一章 高位の存在

01

 舞は、冬の朝の教室で浅い眠りについていた。


 騒がしいクラスメイトの声をどこか別世界のことのように感じながら、机の上に突っ伏している。重たい印象を受ける黒色の長髪は彼女の背中の殆どを覆っていて、窓から差し込む陽の光によってほのかにきらめいていた。


 そんな彼女の席の前に、一人の女子生徒がそっと立つ。


 つやのある長い茶髪を、鈴蘭をモチーフにした髪留めで一つにまとめた少女だ。

 とても綺麗な顔立ちをしていて、特に目を惹くのは色素の薄い瞳だった。ずっと見つめていると吸い込まれてしまいそうな、奥行きを感じさせる美しさだった。


「……舞さん」


 彼女は、どこか湖を想わせる澄んだ低温な声で、舞の名前を呼ぶ。

 舞はすぐに起きて、目を擦りながら女子生徒へと微笑みかけた。


「雫莉……おはよう。どうかしたの?」


 女子生徒――雫莉は口角を上げて、背中に隠すように持っていた小さな袋を舞に見せる。

 白色のリボンでラッピングされたそれには、焼き上がった数枚のクッキーが入っていた。


「昨日、焼いたんです。舞さんに食べてほしくて」

「昨日、って……学校から帰ってから、お菓子づくりしていたの?」

「そうですよ。わたしの手はね、気付けばお菓子をつくっているんです」

「どんな手よ」


 舞は口元に左手を添えて、可笑おかしそうに笑う。


「こんな手ですよ?」


 雫莉は机の端にクッキーの入った袋を置くと、舞の右手を両手で包み込むように握った。

 滑らかな肌の感触が、ありありと舞に伝わる。少し骨張っているけれど、そこには確かな、柔らかながあった。

 きっと、その奥には――――


「…………舞さん? どうかしましたか?」


 名前を呼ばれて、舞ははっとなる。

 雫莉が不思議そうに、舞の顔を覗き込んでいた。

 その距離の近さに、舞はばっと顔を背ける。


「……近い、雫莉……」

「ああ、本当ですか? すみません、つい癖で」


 雫莉は楽しそうに微笑いながら、舞から少しばかり顔を離す。


「いいのよ、別に……クッキー、どうもありがとう。家に帰ったら食べるね」

「嬉しいです。感想、楽しみにしていますから」


 雫莉はそう言って、舞に背中を向けて自席に戻っていく。

 茶色の毛束が淡く揺れる後ろ姿を、舞は見つめていた。


 ◇


 ――――端的に言うと、舞は秀才だった。


 数学の授業中、先生に名前を呼ばれ問題を解くよう指示されれば、黒板の前に立ってすらすらとチョークを走らせ、完璧な解答を書き上げる。

 体育の授業にて、千メートルの持久走が課されたときは、二位に圧倒的な差を付けて女子生徒二十二人中一位を獲得する。

 文武両道というだけではなく、困っている生徒を廊下で見掛ければすぐに手を差し伸べ、学級委員や掃除当番といった責務も丁寧にこなす。


龍ヶ世りゅうがせ舞」という名前を聞けば、殆どのクラスメイトが彼女を賞賛するだろう。


 ……そして、それは雫莉も例外ではなかった。




「舞さんは今日もすごかったですね」


 放課後、しんと冷え渡った道を、舞と雫莉は並んで歩いている。

 白色のマフラーで口元の辺りが隠れた雫莉が放った言葉を、舞はどこか決まりが悪そうに受け取った。


「……そんなことないの。本当に、全然、そんなことないのよ」

「そうですか? わたしはすごいと思いますよ。舞さんは尊い人間です」


 雫莉はうっすらと笑いながら、そう告げる。

 彼女の瞳はどこまでも無垢だった。心の底からそのようなことを思い、それを他の言葉で飾ることなく、ただそのまま口にする――雫莉がそういう稀少な人間であることを、舞はよく理解していた。


