02

 カーテンの向こうに夜空が広がる頃。

 舞は父親のとおる、母親のさきと夕ご飯を食べていた。

 食卓には白米、漬物、卵焼き、焼き魚、味噌汁といったメニューが並んでいる。咲は料理が上手く、こうした和風の食事は勿論もちろん、洋風や中華風というような様々なレパートリーがあった。


「……舞。最近、高校はどうだ?」


 透の質問に、舞は柔らかく微笑う。


「楽しいよ。今日も雫莉と一緒に帰ってきたんだ」

「舞は本当に、雫莉ちゃんと仲がいいわよね」


 微笑ましそうに言った咲に、舞はほのかに目を伏せる。


「……うん。雫莉が優しいから」

「舞だって優しいじゃない」

「そうだな。舞は優しくて強い子だ」


 うんうんと頷き合う両親に、舞は密やかに歯を噛み締めた。

 己の本質を未だ二人に隠し通すことができていることに安堵を覚えると共に、全てを話すことができたらどんなに楽だろうかとも思った。けれど舞は絶対にその選択をする気はない。……。こんなにも普通の人たちから、どうして自分のような化け物が生まれてしまったのかと疑問を覚えてしまうくらいには。


 歪みなど見せたくない。大切な人に理解されない苦しさを容易に想像できるから。

 だから本心はひた隠しにして、舞は綺麗に微笑う。


「…………ありがとう、お父さん、お母さん」


 せめて感謝の言葉だけは、異常であっても紡ぎ続けたいと感じた。




 高層マンションのベランダで夜空を見ながら、舞は雫莉が焼いてくれたクッキーを食べていた。

 さくりとひと齧りすると、優しい甘さが口の中いっぱいに広がる。


「……美味しい」


 舞はそう、ひとりごちた。

 夜空はどこまでも澄んでいた。都会だから星は少ししか見えないけれど、むしろその淡い光が美しさを感じさせる。

 ずっと眺めていると、舞の瞳にじんわりと涙が滲んでくる。


 最近、綺麗なものを見ると泣いてしまう。情緒が不安定になりやすい夜という時間帯は特に。彼女は自身の衝動を汚れていると蔑み、憎んでいた。でも、どれだけ蔑んでもどれほど憎んでも、その衝動が消えることはなく、むしろ昔よりも肥大していた。だから彼女は自身の衝動と相反するような美しいものを愛していて、……そして美しいものを壊したいと心の奥底では願っている。尊い生命いのちを殺したいと、深く強く祈っている。


 涙で濡れたクッキーは塩辛い味がした。それでも、本当に美味しかった。

 全て食べ終えたら、眠ろうと思った。


 明日が訪れ、に気持ちを吐き出せば、少しは楽になるだろうから――――


 ◇


 翌日の昼下がり、舞は電車に揺られていた。黒のダッフルコートに無地のスカートを合わせて、厚手のタイツと黒のブーツを履いている。ファッションには疎い気質で、できることなら休日も高校の制服で過ごしたいと思っているのだけれど、人と会うとなればそういう訳にもいかなかった。

 彼女はコートのポケットに入れていた携帯を取り出して、手慣れた動作でメッセージアプリを起動する。


〈クッキー、すごく美味しかった〉

〈ありがとうね〉


 そう送ると、すぐに雫莉からの返信が来た。彼女はいつも返事が早いのだ。


〈何よりです〉

〈またつくるので、楽しみにしていてください〉


 舞は〈ありがとう。楽しみ〉と送信する。

 会話はそれで終わった。分量も絵文字や顔文字もない、とても簡素なやり取り。

 でも、舞は雫莉とそういうやり取りをする時間が幸せだった。

 携帯から目を離すと、舞の視界に何人もの人間が映る。


 人、人、人、人、人…………人、肉、肉、人、肉…………肉、肉、肉、肉、肉…………


 舞は首を横に振る。それからぎゅっと目を閉じて、どうでもいい下らないことを考えることを己に課した。そうでもしていないと、……可笑おかしくなってしまう。

 電車のアナウンスが流れる。目的の駅まで後二駅のようだった。

 太腿の上に置いた両手を強く握りしめて、早く到着してほしいと願った。


 ◇


 到着したのは待ち合わせの十分前だったけれど、既に相手は改札の前に佇んでいた。

 赤茶色の髪をシュシュでサイドテールにした、柔和な雰囲気の女性だ。ライトグレーのロングコートとライトブラウンのブーツの間からは、黒いズボンが覗いている。顔には丁寧に化粧が施されていて、耳たぶにはきらりと金色のイヤリングが光っていた。


