた。


「並行世界、って……その、所謂いわゆるパラレルワールドのこと?」

「ええ、そうです……これは人間にはまだ証明できていないことですが、どんな世界にも〈裏側の並行世界〉が存在するのですよ。〈裏側の並行世界〉から見れば、その世界は〈表側おもてがわの並行世界〉ということになるのです」


 雪蝶は両手の人さし指を立てて二つの世界に見立てながら、そう説明する。


「私たち〈高位の存在〉は、数多の〈並行世界〉を渡り歩き、干渉することができる――その権限を活用して、貴女の意識を〈裏側の並行世界〉に移し、そこで殺人を行っていただきます。あ、勿論もちろん何らかの邪魔が入ることはないように完全な調整を施しておきますので、その点に関してはご心配なさらず」


 雪蝶はそう言って、両手をすっと下ろす。

 舞は頭がくらくらするのを感じながら、取り敢えず一つの疑問を口にした。


「何だかそれって……回りくどくない? だって要は、貴女はこの世界にも干渉できるんでしょう? そうだとしたら、わざわざ別の世界に意識を移すのは何故……?」

「ふふ、理由は主に二つです。一つ目は、〈高位の存在〉になれば遍く〈並行世界〉を移動することとなるので、その下準備という意味合いで。二つ目は、先程の舞の反応もそうでしたが、自分が住んでいる世界を壊すということに抵抗を持つ者はやはり多いため、その抵抗感を薄くするという意味合いで。……ね、理にかなっているでしょう?」


 淡く笑った雪蝶に、舞は目を閉じながら「なるほど、ね……」と言って頷いた。

 雪蝶から受けた説明を、一つずつ頭の中でゆっくりと繰り返していく。

 どくんと、心臓が脈打ったのを感じる。

 雪蝶の言葉が真実だとしたら。

 つまり、舞は。

 これから何かに阻まれることなく、別世界の七人の人間を殺すことができる。

 それだけではなく、その七人を殺し終えれば、後は幾らでも殺生を許される存在となる……


 ようやく受け入れることができ始めた現実に対して、心臓がうごめいて堪らなかった。自分の今までの不幸はこの瞬間のためにあったのかもしれないと思った。やっと長年にわたる苦しみから解放される。渦巻いていた衝動が深く満たされる。幸せに、なれる――――


 勿論、背徳感や緊張感も確かに背筋を這っていた。

 でも、それよりもずっと……安堵していた。

 気付けば舞は微笑んでいた。母親の腕の中に包まれた乳児が浮かべるような、安心感に満ちた優しい微笑みだった。


「…………私、その〈階層試練〉を受けて、〈高位の存在〉になりたい……」


 舞が、口を閉じる。

 ……それは一瞬だった。

 舞は僅かな時間、自分に何が起こっているかを理解できなかった。

 血のような香りに包まれていた。とても強い力で腕を回されていた。


 舞は雪蝶に、抱きしめられていた。


 雪蝶の身体はこの季節に相応しい冷たさだった。二人を囲うように赤黒い蝶たちがゆらゆらと舞っている。舞はどこか呆然としながら、雪蝶にされるがままになっていた。


「…………赤黒い、蝶…………」


 雪蝶は舞の耳元で、そうささやいた。


「…………舞。貴女がそう言ってくれて、私はとても、嬉しいのですよ……」


 雪蝶の声はどこか震えていた。舞の視線の先に、夕暮れの空が見える。その橙色は何だか、儚くて……雪蝶の声の響きに似ているように、舞は感じた。

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