「舞さんと出会えて、わたしは幸せです」


 雫莉はそう言って、舞を見つめる。

 その、ほんの僅かな混じり気すらない美しい瞳が、舞には羨ましくて堪らない。


「……どうしたんですか?」


 尋ねられて、舞は自分の右手が無意識のうちに彼女の顔の方へと伸びていたことに気付く。


「あっ、いや、これはね……」

「触れたいんですか? いいですよ」


 驚く間もなく、雫莉は両手で舞の右手首を優しく掴むと、自身の頬にあてがった。


「……柔らかいでしょう?」


 淡く首を傾げながら、雫莉は白い息を吐いて微笑んだ。

 舞は少しの間硬直して、それからばっと雫莉から手を離す。

 雫莉は数度瞬きして、そうして「気に入ってもらえませんでしたか」と残念そうに笑った。


「違、くて……ちょっとびっくりしちゃったの……」

「そうでしたか。舞さん、可愛いです」


 雫莉はくすりと笑いながら、いつものように躊躇ためらいなく本心を零す。


「かっ……可愛くなんて、ない!」

「その反応も可愛いですよ?」

「もうっ……馬鹿にして……」

「少しも馬鹿になんてしていないのに」


 舞はねたように、歩く速度を少しばかり速める。


「待ってくださいよ、舞さん」


 雫莉も負けじと付いてきて、やがて二人は追い掛けっこをするかのように走り始めた。


 ◇


「またね、舞さん」


 高校からの最寄駅の前で、雫莉は舞へと手を振る。


「うん……月曜日、楽しみにしているから」

「嬉しいです。わたしも、とても楽しみです」


 二人は祝日である明々後日しあさっての約束を確認し合うと、微笑み合った。

 雫莉は舞に背中を向けると、駅のエスカレーターを一人で昇っていく。

 雫莉の姿がやがて見えなくなって、舞は深く息を吐いた。



「…………どうにか、しなきゃ」



 舞はぽつりと呟いて、早足で道を歩き出した。




 舞は落葉樹が数多く生えている自然公園に、足を踏み入れる。

 特に人の姿は見受けられなかった。その事実に強く安堵しながら、落ち葉の絨毯じゅうたんの上で舞はそっと屈んだ。

 それから、一枚ずつ……落ち葉を、捲っていく。

 捲っては戻し、捲っては戻しを繰り返す。舞の息は段々と荒さを帯びていく。虚ろな黒い瞳はただ落ち葉だけを映している。

 やがて一つの落ち葉を捲って、舞の手はぴたりと止まった。

 彼女の口角が、つり上がる。



 ――――落ち葉の裏には、びっしりとてんとう虫が付いていた。



 寒いのだろう、固まるようにしてかれらは冬を越そうとするのだ。

 舞は優しく、てんとう虫の付いていた方が外気に触れるように、落ち葉を地面に置いた。

 それから、そっと足を近づけた。

 …………踏む。

 全ての体重を掛けるようにして、てんとう虫を潰す。

 ぷちぷちぷちぷちぷちぷちぷちぷちぷちぷち。

 瞬く間に、生命いのちが壊れていく。


「あはは…………はは、あはははは、」


 舞は抑えきれなくなったかのように、笑い声を零す。

 震えた笑い声だった。とても嬉しそうで、でもとても悲しそうな……そんな、響きだった。


 暫くして、舞は地面から足を離した。

 てんとう虫の死骸からは黄金色の血液がどろりと溢れている。舞の心臓がどくんと脈打った。その事実に気付いた舞は、すっと笑うのをやめて口角を深く歪める。


「…………普通に、」


 両手で顔を覆って、彼女は何かに縋るように言葉を紡ぐ。



「普通に、なりたい…………」



 吹いた寒風に攫われるように、彼女の言葉は消えていった。

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