 彼女は舞の姿を見ると、微笑みながら手を振ってくれる。

 舞は小走りで、彼女の元へと辿り着いた。


「龍ヶ世さん、こんにちは」

「こんにちは……夏野先生」


 女性――夏野なつの理聖りせは、舞に向けて優しく笑う。


「居心地のいいカフェを予約してあるの。早速行きましょうか」

「はい……ありがとうございます」


 舞も、理聖へと笑いかける。

 二人は並んで歩き出す。

 理聖と共にいることは、他の誰からも得ることのできない安心感があった。


 ――――彼女はこの世界で唯一、舞の衝動について深く知っている人間だから。


 ◇


 舞と理聖の出会いは三年前、中学一年生の頃の春にまで遡る。




 理聖は、舞がかつて通っていた中学校の養護教諭だった。

 四月、入学したてだった頃の舞は、体調不良で早退するために保健室を訪れた。

 しかし、そこには誰の姿もなかった。恐らく先生は、何らかの用事で席を外しているのだろう――そう思いながら、熱っぽく怠い身体で用意されているソファに腰掛ける。

 そんな舞が、ふと床の方を見ると。


 一匹の大きな黄緑色をした芋虫が、のろのろと這っていた。


 恐らく外から迷い込んでしまったのだろう。唐突に目の前に現れた生命いのちに、舞は自身の血流が一気に速まったような感覚を覚える。……殺したくて、堪らなくなる。

 現在の舞であれば、リスクを考えて我慢しただろう。けれどそのときの舞は、今と比べて幼かった上に頭もぼんやりとしていて、気付けば立ち上がって芋虫を踏み付けていた。ぶちり、と芋虫の身体が潰れた感触が上履き越しに伝わる。舞は酷く高揚して、芋虫をすり潰すように足を動かした。


 それから少しして、入り口のところに女性が立っていることにようやく気付いた。

 白衣をまとっているから、養護教諭の女性だとすぐにわかった。

 舞は焦って芋虫から足を離してしまう。死骸からは緑色の血液が漏れて、明かりに照らされててらてらと輝いていた。女性の目が見開かれる。

 見られてしまったという事実に強くショックを覚え、気付けば舞はぼろぼろと泣いていた。体調が悪いことで、心の方も調子が乱れていたのかもしれない。


「う…………うう、う…………」


 両手で顔を覆いながら、舞は嗚咽おえつを漏らす。

 校内に悪い噂を広められたらどうしよう、折角できた友人からも距離を置かれてしまうかもしれない、そしてもしも両親にまで伝わってしまったら――一気に悪い想像が頭を駆け巡り、涙が止まらなくなる。

 暗い視界の中で、舞は自分が柔らかな温もりに包まれたのがわかった。

 恐る恐る顔から手を離す。


 舞は、女性に抱きしめられていた。


 その事実に呆然としていると、「大丈夫よ、大丈夫」という言葉が降ってきて、さらに呆然としてしまう。優しくされているのだ――そう気付いた舞は、また大粒の涙を目から溢れさせた。


「もしかして、何か悩んでいるのかしら……そうだとしたら、わたしが相談に乗るわ。新入生の子? よければ、名前を教えてくれない?」


 女性の言葉が余りにも温かくて、舞は泣きながらそれに応えた。


「……龍ヶ世、舞」

「龍ヶ世さんというのね。わたしは、夏野理聖。よろしくお願いします」


 理聖はそう言って、舞の頭を撫でながらそっと微笑む。

 ……それが、舞と理聖の出会いだった。




 そうして舞は他の中学生よりもずっと多くの時間を、保健室で過ごすこととなる。

 春、夏、秋、冬――理聖はどんなときも長袖の白衣に身を包んで、温かく舞のことを出迎えてくれた。

 四度目の春が訪れようとする頃、舞は晴れて中学校を卒業する。

 そのとき交換した理聖との連絡先は、今も舞の携帯にお守りのように眠っていた。

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