03

「お待たせいたしました」


 やってきた若い男性店員のそんな言葉と共に、舞の前にブラックコーヒーが、理聖の前にロイヤルミルクティーがそれぞれ置かれる。


「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」

「はい」

「ごゆっくりどうぞ」


 店員は笑顔を残して去っていった。舞がブラックコーヒーに口を付けると、理聖がふふっと笑う。


「相変わらず、苦いものも得意なのね。わたしはミルクとお砂糖を入れないと飲めないわ」

「舌だけ大人なんです」

「あら、龍ヶ世さんは同年代の子に比べると随分と大人びていると思うわよ」

「あはは、相変わらず夏野先生は褒め上手ですね」

「ふふ、そんなことないわよ」


 理聖は否定しながら、ロイヤルミルクティーに口を付ける。

 ことりとテーブルに置いてから、彼女は「……それで」と言った。


「最近、調子はどう? 何か困っていることがあれば、遠慮なく教えてほしいわ」


 理聖の優しい眼差しに、舞は気付けばぽろぽろと本音を零してしまう。


「相変わらず、酷くて……一日に少なくとも一度、何か生き物を殺さないと、可笑おかしくなってしまいそうなんです。あはは、もう既に私は可笑しいのかもしれませんけれど……」

「そんなことないわ。たとえ龍ヶ世さんが人と少し違っているからって、それをわたしは可笑しいだなんて思わない。個性の一つだと考えるわ」

「……ありがとうございます」


 理聖の言葉は、いつだって温かい。

 理聖のような価値観を持つことはきっといつまでもできないだろうけれど、それでもその価値観に触れるだけで、舞は安心することができた。


「そういう気持ちを抱えながら生きるのは、辛いわよね……やっぱり、植物とかだと気持ちは収まらない? 以前龍ヶ世さんが言っていたような罪悪感は、そうすれば少しだけよくなるんじゃないかしら」

「だめですね……ほんの少しは収まるんですけれど、どうしても物足りなくて。最近は、虫でも足りなくなってきて……でも、動物には手を出したくなくて」


「そうなのね……そうしたら、こういうのはどう? 市場とかで、食用として売られている生きた海洋生物を購入して、生命いのちを貰うの。『奪う』んじゃなくて、『貰う』と考えるのが大事なんだと思うわ。貰った後は、しっかり食べる。そうすれば、龍ヶ世さんがこれからも生きていくためという意味も生まれるし、虫よりも充足感があると思うの。ね、どうかしら?」


 理聖の提案に、舞は数度瞬きしてから、「……いいかもしれません」と微笑う。


「ただ、市場が龍ヶ世さんの家の近くにはないし、お金も掛かるというのが難点ね……それでも、たまにそうしてみることで、今よりも楽になるかもしれないわ」

「そうですね……ありがとうございます、夏野先生」

「ううん、全然気にしないで。……ねえ、龍ヶ世さん。仮に、仮によ?」


 理聖はそう言って、真剣な眼差しで舞を見据える。


「もしも龍ヶ世さんが、いつかその気持ちを我慢できなくなって、人から生命いのちを貰わずにはいられなくなったら……そうしたら、わたしに連絡して」

「え……?」


 驚きの声を漏らした舞に、理聖は優しく微笑んだ。



「――――そのときは、わたしの生命いのちをあなたにあげるから」



 舞は呆気に取られたように、瞬きを繰り返した。

 それから、ぶんぶんと首を横に振る。


「だっ、だめですよ……それに私、夏野先生のこと、……殺したくないです」

「うん、勿論もちろんわかっているわ。でも……少し、楽にならない? 『誰のことも殺してはいけない』ではなくて、『一人殺してもいい人間が存在する』って考えられるだけで」


 理聖は目を細めながら、慈しむように言う。

 舞は少しの間沈黙して、そうして淡く口角を緩めた。


「……夏野先生は、変な人です」

「そうかしら? 龍ヶ世さんも人とは違うところがあるし、変わり者同士で嬉しいわね」


 笑いながら告げられた理聖の言葉に、舞も思わず笑ってしまった。


 ◇


 理聖と別れ、舞は地元へと帰ってきた。

 夕陽に照らされて濃い橙色に染まった道を、彼女はポケットに手を突っ込みながら歩く。

 理聖と話して、気分はそこそこよくなったけれど、やはり衝動は収まらない。

 また昨日のように、自然公園に向かおうか……そう考えた彼女の視界に、



 ――――一匹の赤黒い蝶が映り込んだ。



 今までの人生で一度も目にしたことのない蝶だった。まるで御伽話おとぎばなしに登場する蝶のように綺麗な模様をしていて、赤色と黒色の鱗粉りんぷんを零しながら、舞の周りをゆっくりと羽ばたいていた。

 余りにも美しい、生命いのちだった。

 気付けば舞は、その蝶へと手を伸ばしていた。

 けれどその手は空を切る。蝶は少し遠くへと飛んで、それからまるで、一部分に留まった。

 舞は引き寄せられるようにして、その蝶を追い掛け始めた。




 ……五分ほど、赤黒い蝶を追い掛けた頃。

 ずっと移動していた蝶が、ようやく動きを鈍らせる。

 機会が訪れた――そう思い、舞が口角を上げたとき。

 視界にもう一匹の、赤黒い蝶が入り込んだ。

 淡く目を見開いた舞の側に、三匹目、四匹目、五匹目、六匹目、七匹目、八匹目……数えることすら億劫おっくうになるほどの赤黒い蝶が集まってくる。


「…………え、……え」


 舞の動揺など気にも留めた様子もなく、おびただしいほどの蝶が密集していき、段々と蝶たちがつくりだすシルエットが人型のようになっていって――――



 ――――数多の蝶がいたはずの場所に、舞によく似た少女が現れた。

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